鬼ノ口城
鬼ノ口城([発心城 周辺城郭])
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鬼ノ口城の口コミ情報
2025年11月22日 龍馬備中守【】
福岡県八女郡の広川町水原にある【鬼ノ口城】♪別名を甘木城とも呼びます。東は刑部谷の諸山をもって、八女市上陽町を境に、南は長峰丘陵を持ち八女市に接し、西は筑後市、北は久留米市に界する、耳納山系に囲まれた、通称・広川谷と呼ばれる、広川盆地をなす地域であります。発心山に源を発する広川が東から流れ、その流域に細長い盆地性の平野を作り出し、筑後川に注いでいます。この広川沿いの氾濫原を利用して、集落を成し、更には城を構えて、人々は生活を営みました。この地域は、石器縄文式土器、焼米の出土品が示すように、相当古くから人々の生活が営まれていて、稲作農業が展開してきた事が考えられています。大和朝廷による国家統一とほぼ時代を同じくする古墳文化も、石人山古墳をはじめ、岩戸山古墳、人形原古墳群など、遺跡が多く発見されており、この地域の開発が順調に進められた事が想像出来ます。
日本書紀には、景行天皇が熊襲を征伐した後、当地に巡幸になり、その折『八女』の名が起こったとされます。『広川』の名称が現れるのは、天承元年(1131年)崇徳天皇の代で『広川荘』となり、その後に上の荘、下の荘に分かれ、現在の広川町は上の荘に属しています。
さて、この鬼ノ口城ですが、城主は甘木氏となります。この甘木氏は、筑後・西牟田氏の分流です。主家である西牟田氏は、伊豆三島を本貫地とする家柄で、幕府の命を受け、嘉禎年中頃(1235年〜1238年)に筑後国三瀦郡西牟田村に地頭として来住し、堡を築き、村の名前の『西牟田』を姓として名乗っています。その後、応仁2年(1468年)西牟田重家の弟である西牟田家恒が、上妻郡甘木村を拝領して分家し、甘木村の馬場に拠点となる居館を構えています。そして、甘木の地名から甘木氏を名乗っています。
甘木家恒以降の甘木氏の資料は乏しく、調べきれていませんが、甘木氏5代目の甘木家棟と、その子・甘木安家は、天正6年(1578年)耳川の戦いに大友方として出陣しています。 『九州治乱記』によると、筑後の諸将たちは、天正6年(1578年) 10月2日に出発し、同24日に高城周辺に着陣したと伝えています。この時、甘木親子には、甘木家の重臣12人が随行していて、高橋右京・山田善五兵衛・中島左馬助・有積丹波・橋詰与七郎・中山小太郎・香山民部・掛橋刑部・掛橋与八郎・草場三五郎・姫野久太郎・姫野伊豆などの名前が伝えられています。が、甘木親子と重臣達は悉く討死し、現在は出身の村ごとに、供養塔が祀られています。中島殿の墓・古常殿・塚殿さんなどが、残ります。耳川の戦いの結果は、大友軍の惨敗に終わっています。地の利を把握し、十分に布陣をして待ち受けた、島津軍の大勝利で幕を閉じています。
そもそも、鬼ノロ城の地名として、尾根の口が語源とされています。尾根の口が、いつの間に『鬼ノ口となったのでしょう。その他に残る地名としては、館というものが残り、コレは城主居館で、他にも馬場や掃部谷(鴨谷)、弓場谷(射馬谷)なども、城にに縁のある地名と考えて良いでしょう。
耳川の戦いで討死にした、甘木家棟と安家を継ぐ7代目には、甘木家長が居ましたが、まだ幼子の為に、耳川の戦いには同行していませんでした。耳川の戦いで敗れた豊後大友勢を横に、薩摩島津と連携した肥前龍造寺隆信による、筑後一帯への侵攻が始まります。耳川の戦いから1か月と経たない11月に侵攻した龍造寺勢は、鬼ノロ城へ攻め込んでいます。城を守る甘木家長は、残った家臣らと共にコレを防いでいます。
天正14年(1586年)いよいよ九州覇権を手にしたい薩摩島津の大軍が、筑後に北進してきます。稲員一族の古賀村館を始め、近隣の城ノ尾城や山王山城など、激しく攻められて落城しています。島津勢はその勢いのまま鬼ノロ城へ激しく攻めかかり、鬼ノ口城は落城してしまいました。幼少の城主、甘木家長や姫野左近は城を離れ、肥後国の石村に逃れて、蟄居しています。しばらくして、姫野左近は甘木村へ戻り、甘木家長存命中は、合力米を送り続けています。応仁2年から118年にわたる鬼ノ口城の歴史は、コレにて終焉を迎えています。
城郭は、南北に長く伸びる尾根上の標高147mに立地します。堀切、土塁、石積み、竪堀、虎口など良好に残ります。自然地形も巧みに活かしていて、118年間も在城しただけあり、かなりシッカリした構えになっていました。
慶長5年の関ヶ原の戦い後は、筑後33万石の田中吉政の治世下に入り、元和6年(1620年)からは久留米21万石の有馬氏の所領となり、明治維新を迎えています。









