女山神籠石(ぞやまこうごいし)
女山神籠石の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福岡県みやま市瀬高町大草
旧国名
- 筑後国
分類・構造
- 神籠石式山城
天守構造
- なし
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- 不明
遺構
- 水門、列石
指定文化財
- 国史跡(女山神籠石)
再建造物
- -
周辺の城
-
福島城(福岡県八女市)[7.0km]
鷹尾城(福岡県柳川市)[7.4km]
佐留垣城(福岡県柳川市)[9.2km]
生津城(福岡県久留米市)[9.8km]
蒲池城(福岡県柳川市)[10.4km]
柳川城(福岡県柳川市)[10.5km]
大津山城(熊本県玉名郡)[10.7km]
南関城(熊本県玉名郡)[11.0km]
田中城(熊本県玉名郡)[11.9km]
大間城(福岡県大牟田市)[12.9km]
女山神籠石の解説文
[引用元:Wikipedia「女山神籠石」の項目]
女山神籠石(ぞやまこうごいし)は、筑後国山門郡(現在の福岡県みやま市瀬高町大草)にあった日本の古代山城(分類は神籠石系山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
近年は「女山城(ぞやまじょう)」とも称される傾向にある[1][2][3][4]。本項目では、城域内に所在する山内古墳群(やまうちこふんぐん、国の史跡に包含)についても解説する。
概要
福岡県南部、筑後平野・有明海沿岸部を望む古塚山(標高約190メートル)の西側斜面に築城された古代山城である。文献に記載が見えない古代山城(いわゆる神籠石系山城)の1つで、現在の山名を冠する城名は後世の命名による。城は古塚山に土塁を巡らすことによって構築され、谷部4ヶ所では石塁の水門が構築される。これまでに数次の発掘調査が実施されている。
城跡域は1953年(昭和28年)に国の史跡に指定された。現在では一部が女山史跡森林公園として公開されている。
歴史
古代
女山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、女山城もその1つに比定される。
1981年(昭和56年)の第4次調査によれば、築城時期は7世紀後半頃と推定される。城に関する伝承は知られていないが、かつては邪馬台国の卑弥呼の居地とする説などが挙げられていた。なお、城域内では築城に先立つ6世紀後半頃に山内古墳群が築造されているほか、女山中腹では銅矛2本の出土も知られる。
近代以降
近代以降については次の通り。
- 1900年(明治33年)、八木奘三郎による報告。
- 1935年(昭和10年)、第1次調査:列石調査。水門4ヶ所・列石766個を確認(石野義助)。
- 1953年(昭和28年)11月14日、国の史跡に指定。
- 1963年(昭和38年)頃、神籠石論争が山城説でほぼ収束。
- 1965年(昭和40年)、土取工事で列石線の一部が崩壊。
- 1967年(昭和42年)、第2次調査:土取工事による崩壊に伴う調査。
- 1971年(昭和46年)、第3次調査:産女谷水門の確認調査・列石線測量調査。
- 1977年(昭和52年)7月14日、史跡範囲の追加指定。
- 1981年(昭和56年)、第4次調査:山内2号墳付近の列石調査(瀬高町教育委員会、1982年に報告書刊行)。
- 2010・2011年度(平成22・23年度)、第5次調査:基礎資料作成のための確認調査(みやま市教育委員会、2013年に報告書刊行)。
遺構
- 城壁
- 城壁は全周推定2.7-3キロメートルを測る。古塚山の西斜面において、山頂部を最高所とし、4ヶ所の谷(産女谷・源吾谷・長谷・粥餅谷(横尾寺谷))を取り込んで馬蹄形に一周する。城壁の構造は土塁で、列石の上に構築される。現在は約1.5キロメートルの列石線が認められるが、北・東側では土塁線・列石線は確認されていない。
- 土塁裾部の土留め石となる列石遺構は、石材を基本的に長方形の切石とし、一部では自然石とする。また上端にL字形の切り欠き加工が施された石もある。これらの石は赤色粘土層の上に据えられ、前面・上面を直線的に揃え、全体としては曲線的に配置される。列石上の土塁は版築により、2種の交互の土層が認められる。また列石の前面には3メートル(10尺)間隔の柱穴も認められている。
そのほかの城内施設等の存在は、現在までには未確認である。
- 水門
- 水門は産女谷・源吾谷・長谷・粥餅谷(横尾寺谷)の4ヶ所で認められる。いずれも構造は石塁。
- 産女谷水門は、4水門のうち最南に位置する()。土取工事で崩壊しており、現在のものは積み替えられた状態になる。現在では幅約7メートル・高さ約2.7メートルを測る。
- 源吾谷水門は、産女谷水門の北に位置する()。土取工事に伴い現在は崩壊している。
- 長谷水門は、源吾谷水門の北に位置する()。現在までに良好に遺存する。現在の石塁は5段積みで(元はさらに5段程度か)、幅約7.5メートル・高さ約2.5メートルを測る(元は高さ3.6メートル以上か)。石材は正方形または長方形の切石で、大部分は幅40-80センチメートル、吐口部上位では幅約110センチメートルを測る。
- 粥餅谷水門(横尾寺谷水門)は、4水門のうち最北に位置する()。現在までに良好に遺存する。現在の石塁は幅約7メートル・高さ約3メートルを測る(元は長谷水門と同程度か)。石材は切石で、幅40-150センチメートル・高さ40-80センチメートルとばらつきは大きい。
山内古墳群
山内古墳群(やまうちこふんぐん)は、女山神籠石の域内にある古墳群。円墳2基から構成される。
1号墳()は、直径約14メートルの円墳[5]。埋葬施設は横穴式石室で、西北西方向(平野部方向)に開口する。現在では石室上面が失われている。2号墳()は、直径約14メートルの円墳で、1号墳と同程度の規模になる。埋葬施設は横穴式石室で、1号墳同様に西北西方向(平野部方向)に開口する。
これら1号墳・2号墳は、古墳時代後期の6世紀後半頃の築造と推定される。
文化財
国の史跡
- 女山神籠石
- : 1953年(昭和28年)11月14日指定(指定範囲面積15,932.40平方メートル)。
- : 1977年(昭和52年)7月14日に史跡範囲の追加指定(指定範囲面積119,323.51平方メートル、合計135,255.91平方メートル)。
参考文献
- 史跡説明板
- 地方自治体発行
- 【書籍】「女山神籠石 -福岡県みやま市瀬高町所在の国指定史跡女山神籠石史跡内容確認調査報告書-(みやま市文化財調査報告書 第8集)」
- 【書籍】「みやま市史 資料編 上巻(みやま市史 2)」
- 事典類
- 【書籍】「国史大辞典 (昭和時代)」
- 【書籍】「日本歴史地名大系 41 福岡県の地名」
- 【書籍】「国指定史跡ガイド」 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
関連文献
- 【書籍】「 - リンクは九州国立博物館「西都 太宰府」資料観覧ライブラリー。
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女山神籠石の口コミ情報
2024年03月31日 唐いも修理亮剣士
女山神籠石
JR九州のウォーキングで訪れました。山頂まで登るのに大変疲れました。山頂の物見台からは筑後平野が見えてよかったです。黄砂がなければ島原まで観れたのではと残念です。神宿る竹林も神秘でしたよ。
2023年12月06日 RED副将軍
小田城[女山神籠石 周辺城郭]
詳細不明ながらも多重の岩盤横堀が見事な超マイナー城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代、築城主等の詳細不明。
在地土豪である溝口氏の支城とされ、明応・文亀年間(1492年~1502年)に城主として溝口常陸介、溝口帯刀の名が伝わります。
溝口氏は、溝口城を本拠とし、南北朝時代には土着し南朝方に付いております。
その後、大友氏に属していたとされますが、1550年には当主の溝口丹後守は三池親員や西牟田弥次郎と共に大友氏に反旗を翻し、溝口薩摩守が田尻鑑乗を攻め寄せたとされます。
しかし、豊饒氏、田尻氏、蒲池氏らが攻め寄せて溝口城は落城。この時に小田城も落城したと考えられ、溝口氏は没落しました。
その後の小田城の記録は残っていませんが、一国人領主の縄張り、土木量とは到底思えませんので周辺の戦国大名による改修があった様に思われます。
見所
兎にも角にも凄い城の一言に尽きます。やり過ぎです💦
古僧都道から東に入った標高214mの山陵頂部に築かれており、山頂に南北二段の郭で構成され、北側が主郭で南側が副郭です。郭だけなら小規模でシンプルな縄張りですが、この郭を防御するための多重横堀が主郭南西から東側にかけてビッシリと巡ります。多い所では六重もの横堀が配されており、岩盤掘削の部分も広範囲に広がります。高低差もあり所々に竪堀も併用されており、南端の尾根筋は大堀切で遮断されています。
北側は主郭下から竪土塁と竪堀が尾根筋に伸びており三重堀切で遮断されています。
城郭遺構は在地土豪とは考えられない土木量で、どう見ても戦国末期の技巧的な縄張りです。最終的にどこの勢力がどの勢力に対する備えとして築いたのかと想像が膨らみます。
但馬の伊賀谷城振りに久々に衝撃を受け、2時間散策で籠ってしまいました。もっと有名になるべき山城です。ぜひご訪城くださいませ。
行き方は、西側麓まで舗装された林道が通っています。広めの路肩に駐車し、廃果樹園の農道を進めば辿り着きます。但し、農道は荒廃しており倒木がありヤブ化しています。
比高は約160mで30分かからない位でした。
2023年11月27日 昌幸近江守晩秋リア旅
小田城[女山神籠石 周辺城郭]
ある書籍で「縄張りが特徴的」と記されていた小田城。その言葉に興味を持ち訪城しました。
国人領主だった溝口氏の城という以外、詳しいことは分かっていません。
そしてその縄張りはというと、2つの郭に竪堀・横堀が配され、特にII郭の6重の横堀は高低差も相まって大変厳重な防御体制となっています。
国人領主のみの力でここまでできたのだろうか?近隣の有力大名の龍造寺氏もしくは大友氏の援助を想定すべきではないかと思います。
アクセスは、城跡の隣に廃果樹園があり当時使われていた道が残っています。ですが車は入れません。麓を流れる川の横に広くなったスペースがあるので、そこに停めると良いでしょう。スペースに着くまでも倒木があるので車幅のある車は擦ってしまいます。
果樹園の削平に惑わされ、私はだいぶ寄り道をしてしまいましたが、とにかく道を終点まで進んで下さい。そうすれば城跡です。
【写真の説明】
①最初の遺構は3重堀切(うち2条)
②II郭の6重横堀。一番上のもの。
③II郭の6重横堀。一番下のもの。
④尾根とを分つかなりの深さの堀切。
⑤I郭の岩を削った横堀。
⑥石で補強した竪堀。
⑦石塁を用いた腰郭。
⑧I郭下の2重横堀のはじまり。
2023年08月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
小田城[女山神籠石 周辺城郭]
HIGHLY RECOMMENDED!!!
九州恐るべしっ!関東者がノックアウトされたぜっ!あっ、小田城だけど常陸で落とされまくった同名城とは当然何の関係も無いっす。
さて…後世、軍人は4つのタイプに分類されるとか。
①有能な怠け者は指揮官に…
②有能な働き者は参謀に…
③無能な怠け者は連絡将校か下級兵士ぐらいは務まる。
④無能な働き者は銃殺するしかない。
…このお城を見た時にぱっとこの分類を思い出したんす。つまりは、有能な怠け者の指揮官が有能な働き者の参謀に相談し、無能な怠け者の連絡将校がその意図を伝えて、無能な働き者が普請したらこうなりましたみたいな感ぢ?…訳解らないでしょ、おいらも解らねぇっす。常人の常識範囲を超えたお城を変態城て言いますけど、このお城は正に横堀系のそれに当てはまる。無能な働き者が体力に任せて余計な所まで掘りまくって出来ましたよてのがこの小田城の印象、掘った奴は本当の阿保でしょ…
基本信濃の地方史しか詳しくないし、九州の地理や地名の知識は持ち合わせていないのでお城の詳細は肥前の先達に譲ります。アテンドして頂いた肥後の城友さんが教えてくれたところによると、横堀の廻し方なんかに筑紫氏の築くものとの類似性を見出せるんだそう。おいらも後日に筑紫氏城館の葛籠城を見て納得した。
登城は少し藪ってるけど取り付きさえ判れば楽な方だ。むしろ城域内の探索の方がぼこぼこ故に難儀する。後世、周辺一帯は果樹園だったらしく山陵直下までは車両通行も可能、車を捨てて荒れた農道を辿れば城域に入る。
お城は極めてコンパクトではある。主郭に段を付けて副郭を置き要所には小郭が設けられている程度、但し、堀系が占める総面積はそれら削平地の総面積を遥かに超える。主郭からの北側尾根には段郭と尾根筋に並走する竪堀、その端部には連続堀切、南東側尾根には幅員のある堀切を穿つ。多重の横堀が備えの要、主郭の南側下段では四重となり、所々で短い竪堀によって連絡される。関心するのは高低差を持ってそれ等が構成されている事、主郭の東側下段で特に顕著だ。多段の横堀は同時に土塁を伴う帯郭状の段郭でもある。ある程度の距離ならば直進弾道に優れる鉄砲の運用を意識した造りで、上段からの照準も可能な高さと角度を有する。又、所々に土留めの石積み、主郭は土塁囲みだが、城代のお立ち台(何かの塚なんだろうか。)としか思えない様なぽこりんに萌える事間違い無し。お城の発生自体は南北朝時代にまで遡る事も可能だが、今に見る縄張はそれこそ天正年間(西暦1573年〜1592年)の改修だと考える方が自然だろう。
兎に角、山城好きなら死ぬ前に必ず見ておかなければならないお城の一つだ。ひょっとしたらあなたの「無人島に持って行くべき山城ベスト10」の一つに加えられるかもしれない。関東には横堀系に優れるお城が沢山存在するが、このお城は地域特性を加味(お城の優劣を比べるなんて無謀な事だ。成立に際しての時代背景や地形条件も違えば築城主体の大小も異なり後世辿った変遷も様々だ。それぞれには相応の楽しみ方が必ず存在する。又、近世以前の城館の全てを「戦国時代の出来事」に集約させてしまう風潮も甚だ問題だ。)してそれ等とは違うベクトルで結実した奇跡だとも思う。「こり、意味あんのか…?」みたいな堀や土塁やぽこぽこなんかもあるけど、そんなんですら愛着が湧いて来る。リア攻め中の呟きは総じて、「えっ、馬鹿でしょ…」になる筈だ。写真はパートでしか撮れない面もあるけど、是が非でも現地でその凄さを体感して欲しいっす。
2023年06月11日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
小田城[女山神籠石 周辺城郭]
福岡県のみやま市にある【小田城】♪中々山深い場所にある小田城ですが衝撃的な多重横堀を連発します♪
この城郭は矢部川を挟んだ溝口集落(北側)にあった、溝口城(過去口コミ済)の城主・溝口氏の城郭と云われています♪
小田城のある場所は南側の肥後へと続く山陵地帯が連ります♪この筑肥山地の一部を形成する清水連山の北側の山中に城郭は存在します♪いわゆる、境目の城郭といった趣を魅せる小田城ですが、その縄張りはカナリ技巧的であり、土木量も凄くて、とてもじゃ無いけど一豪族が造り込める城では無い☆と城郭を訪問して感じました☆
南北朝時代には既に筑後溝口城とある為、南北朝時代から溝口城は存在していた様です♪が、小田城の記述はイマイチ分かりませんでした☆戦国時代に溝口氏の領地は矢部川北岸の溝口村、更には南岸の小田村とで構成されていたと云われます☆もしかしたら小田城は詰城としては、この時期に存在していたのかもしれませんね♪明応・文亀年間頃の城主は溝口常陸介、溝口帯刀と伝えられています♪が城郭詳細は謎に包まれています☆
溝口氏ですが天文19年(1550年)には西牟田氏、三池氏と共に大友宗麟に反旗を翻していて、大友家に属した筑後・鷹尾城の田尻親種を攻めています☆ただ、田尻氏は柳河の蒲池氏に協力を仰ぎ奇襲を仕掛け逆に溝口丹後守を攻めていて、更には西牟田軍を討ち取っています☆
城郭の特徴は主郭と副郭の2つの郭から成ります♪主郭の中心には規模感の大きい多重横堀を連続させます♪主郭側は竪堀も併せながら防御♪北側は連続堀切が続きます♪副郭のある南側もまた多重横堀を三重に四重に、場所によっては六重にと回し込みます♪南側の防御が強い印象です♪冒頭には一豪族の土木量では無いと述べましたが、溝口氏は大友方になったり、龍造寺方になったりと、北部九州の大大名の動向に翻弄されています☆大友方、はたまた、龍造寺方の諸将が入った事による城郭の改造?はあり得そうです♪
個人的には勝尾城の筑紫広門が怪しい…♪
天正14年(1586年)に島津氏の九州北上戦の際には、大友方として勝尾城で筑紫広門は島津氏に攻められ、領地を奪われています☆この時、筑紫広門自身も島津軍の捕虜となって筑後大善寺に幽閉されていて、翌年に豊臣秀吉の九州平定が始まり島津軍が撤退すると、幽閉先から脱出し家臣を集めて旧領を奪回しています☆その功を賞されて、筑後国上妻郡に18000石の所領を賜っています☆
そしてこの頃に築城をしているのが、筑後福島城です☆この筑後福島城の南西側の山間部には小田城☆つまり筑後国上妻郡を賜った、筑紫広門ならば…やり兼ねない☆勝尾城を落城に追い込まれた訳で、秀吉から領地を安堵されたとはいえ、南方からやって来る島津氏に警戒感を持ってもおかしくありません☆
あの土木量は、勝尾城の支城群である葛籠城によく似た掘り込み方をしています♪高低差を入れ込んだ多重横堀は、筑紫氏の城郭では無いか?そう考えてしまいます♪何よりも、この小田城が紛れも無く戦国時代末期の顔をしている事♪往時の事は誰にも分からないからこそ、妄想が広がりました♪
何にせよ個人的には筑後国の中でトップクラスの城郭であり、オススメ城郭の1城となりました♪
2023年06月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
禅院城[女山神籠石 周辺城郭]
福岡県のみやま市にある【禅院城】♪清水山連山から派生される尾根筋の北端で眼下には矢部川が流れます♪小田城の北東側の山陵地帯で建仁寺、禅院熊野神社の南側の標高141mに城郭は存在します♪
城の築城主は溝口氏と云われていますが、詳細は不明な山城です☆この溝口氏は平安時代からの国人領主とも云われています☆
戦国時代に溝口氏の領地として矢部川北岸の溝口村、更には南岸の小田村とで構成されていました♪小田城の出城だったんではないか?
位置関係からもそう考える事が出来ます♪
禅院城は弓形状の尾根上を削平し城郭としています♪この尾根の最高所(141m)を主郭として西に副郭、更には段を付けて、それともう1つの郭を造り3つの郭から成ります♪
東側の尾根を堀切で切断し西側も同様にと、まぁここ迄は良くある城郭です♪
がしかし、南側の防御に長大な横堀を入れ込み、斜面には数条の竪堀を落とす♪お〜♪正しく戦国時代末期の顔に♪そして、小田城程では無いにしても、土木量♪
南側は肥後、更には薩摩へと続いていく為に、やはり、大友氏か?龍造寺氏?の手が入っているのか?ハタマタ筑紫広門?の横堀なのか?謎を極めます☆
因みに禅院城の麓♪山腹には建仁寺があります♪この建仁寺の上の墓群の中には大友菊子の墓が残ります☆戦国末期の天正12年(1584年)豊後国を押さえた大友氏の将である高橋紹運、戸部道雪は上妻郡・猫尾城主の黒木氏を攻めた後に、ここ建仁寺に詣でています☆そして建仁寺制札をだし乱暴狼藉や竹材を伐採する事を禁止し違反する者は厳罰に処することを命じています☆
また境内には大友宗麟の嫡男・大友義統の妻で立花宗茂の叔母である菊子の法名『尊乗院殿日正妙智大姉』が刻まれた石塔が残ります☆この大友菊子は立花宗茂が柳川城主となっていた際に、立花宗茂の元に身を寄せ禅院村の建仁寺に屋敷を与えられています♪
2023年05月15日 左兵衛佐けんちん
女山神籠石
立入禁止の道ではなく、車で進んだこちらからでした!
2023年01月11日 RED副将軍
女山神籠石
1,300年以上前の水門、列石が現存する古代山城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
女山神籠石(ぞやまこうごいし)と読みます。
築城年代は不詳。日本書紀などの文献に記載が無い全国に16ある神籠石系山城のひとつです。
663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合に敗れた後、大和朝廷により大陸からの侵攻に備えて防御を固めるために築かれたとされます。
見所
標高195mの女山の中腹から4ヶ所の渓谷にかけて列石が連なります。
渓谷にはそれぞれ水門があったとされ3ヶ所が残存しています。
2022年07月27日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
大木城[女山神籠石 周辺城郭]
福岡県のみやま市にある【大木城】♪矢部川と飯江川の間に広がる平野の、中央部に立地♪大根川の北側で、ほぼ南に宮園城、北東に松延城(いずれも過去口コミ済)があります♪大木氏が城主となります♪
この大木氏は元を辿れば下野国の宇都宮氏なんです☆宇都宮氏は元寇襲来時に九州に下向していて、この時に大木城の前身を築城しています♪南北朝時代には南朝方として懐良親王を擁護し伊予国から豊前宇都宮氏(戦国時代は城井城)の豊前国仲津に移り宇都宮貞泰の次男で懐良親王の肥後国に置かれた征西府(征西軍営府)に属した宇都宮貞久が筑後国に移った事からが始まり♪
南北朝時代の宇都宮久憲は南朝方が苦戦を強いられると、筑後、嵯峨源氏渡辺氏の流れを汲む渡辺党蒲池氏(前蒲池と呼びます)の名跡と遺領を継ぎ、蒲池久憲と名のりを上げ宇都宮党蒲池氏(後蒲池)の祖となっていきます♪
これは宮園城の口コミの時に述べましたね♪
この蒲池久憲の弟の資綱の子の蒲池政長は、宇都宮泰宗の居城した大木城を継ぎ、この蒲池政長が大木氏の祖となっています☆
結果的には天正9年に蒲池氏が滅亡した際に城主・大木兵部少輔が開城したと伝わります☆
目ぼしい遺構は分かりませんでした☆濠かな〜❓❓的な窪みはありました♪
現在は大木集落の中にひっそりと城跡碑が残ります♪因みに多々良浜の戦いに破れた阿蘇惟澄もこの、大木城に逃げ込んでいます☆
戦国時代には田尻氏の鷹尾城、南にある宮園城の支城群なんでしょうね♪
2022年07月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
溝口城[女山神籠石 周辺城郭]
福岡県の筑後市の溝口にある【溝口城】♪矢部川中流の右岸、自然堤防上に立地します♪
南北朝時代から初見する溝口の地名の由来については詳しくは分かりませんが、矢部川にちなんでいると思われます♪
田原正堅軍は幕府方の沙弥某に従い南朝方の城を焼き払い、次いで溝口禅院城を攻め落城させています☆この頃は九州探題・一色範氏が、中院侍従義定や菊池武茂が籠る竹井城を攻めていて、これに関する軍事行動と思われます♪
1550年の天文19年には、西牟田氏、三池氏、更にこの溝口氏は、大友宗麟に属した田尻親種を攻めました☆ただ、田尻氏は、筑後・蒲池氏と協力して奇襲をかけ溝口丹後守要害を攻めていて、西牟田軍を討ち戦果を上げています♪
さて、溝口城です♪
溝口丹後守要害、溝口要害と呼ばれるのが、この溝口城の事を指すと思われます✨ 築城主は溝口氏です☆南北朝時代には筑後溝口城とある為、南北朝時代からは既に存在していたと思われます♪
戦国時代には、矢部川北岸の本村、南岸の小田村とで構成されていたと云われます♪
城郭の主要部は現在の溝口集落と思われ、集落の中央にある福王寺東方には、中世の五輪塔、宝篋印塔、板碑が祀られています☆これらは、溝口氏の墓、供養碑と伝わります☆
ただ、遺構と思われるものは残っていませんでした☆
集落内には竈門神社もあるのですが、溝口城の、鎮守だった様です♪鬼滅の刃の聖地としても、有名になっています♪
因みに…鬼滅の刃は見た事ありません…w
溝口城へ行った時に、鬼滅の聖地と知りました😅流行りに乗っかり竈門神社の写真からスタートしときますw
この竈門神社は溝口城の北東♪すなわち鬼門に当たる場所にあります♪
2022年06月21日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
宮園城[女山神籠石 周辺城郭]
福岡県のみやま市にある【宮園城】♪矢部川と飯江川の間に広がる平野部の中央で、大根川を天然の濠とした平城は濠区画が綺麗に残ります♪
地名の宮園は文広の広田八幡神社の園地に由来すると云われます☆この宮園城の近くには射場ノ元、武士町などの小字が残ります☆
後蒲池氏の祖である蒲池久憲♪(※南北朝時代に当主不在で滅びかけていた渡辺党蒲池氏の名跡と遺領を継ぎ蒲池久憲と名乗ります♪元は宇都宮久憲です☆)
この蒲池久憲の頃に肥後への抑えとして、今村大隈に築城させたと伝わっています♪
その後は代々、4代目の今村土佐入道覚盤までが宮園城を守っています☆
天正12年の1584年に肥前国・龍造寺隆信勢が侵攻した際に今村土佐入道覚盤が山下城の蒲池鑑広の加勢の為に戦っています☆この時は落城せずに粘りましたが…☆
豊臣秀吉の九州征伐の際に遂に落城☆しちゃいました☆
その後、江戸時代には柳川藩領となっています☆
現在は東照寺の境内が城郭となっています♪この東照寺は今村家の菩提寺として開創されています♪往時、宮園城で使用されていた石垣は柳川城の築城の際に全てを供出と伝わっています☆が、堀割りの形は当時のまま残っていました☆
2022年04月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
松延城[女山神籠石 周辺城郭]
福岡県のみやま市にある【松延城】♪矢部川と飯江川間に広がる平野の中央部に立地する松延集落です☆
この松延集落の北西部に松延城は存在しました♪
平安末期から見える地名は古来より人々が暮らしていた事が分かります☆
この平安末期、松延集落を含む小河荘が一円不輸の地だった様です☆※(国家への租税の一部または全てが免除された)
ここ松延集落は大宮司公基の私領として、国庫に弁済する他に、田率、穀物、公事、雑役を免除されていました♪
戦国時代の天正7年頃に龍造寺氏が田尻氏の知行地として安堵していますが、天正12年には龍造寺軍が松延城に侵攻してきていて、蒲池鎮運と合戦に発展しています☆
時の松延城主は樺島式部☆山下城主、蒲池氏に加勢しました☆結果的に蒲池鎮運は松延城の防衛に成功♪蒲池氏は坂田隼人佐(樺島式部の家臣)に対して領地2町を与えています♪
天正7年〜12年にかけて龍造寺家臣・田尻氏?蒲池氏家臣・樺島氏に坂田氏?この頃にこの地では取った取られたの領地争いが行われていた事が考えられますね☆
天正15年には立花宗茂の家臣・立花三郎右衛門が松延城城番になり江戸時代の慶長5年には田中吉政の家臣・松野主馬が城番を務め1万2千石を賜ります☆
現在も本丸、二ノ丸、三ノ丸、鍛冶屋町、扇子町、鎧町などの地名を残しています☆
集落にある天満宮ですが、龍造寺氏の兵火で焼失したとされますが、立花宗茂が再興しています♪
目ぼしい遺構は濠、一段高まる丘陵地☆主要部と思われます♪
2017年11月27日 慶次朗掃部頭一寿
女山神籠石
みやま市役所近くに図書館と資料館が合体したところに神籠石が展示してあります。
登れない方や行き方解らない方は立ち寄られては如何でしょうか?
美山神籠石の説明や模型も有りますし、その他の遺跡や資料も多少有りますので、散策の手助けになるかもしれないと思います。