小田城

小田城([女山神籠石  周辺城郭])

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小田城の口コミ情報

2023年12月06日 RED副将軍


詳細不明ながらも多重の岩盤横堀が見事な超マイナー城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代、築城主等の詳細不明。
在地土豪である溝口氏の支城とされ、明応・文亀年間(1492年~1502年)に城主として溝口常陸介、溝口帯刀の名が伝わります。
溝口氏は、溝口城を本拠とし、南北朝時代には土着し南朝方に付いております。
その後、大友氏に属していたとされますが、1550年には当主の溝口丹後守は三池親員や西牟田弥次郎と共に大友氏に反旗を翻し、溝口薩摩守が田尻鑑乗を攻め寄せたとされます。
しかし、豊饒氏、田尻氏、蒲池氏らが攻め寄せて溝口城は落城。この時に小田城も落城したと考えられ、溝口氏は没落しました。
その後の小田城の記録は残っていませんが、一国人領主の縄張り、土木量とは到底思えませんので周辺の戦国大名による改修があった様に思われます。

見所
兎にも角にも凄い城の一言に尽きます。やり過ぎです💦
古僧都道から東に入った標高214mの山陵頂部に築かれており、山頂に南北二段の郭で構成され、北側が主郭で南側が副郭です。郭だけなら小規模でシンプルな縄張りですが、この郭を防御するための多重横堀が主郭南西から東側にかけてビッシリと巡ります。多い所では六重もの横堀が配されており、岩盤掘削の部分も広範囲に広がります。高低差もあり所々に竪堀も併用されており、南端の尾根筋は大堀切で遮断されています。
北側は主郭下から竪土塁と竪堀が尾根筋に伸びており三重堀切で遮断されています。

城郭遺構は在地土豪とは考えられない土木量で、どう見ても戦国末期の技巧的な縄張りです。最終的にどこの勢力がどの勢力に対する備えとして築いたのかと想像が膨らみます。
但馬の伊賀谷城振りに久々に衝撃を受け、2時間散策で籠ってしまいました。もっと有名になるべき山城です。ぜひご訪城くださいませ。

行き方は、西側麓まで舗装された林道が通っています。広めの路肩に駐車し、廃果樹園の農道を進めば辿り着きます。但し、農道は荒廃しており倒木がありヤブ化しています。
比高は約160mで30分かからない位でした。

2023年11月27日 昌幸近江守雪舟接収計画


ある書籍で「縄張りが特徴的」と記されていた小田城。その言葉に興味を持ち訪城しました。

国人領主だった溝口氏の城という以外、詳しいことは分かっていません。
そしてその縄張りはというと、2つの郭に竪堀・横堀が配され、特にII郭の6重の横堀は高低差も相まって大変厳重な防御体制となっています。
国人領主のみの力でここまでできたのだろうか?近隣の有力大名の龍造寺氏もしくは大友氏の援助を想定すべきではないかと思います。

アクセスは、城跡の隣に廃果樹園があり当時使われていた道が残っています。ですが車は入れません。麓を流れる川の横に広くなったスペースがあるので、そこに停めると良いでしょう。スペースに着くまでも倒木があるので車幅のある車は擦ってしまいます。
果樹園の削平に惑わされ、私はだいぶ寄り道をしてしまいましたが、とにかく道を終点まで進んで下さい。そうすれば城跡です。

【写真の説明】
①最初の遺構は3重堀切(うち2条)
②II郭の6重横堀。一番上のもの。
③II郭の6重横堀。一番下のもの。
④尾根とを分つかなりの深さの堀切。
⑤I郭の岩を削った横堀。
⑥石で補強した竪堀。
⑦石塁を用いた腰郭。
⑧I郭下の2重横堀のはじまり。

2023年08月10日 内記かずりヾ(・ε・。)


HIGHLY RECOMMENDED!!!

九州恐るべしっ!関東者がノックアウトされたぜっ!あっ、小田城だけど常陸で落とされまくった同名城とは当然何の関係も無いっす。

さて…後世、軍人は4つのタイプに分類されるとか。

①有能な怠け者は指揮官に…

②有能な働き者は参謀に…

③無能な怠け者は連絡将校か下級兵士ぐらいは務まる。

④無能な働き者は銃殺するしかない。

…このお城を見た時にぱっとこの分類を思い出したんす。つまりは、有能な怠け者の指揮官が有能な働き者の参謀に相談し、無能な怠け者の連絡将校がその意図を伝えて、無能な働き者が普請したらこうなりましたみたいな感ぢ?…訳解らないでしょ、おいらも解らねぇっす。常人の常識範囲を超えたお城を変態城て言いますけど、このお城は正に横堀系のそれに当てはまる。無能な働き者が体力に任せて余計な所まで掘りまくって出来ましたよてのがこの小田城の印象、掘った奴は本当の阿保でしょ…

基本信濃の地方史しか詳しくないし、九州の地理や地名の知識は持ち合わせていないのでお城の詳細は肥前の先達に譲ります。アテンドして頂いた肥後の城友さんが教えてくれたところによると、横堀の廻し方なんかに筑紫氏の築くものとの類似性を見出せるんだそう。おいらも後日に筑紫氏城館の葛籠城を見て納得した。

登城は少し藪ってるけど取り付きさえ判れば楽な方だ。むしろ城域内の探索の方がぼこぼこ故に難儀する。後世、周辺一帯は果樹園だったらしく山陵直下までは車両通行も可能、車を捨てて荒れた農道を辿れば城域に入る。

お城は極めてコンパクトではある。主郭に段を付けて副郭を置き要所には小郭が設けられている程度、但し、堀系が占める総面積はそれら削平地の総面積を遥かに超える。主郭からの北側尾根には段郭と尾根筋に並走する竪堀、その端部には連続堀切、南東側尾根には幅員のある堀切を穿つ。多重の横堀が備えの要、主郭の南側下段では四重となり、所々で短い竪堀によって連絡される。関心するのは高低差を持ってそれ等が構成されている事、主郭の東側下段で特に顕著だ。多段の横堀は同時に土塁を伴う帯郭状の段郭でもある。ある程度の距離ならば直進弾道に優れる鉄砲の運用を意識した造りで、上段からの照準も可能な高さと角度を有する。又、所々に土留めの石積み、主郭は土塁囲みだが、城代のお立ち台(何かの塚なんだろうか。)としか思えない様なぽこりんに萌える事間違い無し。お城の発生自体は南北朝時代にまで遡る事も可能だが、今に見る縄張はそれこそ天正年間(西暦1573年〜1592年)の改修だと考える方が自然だろう。

兎に角、山城好きなら死ぬ前に必ず見ておかなければならないお城の一つだ。ひょっとしたらあなたの「無人島に持って行くべき山城ベスト10」の一つに加えられるかもしれない。関東には横堀系に優れるお城が沢山存在するが、このお城は地域特性を加味(お城の優劣を比べるなんて無謀な事だ。成立に際しての時代背景や地形条件も違えば築城主体の大小も異なり後世辿った変遷も様々だ。それぞれには相応の楽しみ方が必ず存在する。又、近世以前の城館の全てを「戦国時代の出来事」に集約させてしまう風潮も甚だ問題だ。)してそれ等とは違うベクトルで結実した奇跡だとも思う。「こり、意味あんのか…?」みたいな堀や土塁やぽこぽこなんかもあるけど、そんなんですら愛着が湧いて来る。リア攻め中の呟きは総じて、「えっ、馬鹿でしょ…」になる筈だ。写真はパートでしか撮れない面もあるけど、是が非でも現地でその凄さを体感して欲しいっす。

2023年06月11日 龍馬備中守【】


福岡県のみやま市にある【小田城】♪中々山深い場所にある小田城ですが衝撃的な多重横堀を連発します♪
この城郭は矢部川を挟んだ溝口集落(北側)にあった、溝口城(過去口コミ済)の城主・溝口氏の城郭と云われています♪
小田城のある場所は南側の肥後へと続く山陵地帯が連ります♪この筑肥山地の一部を形成する清水連山の北側の山中に城郭は存在します♪いわゆる、境目の城郭といった趣を魅せる小田城ですが、その縄張りはカナリ技巧的であり、土木量も凄くて、とてもじゃ無いけど一豪族が造り込める城では無い☆と城郭を訪問して感じました☆

南北朝時代には既に筑後溝口城とある為、南北朝時代から溝口城は存在していた様です♪が、小田城の記述はイマイチ分かりませんでした☆戦国時代に溝口氏の領地は矢部川北岸の溝口村、更には南岸の小田村とで構成されていたと云われます☆もしかしたら小田城は詰城としては、この時期に存在していたのかもしれませんね♪明応・文亀年間頃の城主は溝口常陸介、溝口帯刀と伝えられています♪が城郭詳細は謎に包まれています☆

溝口氏ですが天文19年(1550年)には西牟田氏、三池氏と共に大友宗麟に反旗を翻していて、大友家に属した筑後・鷹尾城の田尻親種を攻めています☆ただ、田尻氏は柳河の蒲池氏に協力を仰ぎ奇襲を仕掛け逆に溝口丹後守を攻めていて、更には西牟田軍を討ち取っています☆

城郭の特徴は主郭と副郭の2つの郭から成ります♪主郭の中心には規模感の大きい多重横堀を連続させます♪主郭側は竪堀も併せながら防御♪北側は連続堀切が続きます♪副郭のある南側もまた多重横堀を三重に四重に、場所によっては六重にと回し込みます♪南側の防御が強い印象です♪冒頭には一豪族の土木量では無いと述べましたが、溝口氏は大友方になったり、龍造寺方になったりと、北部九州の大大名の動向に翻弄されています☆大友方、はたまた、龍造寺方の諸将が入った事による城郭の改造?はあり得そうです♪

個人的には勝尾城の筑紫広門が怪しい…♪
天正14年(1586年)に島津氏の九州北上戦の際には、大友方として勝尾城で筑紫広門は島津氏に攻められ、領地を奪われています☆この時、筑紫広門自身も島津軍の捕虜となって筑後大善寺に幽閉されていて、翌年に豊臣秀吉の九州平定が始まり島津軍が撤退すると、幽閉先から脱出し家臣を集めて旧領を奪回しています☆その功を賞されて、筑後国上妻郡に18000石の所領を賜っています☆
そしてこの頃に築城をしているのが、筑後福島城です☆この筑後福島城の南西側の山間部には小田城☆つまり筑後国上妻郡を賜った、筑紫広門ならば…やり兼ねない☆勝尾城を落城に追い込まれた訳で、秀吉から領地を安堵されたとはいえ、南方からやって来る島津氏に警戒感を持ってもおかしくありません☆
あの土木量は、勝尾城の支城群である葛籠城によく似た掘り込み方をしています♪高低差を入れ込んだ多重横堀は、筑紫氏の城郭では無いか?そう考えてしまいます♪何よりも、この小田城が紛れも無く戦国時代末期の顔をしている事♪往時の事は誰にも分からないからこそ、妄想が広がりました♪

何にせよ個人的には筑後国の中でトップクラスの城郭であり、オススメ城郭の1城となりました♪

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