大間城(たいまじょう)

大間城の基本情報

通称・別名

大間館

所在地

福岡県大牟田市大字三池字古城

旧国名

筑後国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

三池師員

築城年

正治2年(1200)

主な改修者

主な城主

三池氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

南関城(熊本県玉名郡)[6.4km]
大津山城(熊本県玉名郡)[7.8km]
筒ヶ嶽城(熊本県荒尾市)[8.6km]
鷹尾城(福岡県柳川市)[9.5km]
佐留垣城(福岡県柳川市)[9.7km]
田中城(熊本県玉名郡)[11.7km]
女山神籠石(福岡県みやま市)[12.9km]
柳川城(福岡県柳川市)[14.3km]
高道城(熊本県玉名市)[16.0km]
蒲池城(福岡県柳川市)[16.6km]

大間城の口コミ情報

2024年06月19日 龍馬備中守【】
甘木城[大間城  周辺城郭]



福岡県の大牟田市の甘木にある【甘木城】♪甘木山から伸びた微丘陵地に城郭は立地しました♪現在は私有地となっていて、立ち入りは出来ていません。が、遠くからもその高まりを見る事が出来て、城郭を感じる事が出来ます♪

銀水川の中流域に立地する甘木の地名の由来は海洋漁労民族の集団である海部に因むと三池郡田隈組村誌は伝えます♪甘木には望谷古墳・根深谷古墳・甘木山古墳群があり、古くから人々の生活があった事を物語ります♪
建武年間に甘木紀伊守が甘木城を築城したと伝わります♪

甘木村は鎌倉期から戦国期に見える村名です♪筑後国三池郡の内で建長2年(1250年)関東下文では上総国の御家人・深堀左衛門射能仲が、承久の乱勲功の替地として筑後国三池荘北郷甘木村東西・同深浦村の地頭職に補任されています♪結局は深堀氏の甘木村の支配は永続せずに、建長7年(1255年)関東下文により、深堀左衛門射能仲は肥前国戸八浦の地頭職に改補されています♪

南北朝期には松浦党波多有浦氏の所領となっていますが、波多有浦大和守祝、討死の後に甥の次郎三郎与と女子・代寿との間に相論があって康応元年(1389年)今川臣により地頭職が千代寿に沙汰付されています。南北朝期は、波多有浦氏の所領となっています♪

戦国期には、はじめ在地領主である三池氏の所領であったと思われるが、天正9年(1581年)柳川の蒲池鎮漣を討った事への行賞として龍造寺隆信は田尻鑑種に与えた村々の内に甘木13町が含まれていて、その時まで甘木村が蒲池氏の知行地でありました♪これは、天文19年(1550年)在地領主であり、筑後の多良木衆とも呼ばれた三池親員が菊池義武と結び大友家に背いた際に田尻氏と共に親員討伐に功のあった蒲池鎮漣の父・蒲池鑑盛が菊池氏から賜っていたものでしょう♪天正15年(1587年)秀吉による大名配置後は高橋統増(立花直次)の知行地になっています。

背後の甘木山には甘木山古墳群が残ります♪
甘木山から見る甘木城、三池山城、更には大牟田市内、遠く有明海と眺望が広がります♪
甘木城の現在は私有地となり望遠のみです。立ち入り出来ていない為に内容不明です。甘木山から伸びる微丘陵地に城郭は立地しました。南側の白銀川は天然の濠をなした事でしょう♪

2024年06月17日 龍馬備中守【】
内山城[大間城  周辺城郭]



福岡県大牟田市の吉野にある【内山城】♪起伏の多い台地上の先端部に城郭は立地し、内山集落内にあります♪大牟田市とみやま市の境に位置する城郭で、看板もあり、有り難いです♪

鎌倉時代は、大友氏の居館であったと推測されています♪その後は不明な内山城ですが、龍造寺氏から三池氏へ変遷し、大牟田・三池氏の三池城の北の守りとなっています♪
天正年間(1578年〜1590年)には土豪である豊持和泉守が城主で、三池上総守に属しています♪この豊持氏ですが、調べても詳細は判らず仕舞いでした。しかし現在の大牟田市白銀にあたる場所には、豊持という字名があり、この付近を領した土豪なのでしょう♪豊持は白銀川流域にあり、吉野台地の東縁部に立地します♪天文21年(1552年)『三池郡之内豊持』10町などが大友氏から田尻親種に宛行われています♪また田尻親種の子である田尻鑑種は、天正7年(1579年)以降、龍造寺氏に従ったのですが、天正10年頃、龍造寺氏から離反した為に攻められ、田尻鑑種の居城である鷹尾城(現大和町)が落城する前の天正11年には、豊持ほか数ヵ所が肥前深江城(現長崎県深江町)での合戦の勲功により横岳兵庫頭(西島城主です。横岳家実か?)に宛行われています♪

東西に伸びた台地上に主郭、副郭か?2つの郭は大堀切で遮断されています♪
地元のお婆ちゃんの自宅の背後に堀切はあり、見せて頂きました♪お婆ちゃん曰く、近世には三池の殿様の休憩所にもなったそうです♪
大牟田、三池の入り口に当たる場所の為、他にも城郭がありそうな雰囲気を漂わせるエリアでありました♪内山城は字『城畑』の辺りにあったと伝わります♪この辺りは一部発掘調査が行われ、礎石建物が二棟、柵二列が検出されているようです♪
城郭があった『城畑』周囲には、同様に字名として『北屋敷』『南屋敷』、南側には『有門田』などが残っていますが、宅地開発などにより、その遺構は不明瞭となります。

2024年02月03日 龍馬備中守【】
万田坑[大間城  遺構・復元物]



熊本県の荒尾市にある【万田坑】♪今日は城郭ではありません♪平成27年7月には『明治日本の産業革命遺産』の1つとして、世界遺産に認定されています♪万田坑は炭鉱関連の遺産で、日本の近代化を支えてきたとの事で選出されました♪

立ち上がりは明治政府の官営事業として経営されていて、明治9年(1876年)官営の三井物産会社が設立し、三池炭鉱の輸送・販売を一手に取り扱いました♪時は進み明治21年(1888年)からは三井組(三井財閥)が経営しています♪

この辺りの土地からは中世より石炭が出てきていました♪応仁3年(1469年)農夫の伝治左衛門が三池郡稲荷村の稲荷山(現在の大牟田市大浦町付近)で、『燃ゆる石』(石炭)を発見したと云われています♪

享保6年(1721年)には柳河藩の家老、小野春信が藩主より土地を拝領し、平野鷹取山で石炭採掘を始めています♪
元文3年 (1738年)久留米藩の文書に稲荷山での石炭採掘に関する記述が残りますが、コレは、三池藩営であったかどうかは不明です☆嘉永5年 (1853年)三池藩が生山を開坑しています☆
という訳で、中世より石炭が出て来ていた土地になります♪
日本の近代文明を支えた石炭は、1950年代 〜60年代のエネルギー革命により石油へと主要エネルギーが転換されて、その需要を失いました…。万田坑は1951年に採炭が終了し、1997年には遂に閉山となりました。
聳える万田坑第二竪坑櫓やイギリスのレンガ積みを用いた重厚な建物♪
明治33年(1900年)頃には最盛期を迎えた、万田坑♪日本の経済を支え、世界と渡り合うにはどうすれば良いか?
一気に文明開花が進んだ、日ノ本の歴史♪
凄く、面白かったです♪

写真の6枚目は木炭と石で石垣を築いている♪アップで見たら年輪がある♪面白いですね♪

レンガ積みの建物や塀は西洋文化を感じさせる造りになり新鮮でした♪

2024年01月28日 龍馬備中守【】
六反城[大間城  周辺城郭]



熊本県の荒尾市にある【六反城(浄業寺・小代氏墓所、菩提寺)】♪六反城には遺構は残りません♪字名として、『本丸』『二の丸』『三の丸』『馬場辻』『屋敷下』などを残し、城跡だった事を感じさせてくれます♪

現在、城郭と伝わる所は地形地図で見る限り高台になっております♪後世の改変は大いにあるでしょうし、国道208号線が貫通しており、往時の状況は今は知ることはできません☆ただ、高台にはなっています♪

さて、この六反城の築城年、城主共に不明となります☆但し城郭範囲と予測される宮内出目エリアには浄業寺があります♪この浄業寺は、肥後国人領主であり筒ヶ岳城主の小代氏の菩提寺と伝わっています♪
この地に菩提寺があるという事は、ここは小代氏に属する城郭だったのでしょう♪宝治元年(1247年)地頭として、玉名郡は野原庄に下向した小代重俊が始まりとなります♪
小代重俊は、浄業寺を創建しています♪この小代一族は武蔵七党児玉氏の支流です♪北条氏が三浦氏を滅ぼした宝治合戦での功により、肥後玉名郡野原荘の地頭職に任じられ、その後、蒙古襲来に備え領地肥後国へ赴きます♪

秀吉が統一した後、佐々成政による検地に反発した『肥後の国人一揆』で肥後の国人層の多くは滅亡・帰農しますが、小代下総守親泰は、その時に大坂にいて国人一揆に参加しなかった為にこの難を逃れ、その後は加藤清正の与力となり、4千石強の家臣となり家名を近世に残しています♪小代下総守親泰は名古屋城築城の際に加藤清正に付き従い、天守の石垣を担当していて、小代下総の刻印の石垣を残しています♪

因みに浄業寺には、何と♪源氏3代の供養塔もあります♪※源頼朝、実朝、頼家のモノと伝わる♪肥後で地頭になった後も古塔碑群の中に供養塔を建てるということは、小代氏はよほど源家に恩義を感じていたのでしょうね〜♪

2024年01月21日 龍馬備中守【】
田次郎丸館[大間城  周辺城郭]



熊本県の荒尾市にある【田次郎丸館】♪筑後国・三池と肥後国・荒尾の境目に立地する平城となります♪

現在は国道208号線が走り住宅地になっている場所にかつて、存在した田次郎丸館です♪
荒尾市原万田の住宅地の中にある東光寺に案内板が設置されています♪
住宅地にはなっているものの、断片的に遺構を残していました♪
東光寺の北側には斎場があります♪一段の高まり(天満宮あり)があり、ソコが居館跡と思われます♪かつては北向きに二重堀を構えていた様で、斎場の側には側溝があり、濠の名残と思われます♪北向きに築かれた濠は、国境の向こう側の三池氏に向けたものだと思われます♪東光寺には土塁片が残り、五輪塔の残片が転がっていました♪字名としては馬洗、道僧、御馬給などが残り、居館の名残を匂わせます♪

この田次郎丸の名ですが、同荒尾市にある野原八幡宮文書に、永享9年(1437年)『国方の大行事万田の田次郎丸』と初見し、寛永19年(1642年)田二郎丸、太次郎丸と残ります♪中世には肥後国・筒ヶ岳城主である小代氏の配下家臣と思われ、原万田・万田一帯の有力な名主層であったと考えられています♪
因みに、まだ行けてませんが、南東側には山陵部には万田城があり、この田次郎丸の詰城なのかもしれません♪

2023年07月08日 龍馬備中守【】
三池山城[大間城  周辺城郭]



福岡県の大牟田市にある三池山城♪戦国期に三池地方(現・大牟田市及びみやま市高田町付近)を拠点として勢力を有していた三池氏です♪

三池山城は大牟田市の東側と熊本県南関町との境目にあり、三池山の標高366m付近で南北に走る尾根を加工した戦国の山城であります♪古来より霊峰として崇められた三池山であります♪

さてこの三池山城を本城としたのが、三池氏は鎌倉時代に三池荘南郷の地頭職であった安芸氏の子孫とされています♪
後に三池氏を名乗っていく訳ですが、室町・戦国時代には、この三池郡一帯に勢力を振るう国人領主として成長を遂げていきます♪

三池氏や筑後の国人領主達は豊後国の戦国大名・大友家に従っていますが、肥後国と接する三池エリアは一時、肥後国・菊池氏と協力し、大友家に抵抗しています☆
更には肥前国・龍造寺氏の筑後進出の際にも同様に抵抗しています☆
近隣の有力な戦国大名と相反した動きをしています☆

文明16年(1484年)筑後守護・大友政親は日田六郎を派遣して、三池山城を攻略させています☆その後の三池氏は大友家に帰順していますが、天文19年(1550年)大友義鑑暗殺事件を契機とした肥筑の騒動で、再び肥後国・菊池氏に呼応した事で、大友氏に三池山城を攻められ、往時の当主・三池上総介親員は敗北しています☆豊臣秀吉による九州征伐の後は所領を安堵され柳河城主となった立花宗茂の与力となっています♪

城郭は三池山から南北に伸びた尾根を加工してます♪見所は畝状竪堀群ではありますが、藪化しています♪虎口は人を1人しか通さない切通しを造り込み、堀切に土橋♪と国人領主・三池氏の会心の城郭がそこにはありました♪

因みに主郭には三池宮があるんですが、この境内の北側に3つの池があります♪これは三池の名前の由来となっていて、今でも水が入ってました♪

2023年05月04日 龍馬備中守【】
三池藩陣屋[大間城  周辺城郭]



福岡県の大牟田市にある【三池陣屋と紹運寺にある歴代藩主墓所】♪
江戸時代の三池藩の陣屋跡になります♪
この場所は柳河から熊本荒尾へ通じる街道を押さえる場所であり交通の要衝地となっています♪現在は三池小学校の場所です♪
背後の今山には紹運寺にある歴代藩主墓所♪
更には大牟田の国衆・三池氏の本城のある三池山と続きます♪

天正15年(1587年)高橋統増(直次)は豊臣秀吉から筑後国・三池郡内二十三か村で1万8千石余を与えられています♪往時は江ノ浦城(過去口コミ済)を居城にしましたが、三池へ居館を移しています♪この高橋直次は初めは高橋姓として生まれ、高橋紹運の次男となります♪戸次道雪鑑連の養子でもあり筑後国・柳河藩主・立花宗茂の実弟で、後には立花直次と立花姓を名乗ります♪

高橋統増は関ヶ原の合戦の際に立花宗茂と共に西軍に属した為に改易となってしまいますが、慶長18年(1613年)に将軍・徳川秀忠に謁し、姓を立花に改め、立花主膳正直次を称しました♪

共に、常陸国・筑波郡柿岡に5千石も賜り、元和3年(1617年)に江戸で没してます☆
この間に江ノ浦城は一国一城令によって廃城となり、立花直次の嫡男の立花種次が三池一万石に封じられ、この三池藩を立藩し初代藩主となり三池陣屋を居館としました♪

時は流れ、文化3年(1806年)に幕府の処分を受け陸奥国・伊達郡下手渡一万石に移封されてしまい、三池の藩領は幕府直轄地となり、三池陣屋は破却されています☆

陣屋は堀を巡らし、南に表門、東西にも門を設けて、土壁を築き、藩主館を置きました♪侍屋敷も配していました♪また、小学校に登る所には石段も残っています♪
大手門には石橋があり、現在も残っています♪

少し離れた今山の麓には紹運寺が残ります♪寺号は藩高祖の高橋紹運にちなんでいます♪
三池藩主・立花家の菩提寺として2代目の当主・立花種次が元和7年(1621年)に建立♪太宰府市の西正寺や柳川市の天叟寺も、高橋紹運をはじめとする岩屋城戦の戦没者の菩提寺ともなっています☆境内には三池藩の初代藩主・立花種次から7代藩主の立花種徳の墓碑が残ります♪門前の道の向かい側にも往時は法輪寺があって、現在は跡地ではありますが、ココにも三池藩歴代藩主の墓碑が残ります♪

2023年05月03日 龍馬備中守【】
大間城



福岡県の大牟田市にある【大間城】♪城郭詳細が無い為、記載します♪宅地にはなっていますが、高まる丘陵上の大間八幡神社♪その場所が城郭となります♪

筑後国の最南端にある大牟田は北、東部、南部の東半分をそれぞれ、丘陵や山地に囲まれていて西部は有明海に面しています♪
肥後国との国境に立地する大間山(標高225m)から西に伸びる丘陵上に城郭は立地しました♪現在は堀と高台の名残を残しています♪周りは住宅地です♪

築城主は三池摂津守師員で正治2年(1200年前後)に築いた平城となります♪
三池にある今福城(過去口コミ済)から、ココ大間城へ移り、代々居城としました♪

この三池氏は源頼朝の家臣だった、藤原親能が三池郡の地頭職に命じられ、三池氏を名乗り称しました♪

天正年間(1573年〜)頃から豊後国の大友宗麟の支配下に入り、三池上総介鎮実が二百五十町を領しました♪
天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定以降は三池上総介鎮実は三瀦郡の内に領地五十町を賜り、その後は柳河城主・立花家の家臣となっています♪

大間城の東側には大間劫月院跡の石造群も残ります♪かつて、この場所には劫月院という禅宗のお寺がありました♪室町時代の頃にはこの地の領主である三池氏の庇護を受けていました♪
江戸時代には虚無僧寺とも呼ばれていて、ここに逃げ込み編笠を被れば罪を犯した人も逃れられたそうで男性の駆け込み寺のような場所だったようです♪
天和3年(1683年)に柳川に移転していて江月院と名を改めています♪柳川へ運ばれた観音様や敷石が夜な夜な鳴き声をあげ病人が絶え間なく出た為に人々は帰りたがっているのだろうと思い元の劫月院の場所に祠を造り安置したと伝わります♪今もここにお参りすると子供の夜泣きが治ると言い伝えられています♪

2022年10月01日 マグロ常陸介祐平
浄業寺古塔群[大間城  寺社・史跡]



史跡名は浄業寺古塔群となっていますが、鎌倉時代からこの地で活躍した筒ヶ嶽城主小代氏のお墓です。鎌倉時代から江戸時代初期まで、121基の石塔が並ぶ景色は壮観です。一枚目の写真は小代氏が恩顧に報いる為に建てた、鎌倉将軍頼朝、頼家、実朝の供養塔です。

2022年09月30日 マグロ常陸介祐平
田次郎丸館[大間城  周辺城郭]



室町時代の名主の館跡で土塁の痕跡が確認できます。古塔がお堂の周囲に並び趣きがあります。

2022年09月30日 マグロ常陸介祐平
三池藩陣屋[大間城  周辺城郭]



小学校の入口に説明板があり、近くには遺構の眼鏡橋があります。歴代藩主の墓は、車で10分程離れた紹運寺(高橋紹運の供養塔あり)と向かいの法輪寺跡にあります。

2022年09月30日 マグロ常陸介祐平
大間城



城址は大間神社となっています。やや高台になっており曲輪感はありますが、説明板に記載されている遺構はわかりませんでした。三池氏の墓は車で10分程度離れた定林寺にあります。

2012年10月13日 湯たん坊
大間城

神社の隣にある梅林は、1月下旬から2月までが見頃です。

余談ですが、公民館活動が活発です。

大間城の周辺スポット情報

 万田坑(遺構・復元物)

 三池藩陣屋(周辺城郭)

 田次郎丸館(周辺城郭)

 三池山城(周辺城郭)

 六反城(周辺城郭)

 内山城(周辺城郭)

 甘木城(周辺城郭)

 浄業寺古塔群(寺社・史跡)

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