筒ヶ嶽城(つつがだけじょう)

筒ヶ嶽城の基本情報

通称・別名

筒ヶ岳城、筒嶽城、小代城、小岱城、小袋城

所在地

熊本県荒尾市府本

旧国名

肥後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

小代行平

築城年

文治元年(1185)

主な改修者

主な城主

小代氏

廃城年

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

高道城(熊本県玉名市)[8.4km]
大間城(福岡県大牟田市)[8.6km]
南関城(熊本県玉名郡)[8.9km]
大津山城(熊本県玉名郡)[9.8km]
田中城(熊本県玉名郡)[12.2km]
城村城(熊本県山鹿市)[15.4km]
山鹿城(熊本県山鹿市)[15.5km]
鷹尾城(福岡県柳川市)[17.9km]
岩野嶽道祖城(熊本県熊本市)[18.0km]
佐留垣城(福岡県柳川市)[18.3km]

筒ヶ嶽城の口コミ情報

2024年03月31日 ヴィヴィ
筒ヶ嶽城

椿山かと思える程の落椿の美しさに惹かれた山歩きでした。

2023年12月13日 RED副将軍
筒ヶ嶽城



有力国人である小代氏の居城で吉川広家の改修ともされる巨大山城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。在地土豪の小代氏により築かれたとされます。
小代氏は、武蔵七党のひとつ児玉党に属していた御家人の入西資行の次男である入西遠弘が武蔵国小代郷に住して小代氏を称したのが始まりとされます。
1247年、北条時頼が三浦氏を滅亡に追い込んだ宝治合戦において小代重泰は北条氏に付いて活躍。その戦功により父の小代重俊は肥後国野原荘の地頭職に任ぜられました。
1271年、小代重泰は鎌倉幕府より蒙古襲来に備えて野原荘へ下向を命じられ土着。この頃に筒ヶ嶽城が築かれたと考えられますが定かではありません。
小代氏は以降、肥後国北部の有力国人として代々続きました。
南北朝時代の1379年には、深堀時久が筒嶽で宿直したとの記録があり既に築かれていたのが確認でき、1550年の大友義鎮書状には、肥後北部と筑後南部の諸勢力が筒ヶ嶽城を攻撃したが小代氏が撃退したことを大友義鎮が賞したと伝わります。
大友氏、龍造寺氏、島津氏に属しながら所領を維持し、豊臣秀吉による九州征伐では豊臣秀吉に従って所領を安堵されています。
その後も、肥後に入部した佐々成政、加藤清正、細川忠興の家臣となり小代氏は近世まで続きました。
肥後国人一揆の際には吉川広家が入った様で、現在に残る遺構はその際に改修されたものと考えられます。

見所
標高501mの筒ヶ嶽山頂に築かれています。
山頂の主郭を中心として南北の尾根筋に巨大な堀で区画された主に6つの郭群で構成されています。
主郭は、南北二段で西側面に石積が残ります。
主郭から西尾根は二重堀切で遮断されており針の耳登山口から最初に見える遺構です。
南尾根には二重堀切を隔てて高土塁が設けられた三郭に続き、その下に巨大な二重堀切があり、更に下にも大堀切と横堀が巡り厳重な防御線が張られており見所のひとつです。
主郭から北尾根には石列が確認できる二郭があり、
大堀切を隔てて四郭、周辺に堀切や竪堀を張り巡らせ東尾根に五郭、更に北尾根を進むと六郭があり、北側面に畝状竪堀群、その下に横堀があり北西尾根を遮断しています。

行き方は、複数の登山ルートがありますが、今回は西側の荒尾市府本から林道に入り針の耳登山口
から登りました。登山口周辺に駐車スペースがあります。比高は約230mですがアップダウンと距離があり約50分で辿り着きました。

2023年09月30日 龍馬備中守【】
日嶽城(亀城)[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の玉名市にある【日嶽城(亀城)】♪(鶴城)の南側に伸びる尾根上の標高92m程を中心に城郭は形成されました♪北側の日嶽城(鶴城)は日嶽城の詰城です♪

古代における日嶽は火岳(狼煙を上げる火の岳)と呼ばれていて、烽火台が設けられていたとも云われています♪古代からの肥後国といえば鞠智城ですが、有明海に敵の船が侵入すると狼煙を上げ、次々に山々をリレーし菊池の鞠智城まで伝えたのではないか❓とも云われている日嶽城です♪

さてさて歴史詳細です♪鎌倉時代の建久4年(1193年)八幡別当・紀国隆は鎌倉幕府より大野別府250町の地頭職に命じられています♪嫡子の時隆、次男の国秀、三男の秀隆に各55町を分与しています♪時隆は肥後玉名郡大野別府にて中村氏を称し、次男の国秀は築地氏を称し築地次郎国秀館を現・岱明町下前原に居館を構えています♪
三男の秀隆は大野氏を称し、惣領職を継いでいます♪

弘安4年(1281年)2度目の元寇襲来の際に奮戦した大野小次郎国隆は『蒙古襲来絵詞』にその名を残しました♪同一族の岩崎氏、田嶋氏、築地氏、二塚氏の4氏は田地を得ました♪

南北朝時代に大野氏は菊地氏と共に南朝方(後醍醐天皇方)として戦いましたが幾度となく北朝(足利方)の今川軍に攻められています☆

同南北朝時代に北朝方の小代氏の筒ヶ岳城に対抗して、南朝方の大野三郎が築城したのが日嶽城と伝わり、『日岳』の山頂に本丸を置きコレを鶴城と称し、『古城』に二の丸を配置して亀城と称したと伝わります♪

中世の大野別府(玉名町、築山、滑石、岱明町一帯)を中心に栄えた土豪・大野一族の山城なのであります♪
天文19年1550年には豊後国・大友義鎮の家臣・小代氏が日嶽城を攻略☆
耳川の戦いにより、その力を失っていく豊後国の大友家ですが、その契機に佐嘉・龍造寺隆信は肥後北部まで勢力を伸ばしていきます☆これにより小代氏は、大友家から龍造寺家に転属していて、天正9年(1581年)には日嶽城・城主、大野弾正少弼紀親祐は、小代左近将監親忠と戦い敗退しています☆大野別府・地頭である大野氏はココに滅んでしまいました…。。

副郭である日嶽城(亀城)ですが、登城路は無く、程良い場所から登城します♪長らく人が入り込んでいない為に、中々の藪ではありますが、その遺構は、鮮明に残ります♪
特に堀の鋭さ畝状竪堀群(畝が太い)を見ると、戦国晩期まで使用されたのかな〜?という印象です♪大野氏が滅んだ後は龍造寺方として、動いた小代氏が南方に根を張る薩摩国・島津氏に対して造り込んだのかもしれません♪突き進め竹藪〜wって感じでしたww

2023年09月29日 龍馬備中守【】
日嶽城(鶴城)[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の玉名市にある【日嶽城(鶴城)】♪開田集落背後の標高201m程の山頂を中心に城郭は形成されました♪南側の日嶽城(亀城)は日嶽城の出城でしょう♪
本善坊(標高300m)の南側の峰に日嶽城(鶴城)は立地します♪小岱山(筒ヶ嶽城)とは直線3キロ位の位置関係です♪

古代における日嶽は火岳(狼煙を上げる火の岳)と呼ばれていて、烽火台が設けられていたとも云われています♪古代からの肥後国といえば鞠智城ですが、有明海に敵の船が侵入すると狼煙を上げ、次々に山々をリレーし菊池の鞠智城まで伝えたのではないか?とも云われている日嶽城です♪
さてさて歴史詳細です♪鎌倉時代の建久4年(1193年)八幡別当・紀国隆は鎌倉幕府より大野別府250町の地頭職に命じられています♪嫡子の時隆、次男の国秀、三男の秀隆に各55町を分与しています♪時隆は肥後玉名郡大野別府にて中村氏を称し、次男の国秀は築地氏を称し築地次郎国秀館を現・岱明町下前原に居館を構えています♪
三男の秀隆は大野氏を称し、惣領職を継いでいます♪

弘安4年(1281年)2度目の元寇襲来の際に奮戦した大野小次郎国隆は『蒙古襲来絵詞』にその名を残しました♪同一族の岩崎氏、田嶋氏、築地氏、二塚氏の4氏は田地を得ました♪

南北朝時代に大野氏は菊地氏と共に南朝方(後醍醐天皇方)として戦いましたが幾度となく北朝(足利方)の今川軍に攻められています☆

同南北朝時代に北朝方の小代氏の筒ヶ岳城に対抗して、南朝方の大野三郎が築城したのが日嶽城と伝わり、『日岳』の山頂に本丸を置きコレを鶴城と称し、『古城』に二の丸を配置して亀城と称したと伝わります♪

中世の大野別府(玉名町、築山、滑石、岱明町一帯)を中心に栄えた土豪・大野一族の山城なのであります♪
天文19年1550年には豊後国・大友義鎮の家臣・小代氏が日嶽城を攻略☆
耳川の戦いにより、その力を失っていく豊後国の大友家ですが、その契機に佐嘉・龍造寺隆信は肥後北部まで勢力を伸ばしていきます☆
これにより小代氏は、大友家から龍造寺家に転属していて、天正9年(1581年)には日嶽城・城主、大野弾正少弼紀親祐は、小代左近将監親忠と戦い敗退しています☆大野別府・地頭である大野氏はココに滅んでしまいました☆

2023年09月04日 気分爽快信濃守
筒ヶ嶽城



針の耳登山口から主郭まで45分かかりました。結構本格的な登山です。
ハイキングコースとして整備されているので、迷うことなく城跡に辿り着けます。見所沢山の城なので、写真8枚では伝えきれませんが、山城好きの人にはお勧めです。
まだまだ草木が青々としていたので、次は初冬に行こうと思います。

①最初に現れた二重堀切
②主郭西の郭
③主郭北の郭の土塁にあった気になる石列
④③の郭北にある堀切
⑤④の堀切先の郭北にある土橋と堀切
⑥⑤の堀切先にあるL字型の土塁に囲まれた郭
⑦主郭南の堀切と土橋
⑧主郭西の石垣は草で見えなかった

2023年01月16日 旅するゾンビ
筒ヶ嶽城



筒ヶ岳城は、熊本県玉名市にある小岱山の最高峰、筒ヶ岳501mにあります。一番近い蓮華院誕生寺先のビジターセンターから、約1時間半。登頂には登山装備が必須です。

2021年09月25日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
筒ヶ嶽城



残暑厳しき9月20日、在宅勤務中の城友を誘い現地集合で攻めました。
登山初心者のあたしが健脚先人さまの口コミを読み、自分も健脚カテゴリーに属するかのような錯覚に陥り、いつも通りの軽いテンション軽いフットワークで参戦しました〜

山の情報として
遺構は筒ヶ岳(嶽)の山頂で501m。
駐車場からの比高は350m。
ただ実際には登り下りで480m登った事になってました。
山アプリによると…
歩いた距離は5km。
4時間20分を要し、休憩時間が何故か1時間40分も…休憩多すぎるやろ〜恥を知れ、恥を!
山頂で知り合ったおじさんが『北に行くのはやめときー』と言ったんで断念。しかも正解!
『あたしら同じくらいの体力で良かったね。体力に差があったら休憩を言い出しにくいやん』などと傷を舐め合いながらどうにか登頂。
展望台では2人ともほぼ放心状態よ。
なのに、城友がリュックをゴソゴソ…『ネーサンどうぞ』と、見覚えのある飴を差し出す。んっ?これってもう随分前のモニター品の養命酒の飴じゃねぇ(๑⊙ლ⊙)ワッハッハ!
飴も城友も良い仕事しよるわ♫
おしゃべりあり、笑いありで、ボロッボロッになりながらも下山。
南関の麦の花でうどん食べ生き返って解散。
身の程知らずの城めぐりはまだまだ続くぜ〜♫

2021年03月12日 一寸榎伊予守
日嶽城(亀城)[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



日嶽城跡(亀城)は日嶽城跡(鶴城)の南側、標高92㍍の山頂北側にあります。南側は蜜柑畑となっており遺構は失われていますが東側から北側にかけて遺構がよく残っております。

この城とにかく遺構がすばらしいんです。山頂から北側にかけて土橋付きの堀切や土塁の残る数段の曲輪、東側の腰曲輪付きの規模の大きい畝竪など見所満載なんです。
しかしそこは激竹藪の中…当然案内板や道などありません。地図を頼りの登城となります。

熊本の山城には少ない規模の大きな畝竪などは龍造寺方となった小代氏の支配下となった後で造られたのかもしれません。

2021年03月09日 一寸榎伊予守
日嶽城(鶴城)[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



日嶽城跡は筒ヶ嶽城跡の南約3.6㎞の所、開田集落背後の標高200㍍程の山頂を中心に築かれています。
山頂の狭い郭と南東側に二段の郭があり北側に堀切、北西側に4~5条の畝状空堀群があり、さらに北側の本善坊背後にも浅いながら一条の堀切があります。

主郭背後の堀切の北側に削平され土塁を伴う空間があり堀切の構築の後にさらに防衛のために造ったのかな?と想像をかきたてる場所も。

城主の大野氏は鎌倉時代に下向し、蒙古襲来や南北朝時代には南朝方として活躍しましたが天正9年、かねてより不仲だった筒ヶ嶽城城主の小代氏により攻撃され落城し滅亡しました。

2020年04月11日 一寸榎伊予守
梅尾城[筒ヶ嶽城  周辺城郭]

筒ヶ岳城の里城と伝わる。

2017年01月17日 はやぶさ
筒ヶ嶽城

荒尾中央登山口から休み休み登って約50分、下りは約25分です。

2016年02月20日 あんこのすけ
筒ヶ嶽城

徒歩一時間弱で小岱山山頂の筒ヶ岳城跡に到着します。戦国時代には九州の重要な戦の舞台ともなり、山頂からは美しい有明海が望め、地元民としては誇らしい城跡です。

2012年06月11日 筑後守もんど
筒ヶ嶽城

九州自然歩道の小代山登山コースの途中になってます
今回は一番時間がかからないと思われる荒尾市側の針の耳コースでしたが、片道1時間かかりました。
車は小代山駐車場に止めれます。

2012年06月10日 筑後守もんど
筒ヶ嶽城

登山道なので一応の装備は要ります。
道中は携帯繋がりにくいので救援も呼べません。
来ても時間かかります。

筒ヶ嶽城の周辺スポット情報

 梅尾城(周辺城郭)

 日嶽城(鶴城)(周辺城郭)

 日嶽城(亀城)(周辺城郭)

 井手城(周辺城郭)

 屋形山城(周辺城郭)

 本村居館(周辺城郭)

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