筒ヶ嶽城(つつがだけじょう)

筒ヶ嶽城の基本情報

通称・別名

筒ヶ岳城、筒嶽城、小代城、小岱城、小袋城

所在地

熊本県荒尾市府本

旧国名

肥後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

小代行平

築城年

文治元年(1185)

主な改修者

主な城主

小代氏

廃城年

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

高道城(熊本県玉名市)[8.4km]
大間城(福岡県大牟田市)[8.6km]
南関城(熊本県玉名郡)[8.9km]
大津山城(熊本県玉名郡)[9.8km]
田中城(熊本県玉名郡)[12.2km]
城村城(熊本県山鹿市)[15.4km]
山鹿城(熊本県山鹿市)[15.5km]
鷹尾城(福岡県柳川市)[17.9km]
岩野嶽道祖城(熊本県熊本市)[18.0km]
佐留垣城(福岡県柳川市)[18.3km]

筒ヶ嶽城の口コミ情報

2024年12月07日 龍馬備中守【】
梅尾城[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県荒尾市の府本にある【梅尾城】♪小岱山の西部に立地する中世の山城です♪小岱山の山頂とは尾根続きの為に、この地を領した小代氏の筒ヶ嶽城の西側を守備した出城、支城群の1城でしょう♪
北は福岡県の大牟田市に接して、西側には有明海が広がります♪東側は山岳地帯が続き、小岱山は筒ヶ嶽城(標高501m)が聳えます♪
口碑によれば、地名は小岱山の山麓、ふもとの意とも云われますが未詳です。

小岱山麓は古くから、生産遺跡群の存在があり、特に府本には多く分布します♪
小岱山斜面の丘陵地帯には製鉄跡群が多く見られ、鉄または鉄器の生産をしていたのでしょう♪小代焼きで有名で、小岱山古窯跡群が多く分布し、大部分が須恵器窯で古代末期頃のものと思われ、県史跡となっています♪
府本の地名には古屋敷、破風口、土井ノ内、殿の屋敷など残ります♪特に敵見坂は、筒ヶ嶽城へ押し寄せる敵を監視していた為に付けられた地名か?城郭と関連しそうな地名が付近に残ります♪

梅尾城は、標高143m付近の小岱山から派生する尾根上に形成されました♪築城年代は不明でありますが、鎌倉時代頃に小代氏によって築かれたと云われます♪この小代氏は現荒尾を領し、筒ヶ嶽城に本城を築いた国衆なのであります♪この小代氏ですが、平安時代から武蔵国で割拠した武蔵七党の1つで、児玉党を構成していました♪大元を辿ると、武蔵国比企郡小代郷が本貫地であります♪

治承4年(1180年)小代行平は挙兵した源頼朝の下に参陣し、治承・寿永の乱の際は源範頼に従い一ノ谷の戦いで功を挙げ、越後国青木庄・中河保、安芸国見布野庄の地頭職を得ています♪

下り、宝治元年(1247年)鎌倉幕府の内乱である宝治合戦では、小代重俊が功を挙げ、肥後国玉名郡野原荘(荒尾周辺)の地頭職を得ています♪(※ 肥後国玉名郡北西部(現、熊本県荒尾市、玉名郡長洲町)にあった宇佐弥勒寺領の荘園♪宝治元年(1247年)宝治合戦までの地頭は大江広元の子の毛利禅門西阿(季光)でしたが、同合戦で滅び、その跡に武蔵国御家人小代重俊が補任)

ただ、小代重俊、重泰の父子は直ぐに野原荘に下向した訳では無く、依然として武蔵国の小代郷に居住していた様で、恐らく野原荘には代官を派遣して、支配と経営に当たっていたのでしょう♪これは越後国青木荘・中河保、安芸国見布野荘も同様だったと思われます♪文永8年(1271年)には小代重泰が蒙古襲来に備える為、一旦九州へ下向し博多湾の警備に辺り、文永の役後の文永12年(1275年)いよいよ野原荘に下向した♪
コレが、野原荘での小代氏の始まりです♪

南北朝時代に小代氏は、武家方として活躍し、永徳3年(1383年)野原荘(荒尾、長洲)全体の地頭職を得ています♪その後の小代氏は、菊池氏と対立する事で大友氏の配下に入っています。天文23年(1554年)菊池義武が大友義鎮に滅ぼされると、小代実忠は豊後・筑後・肥後などに広大な所領を得て、肥後屈指の有力国人になっていきます♪
天正6年(1578年)耳川の戦いで大友義鎮が敗れると、大友氏は一気に衰退。肥前の龍造寺隆信が肥後に進出してきます。小代親忠は激戦の末に龍造寺隆信に屈服し、龍造寺軍の肥後平定に活躍していきました。
天正12年(1584年)沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、龍造寺氏が一気に衰退すると、小代親忠の子・小代親泰は島津氏に下り、大友氏攻めに加わっています。戦況を読み、把握し、大友氏から始まり、龍造寺氏、更には島津氏と主君を変え、対応をしていったのです。

しかし天正13年(1585年)豊臣秀吉が大友氏救援を口実に、いわゆる九州征伐に乗り出すと、小代親泰は周辺の国人らと同様に秀吉の下に参陣し、大幅に減らされてはしまいますが、所領安堵状を交付されました。肥後に佐々成政が新領主として下向して来た際には、肥後国人の多くが所領を削られていて、これに不満を抱く国人達は、隈部氏を中心に肥後国人一揆を起します。一揆は鎮圧され多くの国人が処分されてしまい、佐々成政も改易を余儀無くされています。小代親泰は肥後国人一揆の発生時、大坂にいたので、責任を問われる事はありませんでした。肥後国人一揆の結果、肥後は南部を小西行長、北部を加藤清正に分割統治という形になります。小代親泰はその後、加藤家に仕官し、4135石を与えられ重臣として遇されました♪寛永9年(1632年)加藤家が改易され細川家が新領主として入府すると、小代氏は細川家に仕えています♪

2024年12月04日 dayan
筒ヶ嶽城

景色もいいし手軽にいける。雲仙が綺麗に見えてました

2024年06月23日 龍馬備中守【】
蔵満城[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の荒尾市にある【蔵満城】♪東側に南流する浦川は、河岸段丘を作り出しています♪南側は長洲に繋がる平野部で、西側は有明海に面した、河岸段丘上に城郭は存在しました♪

中世の荒尾は小代氏が領したエリアです♪この蔵満城は小代氏の一族である、蔵満氏の城郭と伝わります♪

小代氏についての出自は、武蔵国の小代(勝代)郷(現、埼玉県東松山市)を本領とする中世の武家となります♪武蔵七党の児玉党の流れをくむ遠弘が、小代氏の祖であると伝わります♪遠弘の子である行平は源頼朝に仕えて、本領のほか越後国の中河保、安芸国の見布乃荘等の地頭職を与えられ、鎌倉御家人として小代氏の基礎を築きました♪宝治元年(1247年)小代重俊の時に、宝治合戦の勲功賞として肥後国の野原荘地頭職を与えられました♪文永8年(1271年)幕府の指令により、モンゴル軍襲来に対する防備と領内の治安鎮圧の為に、小代重俊の子息達は肥後国に下り、そのまま土着しています♪南北朝の動乱期には菊池氏を始めとする南朝勢力との合戦で勲功をあげ所領を拡大し、室町中期以降には九州の有力守護大名である大友氏に属しました♪その後の在地情勢の変化に順応して龍造寺氏、島津氏、豊臣氏と主家を転じ、加藤清正に仕えましたが、加藤家改易にともない一時浪居しました。寛永年中(1624年〜44年)細川氏に仕えています♪

この小代氏からは増永氏・荒尾氏・一分氏・中分氏・宮内氏と、この蔵満氏などの諸氏が出ています♪

城郭は美名尻地区の丘陵地末端部、標高13mに存在します♪丘陵地の上は広い平坦地になっていて、城郭を感じる事が出来ます♪
丘陵地先端部寄りに堀切がある様ですが、イマイチ解らず仕舞いでした。城郭の中心地は天四柱神社と思われ、一画高くなっています♪
周囲には『じおんどん』、『どくどんさん』という小字地名が残ります♪『どくどんさん』にはかつて空堀が巡っていた様ですが、現在は宅地がある為に遺構を探すのは困難でありました♪

2024年06月22日 龍馬備中守【】
大園山居館[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の荒尾市にある【大園山居館】♪南北に伸びる河岸段丘上に城郭は立地しています♪東には浦川が南流し、西側には有明海が広がります♪現在、有明小学校のある高台(増永台地)が大園山館となります♪同場所からは杉谷遺跡もあり、甕棺なども出土しています♪弥生時代の遺跡の出土は古くからこの高台を利用した証拠なのであります♪有明小学校の中に、土塁と看板、堀の名残が残っており、小学校の先生に声を掛け、快く見学のオッケーを頂きました♪

古くから『大園さん屋敷』と呼ばれていた場所です♪築城年や城主は不明ではありますが、出土した遺物は土師器の皿や坏、擂鉢や須恵器、中国竜泉窯系の青磁器など、居館であったであろうものが出土しています♪
出土遺物は13世紀頃のモノが中心で、往時、この地を領した小代氏(一部氏)の居館跡と見られています♪小代氏は肥後北部の荒尾を領した国人領主であり、戦国期には東側にある筒ヶ嶽城を本城としています♪

大園山居館は有明小学校一帯に築かれていました♪増永台地の中でも周囲より一段高まる台地上に居館は造り込まれた♪東西に長い長方形をした居館の南側と東側、と二重の土塁と二重の堀で防御を行いました♪
特に東側に残る堀は現在、小学生達が校舎に向かう通路となっていますが、この通路が堀であり、両翼には二重に築かれた土塁が南北に高まりを残します♪

2024年05月30日 龍馬備中守【】
本村居館[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の荒尾市にある【本村居館】♪有明医療センターの北側にある丘陵地に築かれています♪この微丘陵地は徐々に比高を上げながら、尾形山城のある低山(おかち山)に繋がります♪浦川と東側からの河川(これも浦川)が合流する地点の北側♪おかち山の南側、微丘陵地の先端に城郭は存在します♪西側には有明海が広がり、長洲往還が走ります♪

この本村居館、城郭詳細は不明ではありますが、小代氏の尾形山城の居館跡なのでしょう♪尾形山城の口コミで小代氏は最後に細川家に仕えたと記載しました♪
秀吉による九州仕置後、小代氏は肥後一国を与えられます♪佐々成政に対して、肥後の国人領主層の多くは一揆を起こしています。(肥後国人一揆)ですが、小代氏はこの一揆に参加せずに、一揆鎮圧後には肥後半国の領主となった加藤清正の元で、阿蘇地域に所領を与えられています♪次いで、関ヶ原の戦い後の加藤清正の下で、葦北郡の津奈木城(過去口コミ済)の城代となり野原荘を去っています。その後に、細川家に仕えています♪
と入れ忘れた小代氏の歴史を追記しておきますw文永12年(1275年)以来300年に渡る小代氏の野原荘の支配は終わりを告げました♪

市街地の中で、一部消失している居館跡ではありますが、その空堀の深さや土塁の高さは素晴らしく、良く残っているなぁという印象でした♪このまま、遺構を維持して欲しい本村居館でした♪

2024年05月28日 龍馬備中守【】
尾形山城[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の荒尾市の荒尾にある【尾形山城】♪浦川と東側からの河川(これも浦川)が合流する地点の北側の低山に城郭は存在します♪この山はおかち山と呼ばれ、標高は63mの低山となっています♪西側に有明海が広がり、眼下には長洲往還が走ります♪現在は山配水池の施設と展望台があります♪
築城年代は不明ですが、小代八郎により築かれたと伝わります♪その後、小代氏の家臣である平山惟久が在城したとされます♪南側には本村居館があり、この尾形山城が詰城と思われます♪三角点のある63mのピークが主郭となります♪削平は甘めではありますが、腰郭の輪郭には土塁があり、内側は空堀となっています♪主郭北側には堀切が一条は明瞭に残ります♪おかち山自体を城塞化していたでしょうが、現在は山配水池の施設や建物があり、往時の姿を見る事は出来ません…☆

小代氏の事ですが、武蔵国で割拠した武蔵七党の1つで、児玉党を構成していました♪出自は武蔵国比企郡小代郷が本貫地となります♪宝治元年(1247年)宝治合戦(北条時頼が三浦氏を滅亡に追い込んだ戦い)では小代重俊が功を挙げていて、これにより肥後国玉名郡野原荘の地頭職を得ています♪蒙古襲来を契機に肥後国野原荘に本格的に移住・定着して、所領経営を行ったと云われています♪

南北朝時代の小代氏は武家方として活躍♪永徳3年(1383年)野原荘全体の地頭職を得ています♪その後、小代氏は菊池氏と対立し大友氏の配下に入りますが、天文23年(1554年)菊池義武が大友義鎮に滅ぼされると、小代実忠は豊後・筑後・肥後などに広大な所領を得て、筒ヶ岳城を本拠地として肥後国、屈指の有力国人となっています♪

天正6年(1578年)耳川の戦いで大友義鎮が敗れると、大友氏は一気に衰退します☆肥前国の龍造寺隆信が肥後に進出してくると…。。
小代親忠は激戦の末に龍造寺隆信に屈服し、 龍造寺軍の肥後平定に活躍しました♪
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、龍造寺氏が一気に衰退すると、親忠の子・小代親泰は島津氏に下り、大友氏攻めに加わっています♪近世には肥後入りした細川家に仕えています♪

2024年05月26日 龍馬備中守【】
井手城[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の荒尾市の本井手にある【井手城】♪熊本県の北西端に位置し、関川を挟んだ北は三池氏の大牟田♪東は小代氏の筒ヶ岳城(筒ヶ岳山頂501m)を境にして、更に南関、玉名と続きます♪井手城の北の関川は、恐らく三池氏との境目となる場所で、河川は西に流れ有明海に注ぎ込みます♪関川の流れで削り残った河岸段丘上に城は立地しました♪

城主、築城年共に詳細は不明ですが、荒尾一帯は小代氏の領有する地の為、この井手城もまた、小代氏の支城群の1城なのでしょう♪
小代氏は、筒ヶ岳を本城とする国衆であります♪

この荒尾自体、境崎貝塚や三ノ宮古墳、四山古墳など、縄文時代から古墳時代の遺跡が多く分布していて、古くから人々がいた事が証明されています♪更には古代の生産遺跡群も多く、窯業跡や製鉄所跡などがあります♪有明海という海から、様々な文化などの情報が入ってきていた事でしょう♪中世にこのエリアを割拠した、小代氏に縁のある城跡や寺院遺跡なども多く分布しています♪また街道も充実していて、南北に2本の街道が縦断しています♪有明海沿いを走る長洲往還と、筒ヶ岳の麓を走る三池往還です♪三池往還に関しては、江戸時代から残る岩本橋(石造眼鏡橋)や岩本番所跡、成門や茶屋などの古い町並みが残っています♪

井手城の主郭は現在、権現堂となり、集落の崇拝を集めています♪主郭を土塁が廻る北側と南側に空堀、堀切が残る。特に南側は二重に堀を築き、土塁は高く防御が固いです♪北側は横堀、竪堀状の動線か?いずれにせよ、多重に堀を巡らせ、郭を小刻みに配置しています♪多くは竹藪に覆われていますが、比較的良好に遺構は残っています♪主郭南西側には、虎口かと思われる開口を見せ、大手の雰囲気を醸し出します♪もう一つ、虎口が南東側に開き、こちらが搦手か?何にせよ城郭の詳細は分かっていません…☆☆

2024年03月31日 ヴィヴィ
筒ヶ嶽城

椿山かと思える程の落椿の美しさに惹かれた山歩きでした。

2023年12月13日 ʀᴇᴅ副将軍
筒ヶ嶽城



有力国人である小代氏の居城で吉川広家の改修ともされる巨大山城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。在地土豪の小代氏により築かれたとされます。
小代氏は、武蔵七党のひとつ児玉党に属していた御家人の入西資行の次男である入西遠弘が武蔵国小代郷に住して小代氏を称したのが始まりとされます。
1247年、北条時頼が三浦氏を滅亡に追い込んだ宝治合戦において小代重泰は北条氏に付いて活躍。その戦功により父の小代重俊は肥後国野原荘の地頭職に任ぜられました。
1271年、小代重泰は鎌倉幕府より蒙古襲来に備えて野原荘へ下向を命じられ土着。この頃に筒ヶ嶽城が築かれたと考えられますが定かではありません。
小代氏は以降、肥後国北部の有力国人として代々続きました。
南北朝時代の1379年には、深堀時久が筒嶽で宿直したとの記録があり既に築かれていたのが確認でき、1550年の大友義鎮書状には、肥後北部と筑後南部の諸勢力が筒ヶ嶽城を攻撃したが小代氏が撃退したことを大友義鎮が賞したと伝わります。
大友氏、龍造寺氏、島津氏に属しながら所領を維持し、豊臣秀吉による九州征伐では豊臣秀吉に従って所領を安堵されています。
その後も、肥後に入部した佐々成政、加藤清正、細川忠興の家臣となり小代氏は近世まで続きました。
肥後国人一揆の際には吉川広家が入った様で、現在に残る遺構はその際に改修されたものと考えられます。

見所
標高501mの筒ヶ嶽山頂に築かれています。
山頂の主郭を中心として南北の尾根筋に巨大な堀で区画された主に6つの郭群で構成されています。
主郭は、南北二段で西側面に石積が残ります。
主郭から西尾根は二重堀切で遮断されており針の耳登山口から最初に見える遺構です。
南尾根には二重堀切を隔てて高土塁が設けられた三郭に続き、その下に巨大な二重堀切があり、更に下にも大堀切と横堀が巡り厳重な防御線が張られており見所のひとつです。
主郭から北尾根には石列が確認できる二郭があり、
大堀切を隔てて四郭、周辺に堀切や竪堀を張り巡らせ東尾根に五郭、更に北尾根を進むと六郭があり、北側面に畝状竪堀群、その下に横堀があり北西尾根を遮断しています。

行き方は、複数の登山ルートがありますが、今回は西側の荒尾市府本から林道に入り針の耳登山口から登りました。登山口周辺に駐車スペースがあります。比高は約230mですがアップダウンと距離があり約50分で辿り着きました。

2023年09月30日 龍馬備中守【】
日嶽城(亀城)[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の玉名市にある【日嶽城(亀城)】♪(鶴城)の南側に伸びる尾根上の標高92m程を中心に城郭は形成されました♪北側の日嶽城(鶴城)は日嶽城の詰城です♪

古代における日嶽は火岳(狼煙を上げる火の岳)と呼ばれていて、烽火台が設けられていたとも云われています♪古代からの肥後国といえば鞠智城ですが、有明海に敵の船が侵入すると狼煙を上げ、次々に山々をリレーし菊池の鞠智城まで伝えたのではないか❓とも云われている日嶽城です♪

さてさて歴史詳細です♪鎌倉時代の建久4年(1193年)八幡別当・紀国隆は鎌倉幕府より大野別府250町の地頭職に命じられています♪嫡子の時隆、次男の国秀、三男の秀隆に各55町を分与しています♪時隆は肥後玉名郡大野別府にて中村氏を称し、次男の国秀は築地氏を称し築地次郎国秀館を現・岱明町下前原に居館を構えています♪
三男の秀隆は大野氏を称し、惣領職を継いでいます♪

弘安4年(1281年)2度目の元寇襲来の際に奮戦した大野小次郎国隆は『蒙古襲来絵詞』にその名を残しました♪同一族の岩崎氏、田嶋氏、築地氏、二塚氏の4氏は田地を得ました♪

南北朝時代に大野氏は菊地氏と共に南朝方(後醍醐天皇方)として戦いましたが幾度となく北朝(足利方)の今川軍に攻められています☆

同南北朝時代に北朝方の小代氏の筒ヶ岳城に対抗して、南朝方の大野三郎が築城したのが日嶽城と伝わり、『日岳』の山頂に本丸を置きコレを鶴城と称し、『古城』に二の丸を配置して亀城と称したと伝わります♪

中世の大野別府(玉名町、築山、滑石、岱明町一帯)を中心に栄えた土豪・大野一族の山城なのであります♪
天文19年1550年には豊後国・大友義鎮の家臣・小代氏が日嶽城を攻略☆
耳川の戦いにより、その力を失っていく豊後国の大友家ですが、その契機に佐嘉・龍造寺隆信は肥後北部まで勢力を伸ばしていきます☆これにより小代氏は、大友家から龍造寺家に転属していて、天正9年(1581年)には日嶽城・城主、大野弾正少弼紀親祐は、小代左近将監親忠と戦い敗退しています☆大野別府・地頭である大野氏はココに滅んでしまいました…。。

副郭である日嶽城(亀城)ですが、登城路は無く、程良い場所から登城します♪長らく人が入り込んでいない為に、中々の藪ではありますが、その遺構は、鮮明に残ります♪
特に堀の鋭さ畝状竪堀群(畝が太い)を見ると、戦国晩期まで使用されたのかな〜?という印象です♪大野氏が滅んだ後は龍造寺方として、動いた小代氏が南方に根を張る薩摩国・島津氏に対して造り込んだのかもしれません♪突き進め竹藪〜wって感じでしたww

2023年09月29日 龍馬備中守【】
日嶽城(鶴城)[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



熊本県の玉名市にある【日嶽城(鶴城)】♪開田集落背後の標高201m程の山頂を中心に城郭は形成されました♪南側の日嶽城(亀城)は日嶽城の出城でしょう♪
本善坊(標高300m)の南側の峰に日嶽城(鶴城)は立地します♪小岱山(筒ヶ嶽城)とは直線3キロ位の位置関係です♪

古代における日嶽は火岳(狼煙を上げる火の岳)と呼ばれていて、烽火台が設けられていたとも云われています♪古代からの肥後国といえば鞠智城ですが、有明海に敵の船が侵入すると狼煙を上げ、次々に山々をリレーし菊池の鞠智城まで伝えたのではないか?とも云われている日嶽城です♪
さてさて歴史詳細です♪鎌倉時代の建久4年(1193年)八幡別当・紀国隆は鎌倉幕府より大野別府250町の地頭職に命じられています♪嫡子の時隆、次男の国秀、三男の秀隆に各55町を分与しています♪時隆は肥後玉名郡大野別府にて中村氏を称し、次男の国秀は築地氏を称し築地次郎国秀館を現・岱明町下前原に居館を構えています♪
三男の秀隆は大野氏を称し、惣領職を継いでいます♪

弘安4年(1281年)2度目の元寇襲来の際に奮戦した大野小次郎国隆は『蒙古襲来絵詞』にその名を残しました♪同一族の岩崎氏、田嶋氏、築地氏、二塚氏の4氏は田地を得ました♪

南北朝時代に大野氏は菊地氏と共に南朝方(後醍醐天皇方)として戦いましたが幾度となく北朝(足利方)の今川軍に攻められています☆

同南北朝時代に北朝方の小代氏の筒ヶ岳城に対抗して、南朝方の大野三郎が築城したのが日嶽城と伝わり、『日岳』の山頂に本丸を置きコレを鶴城と称し、『古城』に二の丸を配置して亀城と称したと伝わります♪

中世の大野別府(玉名町、築山、滑石、岱明町一帯)を中心に栄えた土豪・大野一族の山城なのであります♪
天文19年1550年には豊後国・大友義鎮の家臣・小代氏が日嶽城を攻略☆
耳川の戦いにより、その力を失っていく豊後国の大友家ですが、その契機に佐嘉・龍造寺隆信は肥後北部まで勢力を伸ばしていきます☆
これにより小代氏は、大友家から龍造寺家に転属していて、天正9年(1581年)には日嶽城・城主、大野弾正少弼紀親祐は、小代左近将監親忠と戦い敗退しています☆大野別府・地頭である大野氏はココに滅んでしまいました☆

2023年09月04日 気分爽快根室守
筒ヶ嶽城



針の耳登山口から主郭まで45分かかりました。結構本格的な登山です。
ハイキングコースとして整備されているので、迷うことなく城跡に辿り着けます。見所沢山の城なので、写真8枚では伝えきれませんが、山城好きの人にはお勧めです。
まだまだ草木が青々としていたので、次は初冬に行こうと思います。

①最初に現れた二重堀切
②主郭西の郭
③主郭北の郭の土塁にあった気になる石列
④③の郭北にある堀切
⑤④の堀切先の郭北にある土橋と堀切
⑥⑤の堀切先にあるL字型の土塁に囲まれた郭
⑦主郭南の堀切と土橋
⑧主郭西の石垣は草で見えなかった

2023年01月16日 旅するゾンビ
筒ヶ嶽城



筒ヶ岳城は、熊本県玉名市にある小岱山の最高峰、筒ヶ岳501mにあります。一番近い蓮華院誕生寺先のビジターセンターから、約1時間半。登頂には登山装備が必須です。

2021年09月25日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
筒ヶ嶽城



残暑厳しき9月20日、在宅勤務中の城友を誘い現地集合で攻めました。
登山初心者のあたしが健脚先人さまの口コミを読み、自分も健脚カテゴリーに属するかのような錯覚に陥り、いつも通りの軽いテンション軽いフットワークで参戦しました〜

山の情報として
遺構は筒ヶ岳(嶽)の山頂で501m。
駐車場からの比高は350m。
ただ実際には登り下りで480m登った事になってました。
山アプリによると…
歩いた距離は5km。
4時間20分を要し、休憩時間が何故か1時間40分も…休憩多すぎるやろ〜恥を知れ、恥を!
山頂で知り合ったおじさんが『北に行くのはやめときー』と言ったんで断念。しかも正解!
『あたしら同じくらいの体力で良かったね。体力に差があったら休憩を言い出しにくいやん』などと傷を舐め合いながらどうにか登頂。
展望台では2人ともほぼ放心状態よ。
なのに、城友がリュックをゴソゴソ…『ネーサンどうぞ』と、見覚えのある飴を差し出す。んっ?これってもう随分前のモニター品の養命酒の飴じゃねぇ(๑⊙ლ⊙)ワッハッハ!
飴も城友も良い仕事しよるわ♫
おしゃべりあり、笑いありで、ボロッボロッになりながらも下山。
南関の麦の花でうどん食べ生き返って解散。
身の程知らずの城めぐりはまだまだ続くぜ〜♫

2021年03月12日 榎晴信肥後守
日嶽城(亀城)[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



日嶽城跡(亀城)は日嶽城跡(鶴城)の南側、標高92㍍の山頂北側にあります。南側は蜜柑畑となっており遺構は失われていますが東側から北側にかけて遺構がよく残っております。

この城とにかく遺構がすばらしいんです。山頂から北側にかけて土橋付きの堀切や土塁の残る数段の曲輪、東側の腰曲輪付きの規模の大きい畝竪など見所満載なんです。
しかしそこは激竹藪の中…当然案内板や道などありません。地図を頼りの登城となります。

熊本の山城には少ない規模の大きな畝竪などは龍造寺方となった小代氏の支配下となった後で造られたのかもしれません。

2021年03月09日 榎晴信肥後守
日嶽城(鶴城)[筒ヶ嶽城  周辺城郭]



日嶽城跡は筒ヶ嶽城跡の南約3.6㎞の所、開田集落背後の標高200㍍程の山頂を中心に築かれています。
山頂の狭い郭と南東側に二段の郭があり北側に堀切、北西側に4~5条の畝状空堀群があり、さらに北側の本善坊背後にも浅いながら一条の堀切があります。

主郭背後の堀切の北側に削平され土塁を伴う空間があり堀切の構築の後にさらに防衛のために造ったのかな?と想像をかきたてる場所も。

城主の大野氏は鎌倉時代に下向し、蒙古襲来や南北朝時代には南朝方として活躍しましたが天正9年、かねてより不仲だった筒ヶ嶽城城主の小代氏により攻撃され落城し滅亡しました。

2020年04月11日 榎晴信肥後守
梅尾城[筒ヶ嶽城  周辺城郭]

筒ヶ岳城の里城と伝わる。

2017年01月17日 はやぶさ
筒ヶ嶽城

荒尾中央登山口から休み休み登って約50分、下りは約25分です。

2016年02月20日 あんこのすけ
筒ヶ嶽城

徒歩一時間弱で小岱山山頂の筒ヶ岳城跡に到着します。戦国時代には九州の重要な戦の舞台ともなり、山頂からは美しい有明海が望め、地元民としては誇らしい城跡です。

2012年06月11日 筑後守もんど
筒ヶ嶽城

九州自然歩道の小代山登山コースの途中になってます
今回は一番時間がかからないと思われる荒尾市側の針の耳コースでしたが、片道1時間かかりました。
車は小代山駐車場に止めれます。

2012年06月10日 筑後守もんど
筒ヶ嶽城

登山道なので一応の装備は要ります。
道中は携帯繋がりにくいので救援も呼べません。
来ても時間かかります。

筒ヶ嶽城の周辺スポット情報

 梅尾城(周辺城郭)

 日嶽城(鶴城)(周辺城郭)

 日嶽城(亀城)(周辺城郭)

 井手城(周辺城郭)

 本村居館(周辺城郭)

 尾形山城(周辺城郭)

 大園山居館(周辺城郭)

 蔵満城(周辺城郭)

 日平城(周辺城郭)

 立石城(周辺城郭)

 江田城(周辺城郭)

 江田船山古墳(寺社・史跡)

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