岩野嶽道祖城(いわのだけどうそじょう)
岩野嶽道祖城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 熊本県熊本市北区植木町大字岩野
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 小野良旨
築城年
- 天授年間(1375〜1381)
主な改修者
- 宗氏
主な城主
- 小野氏、宗氏
廃城年
- 享禄4年(1531)?
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
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岩野嶽道祖城の解説文
岩野嶽道祖城の口コミ情報
2024年09月16日 長岡佐渡yosy興長
岩野嶽道祖城
ナビ設定すると国道3号線から5分ほどで”ひらくち神社入口”の看板に到着します。看板下の道路が広めなので邪魔にならないように路駐しました。
登城口から比高70〜80mで比較的なだらかな登城道を15分ほど登れば本丸に到着します。アプリの基本情報にあるように、遺構が良好に残存していますので楽しませてくれます。
ただ残念なことに訪城者も少なく整備も行き届かない様子で、落ち葉が厚く堆積し倒竹や倒木で歩きにくいのでスニーカー以上が良いでしょう。蜘蛛の巣やヤブ蚊がスゴイのでそれなりの対策をして訪城してください。
写真
①城跡登城口
②堀切
③帯曲輪と土塁
④本丸下の曲輪と切岸
⑤虎口を上から
⑥本丸虎口
⑦攻め手を右に曲げ横矢をかける土塁
⑧本丸と祠
2023年02月27日 不動右馬允明王之介
岩野嶽道祖城
「ひらくち神社入口」の看板が入口です。竹山道が登城路ですが、地元の人によって通れるようにしてあります。
2021年10月29日 もっこす肥後守
岩野嶽道祖城
国道3号線の植木青果市場の横を道なりに進むと、左手に神社の看板と階段があります。車はそこに停められます。竹藪の道を登っていくと広めの空間があり、祠がまつってあります。
2013年02月13日 蒼 (唐冠魚鱗札)
岩野嶽道祖城
岩野嶽道祖城:植木カントリークラブの南側に 其れらしき小さな丘がありました
細い階段 獣道を登った頂きに 小さな仏壇みたいなのがあり扉も閉ざされていて 立札も無く確証が持てなかったので写真は今回見送りました
しかしその頃の城はきわめて簡単な構造であったと考えられる。
その後、宗氏が道祖城主として入城した。宗氏は託麻郡本山城(現・熊本市本山町)を預かっていたが、康正元年(1455)益城郡の大戦で一族70人が戦死するような奮戦をしたため、時の守護・菊池為邦が感状とともに山本郡岩野荘151町を授け、道祖城に移らせたものである。おそらくこの時期に現在残る道祖城の体裁が出来上がったものであろう。
この城跡は、城郭としての遺構を驚くほどよく残している。山頂部分を中心に山の中腹にかけて、土塁・竪堀・曲輪など大々的に施工され、特に山頂部周辺を取り巻く長い曲輪は約20段にも及び、防御態勢の完璧さを誇っている。
また城山の麓、馬場部落の中心部に、高さ2メートル、幅3メートルの土塁によって正方形に囲まれた場所があり、次郎丸屋敷と呼ばれている。
ここは今日、新春・星野両家の屋敷地となっているが、土塁の西側と南側には今でも空堀の一部が残っている。
宗氏に後継が途絶えた時、守護・菊池武包の子・次郎丸に名跡を継がせているので、その館跡であろう。
この次郎丸屋敷と道祖城を含む馬場全域は更に大規模な土塁と水濠(一部は三重にも及ぶ)に取り囲まれている。我々はここに城と居館が一組になった中世城郭の典型的な姿を垣間見ることが出来る。
享禄4年(1531)宗久隆退去という記事をもって道祖城の歴史の幕は下ろされるが、この時期は菊池氏の守護職廃絶の前後であり、道祖城も菊池氏とその運命を共にしたとも考えられる。