亀尾城(かめおじょう)

亀尾城の基本情報

通称・別名

亀ノ尾城、板井城、板井古城、丸城

所在地

熊本県菊池市七城町亀尾

旧国名

肥後国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

板井氏(相良氏)、関部氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(亀尾城跡)

再建造物

石碑、説明板、豊前濠

周辺の城

菊之城(熊本県菊池市)[4.6km]
鞠智城(熊本県山鹿市)[5.7km]
隈府城(熊本県菊池市)[6.3km]
竹迫城(熊本県合志市)[7.2km]
岩野嶽道祖城(熊本県熊本市)[7.4km]
山鹿城(熊本県山鹿市)[9.1km]
須屋城(熊本県合志市)[11.6km]
隈部館(熊本県山鹿市)[11.6km]
妙見城(熊本県熊本市)[12.6km]
城村城(熊本県山鹿市)[12.8km]

亀尾城の解説文

亀尾城(かめおじょう)は、熊本県菊池市七城町亀尾にある山城。板井城とも呼ばれる。

歴史 

築城年代、築城者は定かではない。

中世の豪族である菊池氏が、居城の菊池城を取り囲むように形成した城塞群「菊池十八外城」のひとつに数えられる。亀尾城のある七城町は、菊池十八外城のうちの追尾・野護・打越・正光寺・増水・台・神尾の七城があることが地名の由来だという。

菊池の南方熊本方面には、亀尾城・古池・戸崎城を第一線に、その後衛に菊の池・城林を配するが、なかでも要となるのが亀尾城だ。

城主の板井氏は、鎌倉時代にこの地に入った相良氏が板井氏を名乗り、菊池氏の傘下に入ったとされる。21代板井重朝のときに催された菊池万句連歌の際には、関部氏の名が城主として記されている。

南北朝時代には、九州探題の今川了俊と子の仲秋が、菊池攻略の拠点として大軍を2年に及び駐屯させたことがあるという。

遺構 

熊野権現神社北側の高台に位置する。花房台地中央を横断する板井川の北縁にあり、軍事的にも行政の場としても重視されていた。

菊池平野を俯瞰する花房台地の一角にあり、眼下には菊池川が流れ、西に打越城、明渡城、その右に正光寺城などの諸城を指呼の間に望める立地だ。菊池城との距離は約6kmである。

熊本県による発掘調査後に公園として整備され、豊前壕や曲輪が復元されている。

交通 

・九州自動車道植木ICから車で約15分

参考文献 

・『日本城郭大系 第18巻 福岡・熊本・鹿児島』新人物往来社、1979年。

文:萩原さちこ


亀尾城の口コミ情報

2025年01月18日 龍馬備中守【】
増永城[亀尾城  周辺城郭]



熊本県菊池市の七条町砂田にある【増永城】♪
若宮神社の境内一帯がその場所となります♪すぐ北側に迫間川が流れ、中を天神川、南側には菊池川と河川に挟まれています♪所謂、天然の濠の内の平坦地に存在した、戦国時代の平城となります♪この増永城も菊池十八外城の1城で、東側の本城である隈府城とは直線5キロの距離にあります♪地名は土壌が砂質である事に因むとされ、これは迫間川系の白砂で、迫間川の氾濫原であった為と云われています♪新海、古川、河原、芦原など、低湿地を表す字名が多く、その名残りを残します♪

そんな増永城は別名を西郷城ともいい、西郷区の若宮神社の境内を中心とした一画に存在します♪菊池氏初代・則隆の子である政隆がここに城を築き、西郷氏を名乗って以降、代々この地を本拠として菊池氏に仕え行動を共にしました♪初代・菊池則隆(藤原)は、寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇において、大宰権帥として戦功のあった隆家の孫で、則隆が肥後に土着して以来、菊池氏を名乗り菊池氏の祖として活動しました♪菊池氏の本領としては菊池荘がありますが、菊池氏はその荘官でありました♪この砂田も恐らく、菊池荘の内だったと思われます♪隣接する荘園としては、赤星荘や泉荘があります♪

菊池荘は深川(菊ノ城)を中心に展開されていて、この深川には菊池則隆の墓所があります♪菊池則隆、以降の菊池一族は、その勢力の拡大に努め、肥後北部の各地に一族を配置する事で権力を誇示し、中世には山鹿、山本、合志、飽田、託麻などを支配する迄に発展しています♪

さて♪この城は北前面に迫間川を擁し、台城、正光寺城と連携し、鹿本方面からの侵入に備えた城郭でありましょう♪
この西郷氏の末裔として、後に鹿児島に赴いた西郷隆盛がいます♪砂田若宮神社の境内の一画に『西郷南洲先生祖先発祥之地』という碑が建っています♪コレは、26代目の西郷九兵衛昌隆の時に、薩摩国(鹿児島県大島郡龍郷町)へ移り住んだという記録が残ります♪西郷隆盛は一時、菊池源吾と変名を使い、風雲幕末を駆け抜けています♪この『菊池』とは、この場所から来るのかもしれませんね♪

残る遺構としては、井戸跡、土塁跡が見られ、城主の名が集落名として残っています♪増永城の鎮守社と思われる羽根木八幡宮、西郷若宮神社は創立が古く、羽根木八幡宮は菊池初代則隆、若宮神社は子の菊池政隆の勧請とされます♪

2025年01月11日 龍馬備中守【】
正光寺城[亀尾城  周辺城郭]



熊本県菊池市の加恵にある【正光寺城】♪菊鹿盆地の南部で、迫間川の左岸の平坦地に立地します♪地内では迫間川が大きく曲流します♪周囲は水田地帯となり、加恵溝と八幡溝が流れ、用水に恵まれている場所です♪地内東部には椎持往還が走ります♪椎持往還とは、北方にある福岡県境に至るまでの重要なルートです♪主には熊本と鹿本郡鹿北町椎持を結ぶ街道なのですが、菊池往還と須屋で分岐し野々島、西合志、田島、加恵、下内田(島田)を経て、内田川の谷沿いに北上♪西岳の東麓の荒平峠の七曲り坂を越え、旧岳間村(鹿北町)へと通じていました♪椎持往還と菊池往還は並行して存在していて、外部からも菊池側からも重要な街道なのであります♪

正光寺城の北には迫間川、南に菊池川と両河川に挟まれ、天然の濠に囲まれたこの場所は、隈府城同様に堀の内といった印象を受けます♪
正光寺城は菊池十八外城の1城として機能しました♪城郭は菊池一族の加恵氏代々の居城です♪
中世には加江村とあり、応年6年(1399年)今川氏施行状(詫摩文書)には『菊池郡内巻河加江村』とあり、この村の事と考えられ、加江村などを詫磨別当方代官に打ち渡すよう、鳥羽左京・宮河中務丞に命じています♪
また永正年間頃と推定される大友義長領地預置状(太宰府大鳥居文書)には『御名字地之内、加江古閑三町』と記され、加江村などを菊池菊法師丸が領掌する事を認める旨を、田島右京亮に伝えています♪

その昔、この地には加恵三寺・加恵三社があったと伝わっています♪正光寺・買石寺・正元寺と、諏訪宮・八幡宮(櫛田宮)・須賀神社です♪現在は加恵須賀神社が残っています♪
加恵須賀神社には『加恵八幡宮』『加恵諏訪神社』の額が掛かる入母屋造りの拝殿があり、その他、境内には『加恵三社合併之碑』とあり、3つの神社は、加恵須賀神社に併合され、現在に至ると思われます♪

『加恵八幡宮』『加恵諏訪神社』は、菊池家2代目・経隆公が建立したモノと伝わります♪
正光寺城は、菊池家8代目・能隆の子である隆時が、加恵氏を名乗って居城したのが始まりとされています♪

かつて、地元の人々は十三基残っていた塚(墓所)のうち一基を城跡として顕彰していましたが、昭和40年代の土地改良でこの塚は消滅し、現在はその際に出土したという五輪塔(墓石)を1箇所に集めて、新たに墓所を設け、それが現在の『正光寺城跡』となっています♪現在、遺構は残りません。石碑と看板と五輪塔が、正光寺城を今に伝えます♪

この七城町の地名由来となったとされる7城ですが、亀尾の亀尾城・蛇塚の馬渡城・蘇崎の打越城・加恵の正光寺城・砂田の増永城・台の台城・水次の神尾城の7城となります♪東方に控えた隈府本城を、かつては守っていたのです♪

2025年01月09日 龍馬備中守【】
馬渡城[亀尾城  周辺城郭]



熊本県菊池市の七城町蛇塚にある【馬渡城】♪菊鹿盆地の南部で菊池川の左岸の平坦地に立地します♪地内では迫間川が大きく曲流します♪『和名抄』にある辛家郷をこの場所とする説もありますが、未詳となっています♪馬渡城の直ぐ西側にある七城温泉ドームは、馬渡城を模してなのか?天守閣の温泉施設がシンボリックとなっています♪

古墳時代の遺跡も多い七城町ですが、馬渡城には、前方部を箱式石棺の複合をなした蛇塚古墳があります♪現在、住宅地となっている為、一声おかけすると見学可能です♪平野部の中にある唯一の高台のため、この蛇塚古墳は狼煙場と伝わります♪南東側にある亀尾城、西側の打越城、北東側の本城である隈府城、その他、菊池十八外城と連携したのは、想像出来ますね♪馬渡城の場所は、菊池川と迫間川の合流する地点のほぼ先端部に立地する為、本城である隈府城からしたら、外濠外側という場所に存在します♪敵が領内に侵入した際に、各支城群に素早く伝令出来る場所でもあります♪

さて古代律令制下では菊池郡に属し、『和名抄』に見える水島郷・辛家郷の2郷が町域に比定されています♪8世紀に実施された条里制遺構が山鹿・鹿本の延長線上に僅かに残ります♪また平安前期の寺院といわれる十蓮寺(水次)があった場所からは布目瓦が発見されていて、菊池氏が領していく中世より前の時代も、人々の暮らしがあった事が分かります♪

中世に入ると、七城町の一帯も菊池荘の一部をなしていたのでしょう♪菊池氏の支配するエリアでありました♪この地は古来より、山鹿より菊池に至る天然の虎口(入口)となっていて、町域には菊池氏に属する、十八外城の内の7城があって町名の由縁と云われています♪

菊池氏の滅亡後、菊池エリアは大友氏の支配を受けていますが、肥前・龍造寺氏や薩摩・島津氏の侵攻を受けています。一方で在地豪族達が国衆として、割拠。合志氏・赤星氏・隈部氏・城氏などが、大友氏・龍造寺氏・島津氏などの戦国大名の安堵を受け直接支配しています。しかし、天正12年(1584年)島津氏の侵攻により、菊池方面に勢力を有していた隈部親泰は島津義久に降り、また、菊池氏の老臣であった内空閑氏も島津氏によって旧領安堵を受けました。天正14年(1586年)肥後一国が島津氏の支配下に入っています。

さて、馬渡城ですが、城主は蛇塚九郎定家で、蛇塚氏累代の居城と伝わります♪蛇塚九郎定家は打越城主林原与三隆益の孫で、この地は蛇塚と呼ばれる場所の為、蛇塚姓はこの地名から来たものでしょう♪

馬渡城は、蛇塚古墳と呼ばれる前方後円墳を利用して築かれた平城となります♪初めは土塁❓と思っていた高まりは、前方後円墳でありました♪古墳を取り込んだ城郭は多くありますが、平城で見ると土塁感が強いw前方後円墳の上の社は天神様を祀っています♪住まわれている方からのお話では、前方後円墳からは昔、埴輪が出土していて、見に来た方が欲しい場合はプレゼントしていたという事でしたwなんと太っ腹なのでしょうかw菊池時代は平地に高台(蛇塚古墳)で立地的にみても、やはり繋ぎの城(狼煙場)だったのでしょう♪現在集落となっている為に、その城域は不明ではありますが、地内には高島舟着場跡が残ります♪北側の菊池川は菊池氏にとっても、その後領した人々によっても、経済の大動脈な訳であります♪因みに地内には陣の内という字も残っていました♪

2023年10月04日 陸奥守新九郎
亀尾城



看板目指していると主要部を見逃すので注意です!ここに、今川了俊が2年も。。
隈府城を眺めながら感慨にふけります。

2023年09月18日 織田上総介晃司
亀尾城

前川公園(前川水源)の駐車場に停める。前川水源の湧き水から城めぐ水筒に水を汲んで歩いて登城。

水汲みおよび公園の利用は8:00〜20:00となってます。

七城温泉ドームに天守風建物がありますが、勿論なんちゃって城です。七城温泉ドーム天守=亀尾城と勘違いする素人さんがいるとかいないとか(笑)

2023年06月12日 つか征夷大将軍
増永城[亀尾城  周辺城郭]



菊池十八外城の1つです。居城としていた西郷氏は西郷隆盛の祖先とされています。遺構は土塁と井戸跡が有るぐらいで、砂田若宮神社と羽根木八幡宮の間が城跡だったようです。

以下説明板から
増永城は菊池初代則隆の子、西郷政隆が開いた平城で、西郷氏代々の居城として、正面に迫間川を擁し、台城・正光寺城と連携して玉名・鹿本方面からの侵入に備えた城です。
遺構は少なく、現在は井戸、土塁の跡(竹林)、また「西郷さんの墓」と呼ばれる五輪塔が残っているだけです。
この地から西に一〇〇Mくらいのところに地蔵院があり、これは西郷家の菩提寺であったと伝えられています。
また城域東の羽根木八幡は則隆、 砂田若宮神社は政隆の勧請ともいわれ、外城の中でも古いと考えられます。
城主の名が村の名として残り、その末裔は鹿児島に赴き明治維新の英雄西郷南洲 (隆盛)を生みました。それを物語る「西郷南洲先生祖先発祥之地碑」が境内にそびえ立ち、碑文は徳富蘇峰の筆によります。

2023年06月12日 つか征夷大将軍
神尾城[亀尾城  周辺城郭]



菊池十八外城の1つです。集落の中にあり道が狭いので、車の方は集落手前の広い所から歩いて登るのが良いかと思います。

以下説明板から
別名を水次城といい、代々水次氏の居城といわれ ています。城跡と称される所は丘陵末端部に設けら れた古墳で、城跡の碑が建てられています。この古 墳は比較的早い時期に破壊されていますが、所々に 石室のものと思われる巨石が見えます。
この城は鹿本方面に対する最前線基地ともいえる台城の後方にあり、この城の援護または予備的なものとして配されていたようです。
周辺に五輪塔の残欠が散らばっていますが、その中でも特に大きな上部の空風部があります。その大きさからすると一族、あるいは一族にかなり近い所縁の者の墓ではないかと考えられます。
現在は、阿蘇三社宮の敷地となっていますが、こ の三社宮は応永二年(一四一七)、十八代菊池兼朝 の勧請によるものといわれています。

2023年04月29日 つか征夷大将軍
小西行長公供養碑[亀尾城  碑・説明板]



なぜこの地に供養碑があるかというと、関ヶ原の戦いで小西行長は西軍についた為に宇土城を開城します。弟の小西行景は家臣、領民全員を助命することを条件に開城すると訴え、自らは切腹したそうです。その時に行景の遺児である忠右衛門が家臣に伴われてこの地に隠れ住み小材氏を名乗ったそうです。今でもこの辺りは小材家が何件もあるみたい。この供養碑は行長死後すぐに建てられたそうです。

2023年04月28日 つか征夷大将軍
正光寺城[亀尾城  周辺城郭]



菊池十八外城の1つです。菊池川と迫間川が合流する場所から二・五kmほど内側に入った場所にある正光寺城は、別名加恵城 といい、八代の惣領である菊池能隆の子隆時が加恵氏を名乗り居城したのが始まりとされます。

この地には、加恵三寺と呼ばれる正光寺、買石寺、 正元寺があったとされ、その一つが城名の由来とな っています。また、加恵三社 (諏訪宮、櫛田宮、須賀神社)も菊池氏二代菊池経隆 により勧請されたそう。

経隆の弟西郷政隆の増永城への配置も含め、食料の確保や水運の面で、一族がこの地域を重要視していたことを窺わせます。以前は、現在五輪塔、板碑が立つ場所から二十mほど東に小高い丘があったようですが、昭和四十年代の土地改良事業により現在地になったそう。

現在は移設された五輪塔や板碑などが建ってるぐらいです。

2023年04月28日 つか征夷大将軍
馬渡城[亀尾城  周辺城郭]



菊池十八外城の1つです。菊池川南岸の微高地にあり、蛇塚古墳と呼ばれる前方後円墳を利用して築かれた。林原氏一族の蛇塚定家が築いた城で、蛇塚氏歴代の居城となったそうです。現在古墳部分は残ってますが、民家の敷地内にある為、見学には許可が必要です。すぐ近くの七城温泉ドームの方が見栄えは良いです😅

2023年03月30日 チョビ殿
亀尾城



のどかな田園風景で桜が見頃でした🌸多くの方の憩いの場所になっています。車両で上がれる道と階段をあがる道が有ります。初のリア攻めの🏯です。

2021年12月13日 ʀᴇᴅ副将軍
亀尾城



菊池十八外城のひとつ🏯復元ですが豊前濠が主郭を美しく巡っています✨

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。
相良氏分流の板井氏の居城で菊池氏に属したと言われ、鎌倉時代には菊池氏の本拠地である菊池城(隈府城)を守備する城砦群の中で、南方の要であったと言われています。

南北朝時代の1379年には板井原の戦いで九州探題の今川了俊と弟の今川仲秋が菊池氏を攻略するために本陣を置き、約2年にも渡る激戦地となりました。1381年、菊池本城や染土城が遂に陥落となりました。

見所
主郭および二郭を巡る豊前濠と呼ばれる空堀が復元されています。発掘調査に基づき高いクオリティです。

現在は板井熊野座神社の境内と亀尾城址公園となり整備されており、駐車スペースも3台ほどあります。

亀尾城の周辺スポット情報

 小西行長公供養碑(碑・説明板)

 馬渡城(周辺城郭)

 正光寺城(周辺城郭)

 神尾城(周辺城郭)

 増永城(周辺城郭)

 前川水源(駐車場)

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