正光寺城

正光寺城([亀尾城  周辺城郭])

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正光寺城の口コミ情報

2025年01月11日 龍馬備中守【】


熊本県菊池市の加恵にある【正光寺城】♪菊鹿盆地の南部で、迫間川の左岸の平坦地に立地します♪地内では迫間川が大きく曲流します♪周囲は水田地帯となり、加恵溝と八幡溝が流れ、用水に恵まれている場所です♪地内東部には椎持往還が走ります♪椎持往還とは、北方にある福岡県境に至るまでの重要なルートです♪主には熊本と鹿本郡鹿北町椎持を結ぶ街道なのですが、菊池往還と須屋で分岐し野々島、西合志、田島、加恵、下内田(島田)を経て、内田川の谷沿いに北上♪西岳の東麓の荒平峠の七曲り坂を越え、旧岳間村(鹿北町)へと通じていました♪椎持往還と菊池往還は並行して存在していて、外部からも菊池側からも重要な街道なのであります♪

正光寺城の北には迫間川、南に菊池川と両河川に挟まれ、天然の濠に囲まれたこの場所は、隈府城同様に堀の内といった印象を受けます♪
正光寺城は菊池十八外城の1城として機能しました♪城郭は菊池一族の加恵氏代々の居城です♪
中世には加江村とあり、応年6年(1399年)今川氏施行状(詫摩文書)には『菊池郡内巻河加江村』とあり、この村の事と考えられ、加江村などを詫磨別当方代官に打ち渡すよう、鳥羽左京・宮河中務丞に命じています♪
また永正年間頃と推定される大友義長領地預置状(太宰府大鳥居文書)には『御名字地之内、加江古閑三町』と記され、加江村などを菊池菊法師丸が領掌する事を認める旨を、田島右京亮に伝えています♪

その昔、この地には加恵三寺・加恵三社があったと伝わっています♪正光寺・買石寺・正元寺と、諏訪宮・八幡宮(櫛田宮)・須賀神社です♪現在は加恵須賀神社が残っています♪
加恵須賀神社には『加恵八幡宮』『加恵諏訪神社』の額が掛かる入母屋造りの拝殿があり、その他、境内には『加恵三社合併之碑』とあり、3つの神社は、加恵須賀神社に併合され、現在に至ると思われます♪

『加恵八幡宮』『加恵諏訪神社』は、菊池家2代目・経隆公が建立したモノと伝わります♪
正光寺城は、菊池家8代目・能隆の子である隆時が、加恵氏を名乗って居城したのが始まりとされています♪

かつて、地元の人々は十三基残っていた塚(墓所)のうち一基を城跡として顕彰していましたが、昭和40年代の土地改良でこの塚は消滅し、現在はその際に出土したという五輪塔(墓石)を1箇所に集めて、新たに墓所を設け、それが現在の『正光寺城跡』となっています♪現在、遺構は残りません。石碑と看板と五輪塔が、正光寺城を今に伝えます♪

この七城町の地名由来となったとされる7城ですが、亀尾の亀尾城・蛇塚の馬渡城・蘇崎の打越城・加恵の正光寺城・砂田の増永城・台の台城・水次の神尾城の7城となります♪東方に控えた隈府本城を、かつては守っていたのです♪

2023年04月28日 つか征夷大将軍


菊池十八外城の1つです。菊池川と迫間川が合流する場所から二・五kmほど内側に入った場所にある正光寺城は、別名加恵城 といい、八代の惣領である菊池能隆の子隆時が加恵氏を名乗り居城したのが始まりとされます。

この地には、加恵三寺と呼ばれる正光寺、買石寺、 正元寺があったとされ、その一つが城名の由来とな っています。また、加恵三社 (諏訪宮、櫛田宮、須賀神社)も菊池氏二代菊池経隆 により勧請されたそう。

経隆の弟西郷政隆の増永城への配置も含め、食料の確保や水運の面で、一族がこの地域を重要視していたことを窺わせます。以前は、現在五輪塔、板碑が立つ場所から二十mほど東に小高い丘があったようですが、昭和四十年代の土地改良事業により現在地になったそう。

現在は移設された五輪塔や板碑などが建ってるぐらいです。

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