増永城

増永城([亀尾城  周辺城郭])

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増永城の口コミ情報

2025年01月18日 龍馬備中守【】


熊本県菊池市の七条町砂田にある【増永城】♪
若宮神社の境内一帯がその場所となります♪すぐ北側に迫間川が流れ、中を天神川、南側には菊池川と河川に挟まれています♪所謂、天然の濠の内の平坦地に存在した、戦国時代の平城となります♪この増永城も菊池十八外城の1城で、東側の本城である隈府城とは直線5キロの距離にあります♪地名は土壌が砂質である事に因むとされ、これは迫間川系の白砂で、迫間川の氾濫原であった為と云われています♪新海、古川、河原、芦原など、低湿地を表す字名が多く、その名残りを残します♪

そんな増永城は別名を西郷城ともいい、西郷区の若宮神社の境内を中心とした一画に存在します♪菊池氏初代・則隆の子である政隆がここに城を築き、西郷氏を名乗って以降、代々この地を本拠として菊池氏に仕え行動を共にしました♪初代・菊池則隆(藤原)は、寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇において、大宰権帥として戦功のあった隆家の孫で、則隆が肥後に土着して以来、菊池氏を名乗り菊池氏の祖として活動しました♪菊池氏の本領としては菊池荘がありますが、菊池氏はその荘官でありました♪この砂田も恐らく、菊池荘の内だったと思われます♪隣接する荘園としては、赤星荘や泉荘があります♪

菊池荘は深川(菊ノ城)を中心に展開されていて、この深川には菊池則隆の墓所があります♪菊池則隆、以降の菊池一族は、その勢力の拡大に努め、肥後北部の各地に一族を配置する事で権力を誇示し、中世には山鹿、山本、合志、飽田、託麻などを支配する迄に発展しています♪

さて♪この城は北前面に迫間川を擁し、台城、正光寺城と連携し、鹿本方面からの侵入に備えた城郭でありましょう♪
この西郷氏の末裔として、後に鹿児島に赴いた西郷隆盛がいます♪砂田若宮神社の境内の一画に『西郷南洲先生祖先発祥之地』という碑が建っています♪コレは、26代目の西郷九兵衛昌隆の時に、薩摩国(鹿児島県大島郡龍郷町)へ移り住んだという記録が残ります♪西郷隆盛は一時、菊池源吾と変名を使い、風雲幕末を駆け抜けています♪この『菊池』とは、この場所から来るのかもしれませんね♪

残る遺構としては、井戸跡、土塁跡が見られ、城主の名が集落名として残っています♪増永城の鎮守社と思われる羽根木八幡宮、西郷若宮神社は創立が古く、羽根木八幡宮は菊池初代則隆、若宮神社は子の菊池政隆の勧請とされます♪

2023年06月12日 つか征夷大将軍


菊池十八外城の1つです。居城としていた西郷氏は西郷隆盛の祖先とされています。遺構は土塁と井戸跡が有るぐらいで、砂田若宮神社と羽根木八幡宮の間が城跡だったようです。

以下説明板から
増永城は菊池初代則隆の子、西郷政隆が開いた平城で、西郷氏代々の居城として、正面に迫間川を擁し、台城・正光寺城と連携して玉名・鹿本方面からの侵入に備えた城です。
遺構は少なく、現在は井戸、土塁の跡(竹林)、また「西郷さんの墓」と呼ばれる五輪塔が残っているだけです。
この地から西に一〇〇Mくらいのところに地蔵院があり、これは西郷家の菩提寺であったと伝えられています。
また城域東の羽根木八幡は則隆、 砂田若宮神社は政隆の勧請ともいわれ、外城の中でも古いと考えられます。
城主の名が村の名として残り、その末裔は鹿児島に赴き明治維新の英雄西郷南洲 (隆盛)を生みました。それを物語る「西郷南洲先生祖先発祥之地碑」が境内にそびえ立ち、碑文は徳富蘇峰の筆によります。

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