隈部館(くまべやかた)
隈部館の基本情報
通称・別名
- 隈部城、隈部氏館、永野城
所在地
- 熊本県山鹿市菊鹿町上永野
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 隈部氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 隈部氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 国史跡(隈部氏館跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
鞠智城(熊本県山鹿市)[6.0km]
隈府城(熊本県菊池市)[7.8km]
菊之城(熊本県菊池市)[9.6km]
高屋城(福岡県八女市)[10.2km]
山鹿城(熊本県山鹿市)[11.1km]
城村城(熊本県山鹿市)[11.4km]
亀尾城(熊本県菊池市)[11.6km]
市成城(熊本県菊池市)[14.8km]
竹迫城(熊本県合志市)[17.5km]
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隈部館の解説文
[引用元:Wikipedia「隈部館」の項目]隈部館(くまべやかた)は肥後隈部氏が戦国時代に築いた城砦。永野城とも称され熊本県山鹿市菊鹿町上永野地区にある国の史跡。
【概要】
隈部館に接する標高682メートルの山頂には猿返城が聳え、その北東尾根伝いに米山城に至ることができ、両城を詰城としていたと考えられている。隈部館は猿返城南方に広がる扇状の尾根にあって、左右を急峻な谷に囲まれ、その南方に山鹿市一帯を眺望できる。隈部館の南方に広がる上永野集落に降る途中の山腹の至るところ、石垣や土塁が存在し付近一帯に隈部氏一族や家臣が邸を並べていたと推定される。
【歴史】
隈部武治が上永野に本拠を定め、隈部親家または隈部親永が隈部館を整理拡張したと伝えられる。隈部親永が1580年(天正8年)に隈府城に移るまで隈部氏の居城であった。隈部親永が隈府城に移った後も重要拠点であったが、1587年(天正15年)に発生した肥後国人一揆の鎮圧後に破却された。
江戸時代を通じて城跡は参勤交代時の宿駅とされ、明治時代には小学校、20世紀後半には町のグラウンドとなった。また二の丸は江戸時代に手永会所となり、明治以降は内牧町役場があった。
【現在】
居館跡には現在、大手枡形ノ跡、城ノ礎石、若殿ノ部屋ノ跡、庭石泉水ノ跡、花園ノ跡と称される遺構が残る。隈部神社の下にある広場には、池跡と接して3棟分の建物の礎石が残っている。隈部神社と広場の北側には堀切が残り、神社の鳥居をくぐる枡形の跡がある。枡形の跡から小道をさらに南に降ると、その脇に厩跡と伝えられる空き地がある。
2009年の国史跡指定を記念して、隈部親永銅像が建立され、2011年11月26日除幕式が行われた。[続きを見る]
隈部館の口コミ情報
2020年10月03日 源筑後守@ポンコ2㉕〜
隈部館
山の中腹にありますが、遺構至近まで普通の道路で車で行け、20台くらいの駐車場とトイレ完備です。
道中に「国史跡隈部氏館」の案内標識が複数設置されており、その通り進めば迷わず到着できます。
私が登城した時は貸切でした。
山の中腹でそこそこ比高のある地に似つかわしくない方形館ですが、この比高にあるから主郭に枡形、庭園、空堀、土塁などの遺構が残ったのかもしれません。
主郭空堀前に、周囲を囲う土塁が少し見受けられる馬屋跡があり、突っ切った先の正面に枡形が顔をのぞかせています。
主郭前には、空堀と土橋があり、その先にハッキリわかる石垣の枡形虎口があり、そこを抜け石段上がると主郭になります。
主郭には礎石や庭園があり、主郭より高い所に隈部神社があります。
各所各所に案内標識があるのでわかりやすいです。
遺構近くにポツンと一軒家もあるので、騒いだりするのは避けたほうがよさそうです。草が刈られ歩きやすいですが、主郭に向かう途中のクモの巣やヘビにご注意下さい。
2019年06月01日 笑門来猫
隈部館
佐々成政が責をとり自刃した肥後国人一揆の中心人物、隈部氏の館跡。かつての繁栄を感じさせる庭園や石垣虎口が見事。
2014年01月08日 伊達常陸入道ねんさい伊予守
隈部館
居館跡だが山城なみにだいぶ高い場所にある。途中から道標が何カ所かあるのでわかりやすかった。枡形虎口の石垣は見所。駐車場にトイレ水道あり。