隈府城(わいふじょう)
隈府城の基本情報
通称・別名
- 隈府山城、菊池城、菊池本城、菊池山城、守山城、雲上城、雲の上城
所在地
- 熊本県菊池市隈府1257
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 菊池武政
築城年
- 正平22年〔南朝〕/貞治6年(1367)
主な改修者
- -
主な城主
- 菊池氏、赤星氏、隈部氏、佐々氏、加藤氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堅堀
指定文化財
- 市史跡(守山城跡及び内裏尾)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
菊之城(熊本県菊池市)[2.2km]
鞠智城(熊本県山鹿市)[3.1km]
亀尾城(熊本県菊池市)[6.3km]
隈部館(熊本県山鹿市)[7.8km]
竹迫城(熊本県合志市)[10.1km]
山鹿城(熊本県山鹿市)[12.1km]
市成城(熊本県菊池市)[12.2km]
岩野嶽道祖城(熊本県熊本市)[13.7km]
城村城(熊本県山鹿市)[14.7km]
玉岡城(熊本県菊池郡)[15.2km]
隈府城の解説文
[引用元:Wikipedia「隈府城」の項目]
菊池城(きくちじょう)は、熊本県菊池市隈府にあった中世の日本の城(山城)。菊池氏の本拠であった。別名隈府城。
変遷
菊池十八城と呼ばれる城砦の一つで、正平年間に菊池武政により築城された[1]。菊池氏は九州における南朝方の有力者で、後に肥後守護に任じられ現菊池市は城下町として栄えた。戦国時代に入ると菊池氏は内紛を繰り返し、近隣大名による家督介入を受けて衰退し、家督を阿蘇氏や豊後大友氏に奪われ、菊池氏正統は没落した。
後、菊池氏の一族で菊池三家老の赤星親家が城主となるが、同じ菊池三家老の隈部親永に圧迫され、天正6年(1578年)親家の子赤星統家の時、龍造寺氏と結んだ親永によって赤星氏は菊池城を追われた。天正8年(1580年)親永が入城し、北上する島津氏と対峙したが、隈部氏は篭城してこれを凌いで島津氏と和睦し所領を安堵された。
天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州平定後、親永は佐々成政の配下に組み込まれるが、同年親永が菊池城に拠って成政に反抗したため、反乱が鎮圧された後に菊池城は破却された。
菊池城跡
遺構
菊池城は菊池市の北東山麓に位置し、周囲に空堀跡や土塁跡が残る。
菊池公園
菊池城跡一帯は菊池公園として整備されており、桜やツツジの名所として知られる[2]。
明治維新後、勤王菊池氏を顕彰して本丸跡に菊池神社が建てられた。戦前は軍神を祭る神社としても知られた。菊池神社内の歴史館には菊池氏所縁の宝物や古文書が展示されている。境内には菊池武時騎馬像、第二次世界大戦で特殊潜航艇艇長としてシドニー湾に突入して戦死した松尾敬宇中佐の胸像がある。
また、菊池神社の近くには菊池武光騎馬像が建つ菊池市民広場がある。このほか菊池観光物産館がある。
交通アクセス
- 熊本桜町バスターミナルより熊本電鉄バス菊池温泉ゆきに乗車し終点「菊池温泉・市民広場前」下車、徒歩15分(1.2km)。
- 「菊池温泉・市民広場前」にはJR九州豊肥本線肥後大津駅より九州産交バス山鹿温泉ゆきに乗車しても向かうことができる。
- 九州自動車道植木インターチェンジより14㎞。
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隈府城の口コミ情報
2025年02月08日 龍馬備中守【】
古池城[隈府城 周辺城郭]
熊本県菊池市の出田にある【古池城】♪菊池盆地を囲む様に、南側に高まる花房台地♪この花房台地上には、打越城や亀尾城も存在しており、何れも菊池十八外城の1城となります♪北に流れる菊池川が、南から西に大きく流れを変える所に出田集落があり、この南側の比高差25mの花房台地上に古池城は立地します♪隈府城を中心とした、菊池十八外城の1城です♪
寛政6年(1794年)『菊池風土記』には、菊の城、染土城、亀尾城、城林城、茂藤里城、打越城、馬渡城、正光寺城、増永城、台城、神尾城、葛原城、五社尾城、掛幕城、市成城、黄金塚城、戸崎城とこの出田城(古池城)の十八外城と記載があります♪
出田という地名は中世・戦国期に見える地名であり、菊池郡の内となります♪地内には鬼石古墳があり、堂坂横穴群は20数個の横穴からなり、線刻文のある須恵器が出土したり、古くからの歴史が数多く残ります♪
古池城の築城年は不明ではありますが、出田氏の城郭であります♪この出田氏は、菊池氏の3代目・菊池経頼の孫である菊池経信から始まったとされ、以降、地名である出田を称したのでしょう♪菊池一族なのであります♪
出田氏は、この『古池城(出田城)』を拠点として代々この地を治めていきますが、応仁年間(1467年)菊池氏の命により隈本の地を治める事となり、茶臼山周辺に隈本城を築きます。それこそ、今ある熊本城の場所ではなく、千葉城(現、美術館付近)の場所です♪熊本城の前身は、出田氏が築城した千葉城という訳であります♪
『古池城』はその後、菊池氏の三家老の1人である城氏の居城となっています♪
『肥後国誌』には、天正年中(1573年~92年)まで城親賢が在城したとありますが、一説では天文(1532年~55年)頃まで、城親賢の父・城親冬が在城したとも云われています♪何にせよ、古池城には城氏の名前が残っています♪
その他に出田に関するものとして、天正11年(1583年)合志親為判物(菊池風土記)に『出田之内 一所三段三丈 十万分・・・・・預進之候、全有知行、詰境目之儀候之間、辛労可有粉骨件者也』と記され、合志親為が当地の3反3丈を南福寺に寄附したとあります。この南福寺は、菊池風土記に『出田村二在り、開基年月開山等未考』とあり、菊池五山の1つで、手水山南福寺と称したと云われます。
古池城は丘陵地の先端部に築かれ、直径10m足らずのマウンド(古墳?)を主郭としています♪古池城の中心部には、宮地岳神社、金毘羅宮、風除け権現が祀られていて、当地の氏神として信仰されています♪眼下に菊池平野を一望できる地の利があり、梨木坂、万太良坂を前後に控えて側面からの敵を防ぎ、前方には菊池川が流れる天然の要害となっています♪
2025年01月06日 龍馬備中守【】
打越城[隈府城 周辺城郭]
熊本県菊池市の打越にある【打越城】♪菊池十八城と呼ばれる城砦の1つです♪菊鹿盆地南部で、花房台地の下位段丘面には打越集落は存在します♪菊池氏の本城である隈府城から、直線で8キロ程度の距離で、花房台地の末端に存在した城郭です♪北側には菊池川が流れ、北西側にある隈府城を守る様な形で存在します♪
菊池十八外城とは肥後国菊池氏の居城で、隈府城を取り囲む様に形成された城塞群となります♪
寛政6年(1794年)『菊池風土記』には菊の城、染土城、亀尾城、城林城、茂藤里城、出田城、馬渡城、正光寺城、増永城、台城、神尾城、葛原城、五社尾城、掛幕城、市成城、黄金塚城、戸崎城とこの打越城の十八外城と記載があります♪実は他のものには、また別の城郭の記載もある為…今回は菊池風土記に沿いましょうw
築城年代は不明であります。が、天授5年(1379年)今川了俊との板井原の戦いの舞台となっています。板井原の戦いでは、三万の軍勢を投入した今川軍の攻撃により打越城は落城しています。。
九州探題に就任した兄・今川了俊に従い、長門国から肥前国に下向してきた、弟・今川仲秋は肥後へ軍を進めます。肥後に入ると板井原に陣を張り、亀尾城、菊之城、打越城など本城を取り巻く十八外城を攻撃しています。菊池方も堅固な守りにより、なかなか落城せずに、粘っています。そこで今川仲秋は2年に渡り亀尾城に陣を置き、本城を孤立させ、兵糧攻めを行っています。亀尾城に張ったこの陣を板井の陣とも呼びます。
やがて今川了俊も合流し、菊池武照らの籠もる台城を攻略。さらに菊之城、木野城、本城背後の寺尾野城を攻略し、隈府城を孤立させました。。今川軍は慎重に軍を再編成した後に、菊池武朝の籠る隈府城と良成親王(叔父は懐良親王)の染土城を攻撃し、陥落させました。。
菊池武朝は良成親王と共に阿蘇山中に逃れ去り、一旦菊池を放棄しています。
打越城は菊池一族の林原与三隆益が築いたとされ、林原氏歴代の居城となっています♪林原氏は、蛇塚氏、中山氏、平山氏の祖であります♪
本城・隈府城からみたら、西方の敵に備える為の重要な場所であったのです♪菊池氏が滅亡した後は、怒留湯飛騨守が城主となったと伝わります♪
怒留湯氏は豊後国・大友氏の家臣ですが、後に肥後北部まで大友氏は支配領を拡大し、この菊池の地にも家臣を派遣し、統治しています♪大友氏と云えば、キリシタン大名として名を馳せていますが、この菊池川流域にもキリシタン墓碑が残っています♪また、大友宗麟がポルトガル人から購入したフランキ砲(国崩し)を玉名市高瀬に陸上げして、豊後臼杵まで運搬したという文書が残っています♪大友氏は、この肥後の地から陸上げする事で、肥後国人や民衆に対してアピールし、権力を誇示する為に行ったのでしょう♪
地内には、稲荷宮や、愛染明王堂(金海寺跡)などがあり、打越集落の地神となっています♪稲荷宮は宇賀之御魂神を祀り、怒留湯氏の勧請と伝わります♪
道の切通しの写真は堀切と思われます♪
2024年の夏の記録写真の為、藪the藪ですw
2024年07月08日 マグロ常陸介祐平
隈府城
城址には、南朝方として後醍醐天皇のもとで活躍した菊池武時(贈従一位)、武重(贈従三位)、武光(同)を祭神とする菊池神社(創建明治3年)が鎮座しています。楠木正成を祭神とする湊川神社が別格官幣社ということで、昇格を願い出て名和神社と共に明治11年に別格官幣社に昇格しています。
お城は、こちらのサイトでは「隈府城」ですが、現地では「守山城」で案内されています。神社のあるやや広めの主郭と北側の一段低い歴史館のある郭をぐるりと帯郭が囲む縄張りで、歴史館の東側には深い堀が見られます。
近くの正観寺(写真7枚目,地蔵堂)には、武光公、武政公他一族の墓(写真8枚目)があります。
2024年02月12日 陸奥左大臣至宏
隈府城
菊池氏の本城。支城を記載した方位の分かる石板があり、支城の多さから在りし日が偲ばれれる。
2023年10月05日 陸奥守新九郎
隈府城
神社境内となり、城郭遺構の残り具合はイマイチ。樹木が生い茂り、眺望もイマイチでちょっと残念でした。
2023年09月18日 織田上総介晃司
隈府城
菊池神社参拝者駐車場があります。
主郭のあった場所に菊池神社本殿があり、参拝途中の右側には巨大な空堀と土塁があり目を惹かれる。
隈府城最後の城主は菊池氏三家老の一人・隈部親永。
そう、二階堂盛義と共にひょえ〜顔で有名な武将です。
2023年04月17日 龍馬備中守【】
台城[隈府城 周辺城郭]
熊本県の菊池市にある【台城】♪台と書いて『うてな』城と呼びます♪眼下には内田川が流れます♪この内田川の東岸、比高40m程の台地の南端に城郭は築城されました♪
菊池十八外城の1つは別名を水島城とも呼ばれています♪
この台城は南北朝時代の1375年に『水島の戦い』の局地戦の舞台となった城郭です☆コレは南朝方・菊池氏🆚北朝方・今川氏の攻防戦☆
少し遡ります♪菊池武光は懐良親王を迎え御在所(太宰府)を占領しました☆
肥前・長者原の戦いで少弐氏をも破り、菊池家の全盛期を築いた菊池武光です☆此れに伴い、北朝方は今川了俊を九州探題に任命します☆1370年の出来事です☆九州探題に任命された今川氏は圧倒的な兵力を持ち征西府を占領☆
※征西府は懐良親王が九州を転戦した際に築いた御在所の事です☆往時は太宰府となります☆以降、南朝菊池氏と北朝今川氏のバチバチは始まります☆
今川軍に征西府を占領された菊池武光は太宰府より久留米・高良山へ退いています☆この高良山を本拠地にした南朝・菊池氏☆高良山は要害の地である為、大軍を要する今川軍も容易に攻める事が出来ませんでした☆が、この高良山の攻防戦の最中に菊池武光は死去したと云われています☆懐良親王の太宰府入城以来、約11年に渡り九州に覇を唱えた征西府は事実上崩壊します☆
菊池家の全盛期を築いた菊池武光、更には武光の子・菊池武政も相次いで亡くなり菊池家は弱体化…12歳で家督を継ぐ事になる菊池加賀丸☆まだ元服もしていない少年賀当主の座を受け継ぎます…☆
高良山からの撤退を余儀なくされ南下し肥後国へ☆菊池氏の本領、菊池へ北朝方の今川了俊は侵攻を推し進めていきますが…
今川了俊の目覚ましい活躍の裏では、鎌倉幕府以来、筑前国を支配をしていた北朝方の少弐氏が、筑前の支配権を今川了俊に奪われる事を恐れ、今川了俊に対し次第に非協力的な態度を取る様になります☆今川了俊も筑前を九州探題の直轄にすべく少弐氏を抑圧する方針を採り始めていきます…両者歯車が狂い出します…☆
肥後国侵攻を進める中で起こった『水島の変』今川側に起きた内紛です☆
往時の九州・有力守護だった大隅国守護・島津氏久、豊後国守護・大友親世、そして筑前国守護・少弐冬資の3名♪肥後国侵攻を激化させていく今川氏はココ、肥後水島に九州守護の3名を召集しています☆
召集されるも筑前守護の少弐冬資は一旦コレを拒みます…そこで今川了俊は少弐冬資を自陣で歓待するフリをして宴を催し、そのまま…謀殺しています…
結果的に、人望を失くしていく今川氏です…。この水島の変に島津氏は激怒し兵を退いて帰国☆大友氏も以降、中立の立場を取っていく事になります☆この事件により、島津氏・大友氏は半ば離反☆九州守護三人衆の協力が得られなくなっていく今川氏なのです☆
その後、今川了俊は九州守護大名達との関係性に悩まされる事になっていく訳ですが…。引き続き菊池氏を攻め立てていき続く『蜷打の戦い』更には『詫磨原の戦い』を経て今川が再び菊池の本拠に攻め寄せ、天授5年1379年の『板井原の戦い』時に亀尾城を拠点に、南朝菊池氏は戦いましたが、この台城は落とされ、更には菊池本城も陥落する事になっていきます…台城は菊池本城にとって先鋒なる城郭という場所に立地しています☆この台城を落とし次々に菊池外十八城を落としていったのでしょう…
菊池本城を落とし更に、その後には八代に籠っていた南朝勢を降伏させて九州平定を成し遂げています☆
長きに渡る南朝菊池氏🆚北朝今川氏の戦いにピリオドが打たれています☆
南北朝の合一後、今川了俊は敵方だった南朝方で菊池17代目当主・菊池武朝(幼名・加賀丸)に肥後の領主職を与えています☆以後の菊池武朝(幼名、加賀丸)は今川了俊に従い良好な関係を築いていく事になりますが、応永2年の1395年に今川了俊に上京の命が下り、突然九州探題の職を罷免されてしまいました…
この罷免は将軍・足利義満賀ほ九州の勢力を掌握した今川了俊の反乱を恐れた為と云われています☆その後、駿河国に戻って行く、今川家でした☆今川了俊の子孫が…そうです♪戦国時代の今川義元へと繋がっていく訳です♪
台城は古墳を取り入れた城郭にもなっています☆古来より変わらない地形を保ってきたという訳ですね♪南北朝時代、既に『古城』と呼ばれていて菊池の城郭の中でも早期の城郭だった☆この地域の字名に『城の上』『城の下』『城の前』『堀田』などの名前を残し丘陵地南側の麓の集落にも『東屋敷』『西屋敷』という地名も残っています♪
2022年09月12日 不動右馬允明王之介
隈府城
周辺は菊池公園として整備され、山の頂上にある本丸跡は菊池神社の境内になってます。
階段で上れますが、斜面はかなり急峻で城郭の名残を残してます。
歴史館に入る階段の外側に石碑があります。
歴史館の裏にある大きな堀と土塁が見どころです。
2022年05月06日 摂政丸
隈府城
菊池公園で甲冑姿の武者2名と遭遇。要事前予約ですが着付け体験ができるそうです。菊池神社の自販機に描かれた菊池一族は女性向けコンテンツっぽいですね。菊池市、積極的です。
2021年11月18日 ʀᴇᴅ副将軍
隈府城
菊池氏の本拠地🏯
大規模な空堀が菊池神社の参道脇に残存しています✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
菊池氏は、太宰府天満宮の荘官であった藤原則隆が肥後国菊池郡深川で館を構え、菊池姓を名乗ったのが始まりと言われます。
文永・弘安の二度にわたる元寇では、十代武房を中心に菊池氏一族は大いに奮戦して名を高めた名家です。
1367年、十六代菊池武政が菊池氏の本城として築城。
1381年、足利幕府による九州探題今川了俊によって陥落するも、1392年の南北朝合体によって争乱が終わると菊池氏は肥後の守護職に返り咲いた。
しかし、守護職をめぐって一族内の内紛が絶えず、菊池氏は衰退。
1520年、二十四代菊池武包は大友氏によって 追われ没落。
1587年、羽柴秀吉の九州平定後、菊池三家老の隈府親永が城主であり、佐々成政の配下に組み込まれるが、成政に反抗したため、反乱が鎮圧された後に隈府城は破却された。
見所
菊池神社の北東側には巨大な横堀が竹藪で覆われるも、そのまま残る。横堀は深さ10m、幅20m以上あるかなり大規模なもの。
雨上がりに竹藪を掻き分け長大な横堀を探索していると、上方の参道より参拝者から奇異な目を向けられましたが、もう慣れっこです✨
2015年11月02日 あんこのすけ
隈府城
春はたくさんの満開の桜が咲き誇ります。
とても日本らしい風情があり美しいですよ♪
隈府城の周辺観光情報

地元で収穫された新鮮な野菜や特産品はもちん、ヤーコン焼酎などの地酒等、幅広い商品を取り扱っています。種類豊富なお弁当を買って、隣接する菊池市民広場でのピクニックもおすすめです。
情報提供:菊池市商工観光課
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