城林城

城林城([隈府城  周辺城郭])

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城林城の口コミ情報

2025年08月10日 龍馬備中守【】


熊本県菊池市の下木庭にある【城林城】♪別名を上林城、木庭城、城山古城と呼ばれる城郭は、菊池一族である城氏の城郭で、菊池十八外城の1城でもあります。十八外城とは菊之城、染土城、亀尾城、茂藤里城、出田城、馬渡城、正光寺城、増永城、台城、神尾城、葛原城、五社尾城、掛幕城、市成城、黄金塚城、戸崎城、そしてこの城林城の事を指します。菊池氏の本城である隈府城を取り巻く、城塞群です。

市指定史跡となる城林城は、菊池川を挟み北に隈府城(菊池氏本城)と向かい合う形で存在します。眼下には菊鹿盆地が広がり、眺望良く、菊池往還が走り、隈府城や菊之城に何かあった際は直ぐに援軍に向かえる、まさしく隈府城の南方の要と言えるでしょう。菊池川が長年の歳月を経て急崖を作り、城が成り立ったと思われます。
近隣からは、箱式石棺墓が出土したほか、木庭古墳があります。また、集落の南西には古城の字名が残り、コレが戦国期の城林城となります。

城林城は城武顕の築城とされ、以降は城氏歴代の居城でありましたが、その後は虎歯宗蓮が城主となったと伝わります。また上木庭には、城武顕が建立したとされる養林山峰泉寺跡があり、付近には多くの仏塔が散在し、延徳3年銘の宝篋印塔、弘治4年銘の藤原武東夫妻の逆修塔などがあります。

『木庭』は、戦国期に見える地名です。菊池郡の内となります。木場とも書きます。永正3年(1506年)と推定される山北邦続・内田重国連署状に『今月<二日>隈部近所於木庭寄陣候、然者、山鹿南郡遠所之条』(訳:今月2日隈部の近くにある木庭に陣を構えました。それゆえ、山鹿の南郡は遠く離れた場所なので…)とあり、大友義長の軍勢が菊池政隆を攻め、敗れた菊池政隆は山鹿に逃亡しましたが、その時、大友義長の軍勢が木庭に押し寄せています。また、永正年間頃(1504年)のものと推定されている朽網親満書状(阿蘇文書)には、『第四為如此之辻、同年九月上旬ニ、以義長下知、我等致先陣、至肥後隈部・木場令在陣』とあり、大友義長の下知を受けた大友軍が、隈部・木場に在陣しています。
更に天正7年(1579年)城親賢書状の押紙に『十八外城之内木庭村止林ノ城主、城越前守』とあり、菊池十八外城の1つ、止林城が木庭にありました。

麓の下木庭集落には、今も城姓の方が多く、集落内には陣内・外園の地名も残ります。標高は140m程で、集落からは約70mの高さに位置していて、斜面が急な為、下から見上げるとかなり高く感じられます。菊池十八外城の中では規模が大きく、頂上の城床は『くの字形の平坦地』で、東側に内・外堀切があり、丘陵の中央には中世の墳墓と思われる、直径5mの塚があります。井戸跡もあった様ですが、現在は埋没しています。
上面周囲には郭と思われる階段状地形が取り巻き、東側には堀切と認められるものが残っています。堀切の底は二段構えになり、城床側が内堀、外側が外堀と呼ばれています。

城林城は城家の直系子孫の城で、菊池家15代目の菊池武光から『皆朱の槍』を許されたと伝わる城武顕が築城し、代々、城家の居城であったと伝わっています。

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