鷹取城
鷹取城([隈府城 周辺城郭])
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鷹取城の口コミ情報
2025年08月24日 龍馬太閤【第一義】
熊本県菊池市の竜門にある【鷹取城】♪別名を染土城とも呼ばれます。菊池風土記には、染土鷹取城は『鷹取古城、一、染土村に在り』とあります。染土集落の東側、背後の標高242mの山上に築かれています。また染土の集落から見上げ比高90mほどで、急な斜面となっており、その守りの固さが窺えます。
鷹取城もまた、菊池十八外城の1城となり、菊の城、亀尾城、城林城、茂藤里城、出田城、馬渡城、正光寺城、増永城、台城、神尾城、葛原城、五社尾城、掛幕城、市成城、黄金塚城、戸崎城、そして鷹取城と、隈府城(菊池氏の本城)を堅固に守った支城群であります。
竜門は現在、寺小野・染土・長野・虎口・中片から成ります。長閑な丘陵地帯と田園風景は、土地の起伏が豊かな場所だなぁ〜という印象を受けます。長野には先土器時代の遺跡があり、また、かんじゃいわや洞穴遺跡や長野板碑群など、遺構を残します。寺小野には、県重要文化財で天授4年の銘を持つ宝篋印塔が寺尾山大円寺跡の境内にあり、熊本県内に残る鎌倉・室町期の宝篋印塔では、最も完全なものとされます。虎口には長野とを結ぶ、嘉永5年に架けられた石造眼鏡橋が残ります。
鷹取城は、迫間川上流東岸の丘陵末端の小丘に立地します。城主は原田氏と伝わります。小丘の上面は、瓢箪形をした平坦地、その周辺は急な削落しの加工(切岸)が認められ、周辺は1m未満の階段状に3区画に分かれます。
郭の要素が非常に色濃いです。また、現在も菊池市の水源に使われている湧水池があり、水の手は豊富です。
永徳元年(1381年)『深堀文書』には、九州探題の今川了俊に囲まれた菊池武朝の守る菊池本城が、6月22日に落城し、翌23日に『菊池浦染土城』に今川軍が押し寄せた所『⬜︎宮御所退散記』とあり、後征西将軍宮・良成親王が鷹取城から退散した事が判ります。後征西将軍宮・良成親王が鷹取城(染土城)に在城していた点からは、南朝方の菊池氏の力強さが伺えます。この地は菊池浦(裏)にあたり、直接、敵勢の矢面に立つ位置ではなく、北の筑後との連絡や退路を確保できる立地になります。菊池氏は隈府本城を中心とする最後の防戦にあたり、『裏内裏』と呼ばれる本城に続く御座所から、良成親王を安全なこの城に移していたのでしょう。
また城の一角には、この地に来たという伝説のある鎮西八郎為朝を供養した板碑が建っています。鎮西八郎為朝は、この城からよく弓を射たと伝わっていて、遠く離れた市野々や七坪という集落(鷹取城から3~4km程度)まで飛んだという伝承もあるようですw(※鎮西八郎為朝は、源為朝です。平安時代後期の武将で、源為義の8男。体が大きく乱暴者であった為に、13歳の頃九州に追われ、鎮西八郎と称しました。九州各地に為朝伝説が残っています。)
また、大友氏の豊後国方面にも抜ける事の出来る場所でもある為、豊後方面に備える為の重要な城でもありました。現に、城郭は集中、密集していて、最前線には掛幕城、市成城の両城があり、次の守備には元居城、五社尾城があり、これらの城と隈府城(菊池氏本城)の中間に位置する鷹取城は、他の支城群と連携を図り易い場所だったのでしょう。
古写真は切り落としの写真となります。基本的に藪藪の写真。心眼の眼で見てくださいw