五社尾城
五社尾城([隈府城 周辺城郭])
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五社尾城の口コミ情報
2025年08月30日 龍馬太閤【第一義】
熊本県菊池市の雪野にある【五社尾城】五社尾城がある場所に、字名として城平が残ります♪五社尾城もまた、菊池十八外城の1城となり、菊の城、亀尾城、城林城、茂藤里城、出田城、馬渡城、正光寺城、増永城、台城、神尾城、葛原城、鷹取城、掛幕城、市成城、黄金塚城、戸崎城、そして五社尾城と、隈府城(菊池氏の本城)を堅固に守った支城群であります。
菊池川支流の、迫間川上流域の河岸段丘上に立地します。古くは育野とも称し『肥後国誌』によると、寛文年間頃に、郡吏が『いく』と『ゆき』の訓読みを誤り、雪野となったと伝わります。この雪野村は、室町期から戦国期に見える村名です。初めは山鹿郡で、後に菊池郡の内となります。
康正2年(1456年)隈部忠直寄進状に『拙者当知行所之内 雪野村二而小桝木田一所三町五段三畝、永代奉寄進者也』とあるのが初見で、雪野村の内の田地2町5反3畝を、永代限り桑林山光九寺に寄進しています。下り天文19年(1550年)大友家年寄連署奉書には『肥後国山鹿郡之内高橋分拾四町・同郡之内幸野分五町・菊池郡之内繁根木八町、同郡之内経之坪三町分事、云兼義被宛行訖』とあり、当地分5町などが北里加賀守兼義に宛行われています。天正11年(1583年)産神社縁起(産神社文書)には『肥之後州菊地(ママ)郡迫間邑鎮坐七社之祠者……菊池隆定寄附状曰、為御供領半、雪野村之内弍段三畝奉寄進也』とあります。※肥後国菊池郡の迫間村に鎮座している七社の祠(神社)について……菊池隆定が寄附状にこう記す。神への供物を供えるための領地として、雪野村の中から田地二段三畝を寄進いたします。』などなど、雪野に関するものは幾つか出てきます。
周辺には一軒の人家も無くて、ただ南側の麓を、上村、染土から金峰に登る山道(阿蘇への山越え道)が通っている程度です。
なぜ?ココに城があったのか?中々の疑問でありました。帯状形をした尾根は多少カーブを描くものの、ほぼ南北方向に主軸を構えています。郭はそれほど大きくなく、削平も甘い印象ですが、やはり城平という字名が残っています。尾根を断ち切る様に三条の堀切が残っていて、立派な土木量でありました。この三条の堀切によって、4区画で分けられた郭群。主郭に向かうにつれて上がる比高に堀切。尾根のみを、断ち切る防御ライン。その効果は大きいです。
また五社尾城の上方は赤松寺跡と伝わり、巨大な五輪塔が散在する他、城の東側の谷には菊池武朝が開山して菩提寺としたという、真徳寺跡があります。歴史詳細が不詳な点が多いですが、やはり菊池氏の城郭であり、金峰を抜けて阿蘇へ至る山道の押さえとして、道園地区への『伝えの城』として存在したのでしょう。