山鹿城(やまがじょう)

山鹿城の基本情報

通称・別名

山鹿古城、湯町城、湯浦古城、上市城、清滝城

所在地

熊本県山鹿市山鹿字温泉(清滝神社)

旧国名

肥後国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

山鹿氏(菊池氏)

築城年

不明

主な改修者

主な城主

山鹿氏(菊池氏)

廃城年

天正15年(1587)

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

城村城(熊本県山鹿市)[4.0km]
亀尾城(熊本県菊池市)[9.1km]
鞠智城(熊本県山鹿市)[9.2km]
岩野嶽道祖城(熊本県熊本市)[11.1km]
隈部館(熊本県山鹿市)[11.1km]
田中城(熊本県玉名郡)[11.5km]
菊之城(熊本県菊池市)[11.9km]
隈府城(熊本県菊池市)[12.1km]
大津山城(熊本県玉名郡)[14.1km]
南関城(熊本県玉名郡)[15.0km]

山鹿城の解説文



山鹿城(やまがじょう)は、熊本県山鹿市(肥後国山鹿郡)にあった中世の日本の城(丘城)。

立地・構造 

山鹿市山鹿字温泉の低丘陵に位置し、跡地には清滝神社や光専寺[1]、圓頓寺などがある[2]。東側には南北方向に堀切が設けられ、南の急崖の外側には大規模な空堀と土塁があった。西側と北側は崖となっている。大正時代に鹿本鉄道の引込線を敷設した際に東南の土塁を崩している。また、山鹿氏の居館は現在の光専寺境内にあったという。

歴史 

菊池氏の庶流にあたる山鹿氏が代々の居城とした。築城時期は不明だが正平6年(1351年)に懐良親王と敵対していた記録があり、南北朝時代には北朝に属していた。天正12年(1584年)に島津氏に降伏したが、進駐の際に小ぜり合いが生じている。肥後国人一揆で城主の山鹿重安が城村城に篭城した天正15年(1587年)、またはその翌年に廃城となった。

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年

山鹿城の口コミ情報

2024年12月25日 龍馬備中守【】
山鹿城



熊本県の山鹿市の山鹿市字温泉にある【山鹿城と豊前街道】♪低丘陵に立地した山鹿城は、現在、山鹿の町並みに溶け込んでいます♪江戸時代には豊前街道と菊池往還が交わる要衝は今なお、当時の面影をそのままに、情緒溢れた町並みを残しています♪
筑後国風土記で『三毛の都、云々、昔者、楝木一株、郡家の南に生ひたりき、其高さは九百七十丈なり、朝日の影は肥前の国藤津の都の多良の峰を蔽ひ、暮日の影は肥後の国山鹿の郡の荒爪の山を蔽ひき、云々』と云うのが山鹿の初見の記録としてあります♪古来よりこの地の中心になっていると思われる山鹿ですが、その郡衙(古代官人が政務を執った役所)は布目瓦の出土した山鹿市山鹿の桜町付近と推定されていますが場所は特定されていません。郡司(郡を治めた地方官)についても同様に不明で意外にも分かっていない事が多い古代の山鹿です。

中世に入ると山鹿郡にも荘園が出来始めます♪寛治6年(1092年)現山鹿市域を中心に白河院領山鹿荘が成立し、まもなく醍醐無量光院領となっています♪その頃の山鹿郡は山鹿南郷、山鹿北郷と山鹿一帯を区分として、更には玉名東郷、玉名西郷にまで及ぶ範囲の大荘園だった様です♪その後の山鹿荘は久安元年(1145年)鳥羽院により、『山鹿郡を中心とする無量光院領』と『玉名郡を中心とする仁和寺仏母院領』に分けられ仁和寺仏母院領は鎌倉初期には玉名荘として成立しています♪12世紀初めには山鹿南郷に宇佐宮領の半不輸領石原別符が成立♪更に太宰府安楽寺領大路曲荘もこの頃に成立したと思われ、山鹿南郷内に小島のような形で幾つかの荘園が成立しています♪

そんな中幾つか荘園が築かれる中、山鹿郡の在地勢力としては、菊池氏庶流の山鹿氏が中心となっています♪この山鹿氏が、山鹿城の城主という訳ですが、山鹿城の築城年など、やや不明な点も多いです。

南北朝時代、山鹿郡内でも『菊池氏を中心とする南朝方』と『山鹿城を肥後北部の拠点とした北朝方の肥後守護少弐氏』と分かれて交戦しています。この頃の山鹿氏の動向は分からずですが、ただ正平6年(1351年)懐良親王と敵対していた記録があり、南北朝時代には北朝に属していました♪肥後守護少弐氏が衰退してからは、九州官領である今川勢が交替を繰り返しながら、志々岐、目野、岩原(山鹿地内)等で合戦を繰り返しました。

室町期から戦国初期にかけての山鹿郡は隈府城主であり守護菊池氏の本拠地に準じる様な位置となり、この北部肥後の国人衆も、また守護菊池氏に準じる動きになります。主な国人領主として、山鹿氏・中村氏・古閑氏・城氏・方保田氏・白石氏・馬見塚氏・吉田氏・平山氏・山井氏・阿佐古氏・木野氏・内田氏・隈部氏・御宇田氏・高橋氏・千田氏などの菊池氏の支族や縁族などが割拠しています♪特に山鹿市城を名字の地とする城氏や菊鹿町上永野を根拠とする隈部氏は、菊池市の赤星氏と共に菊池氏の三家老ともいうべき位置を占め存在感を強めました♪

永正元年(1504年)菊池22代目当主・菊池能運の死後は肥後北部は豊後国の大友氏の支配下に入り、その下で隈部・赤星両氏がこの地での主導権を争っています。天正5年(1577年)以降は隈部氏が龍造寺氏と結び山鹿郡全体を押さえ、城氏に代わり隈部親安が城村城に入っています。天正10年以降豊臣秀吉の九州征討までは島津氏の勢力がこの地にも及んでいます。山鹿での出来事はこんな感じです。

山鹿城は別名を湯町城・湯浦古城・上市城・清滝城・山鹿古城とも呼びます♪山鹿市山鹿字温泉に所在した丘城であります♪菊池氏庶流の山鹿氏代々の居城と云われますが、築城時期は不明。正平6年(1351年)征西将軍宮懐良親王令旨写には『追落山鹿凶徒城之時』とあり南北朝期には既に存在し北朝方に属する城として記されます。山鹿城を廻る動きが活発化するのは戦国末期からで『上井覚兼日記』天正12年(1584年)降伏した山鹿城に島津勢が入城しようとした所、城内には3里四方の大勢の婦女子が狼藉を恐れて逃げ込んでいて、やむ追えず、麓の宗方村に駐兵を予定するも、その後、問題が拗れ、小鹿口で小ぜり合いが生じた事が記されます。廃城は肥後国衆一揆で城主・山鹿重安が城村城に籠った天正15年と推定されています。この時期の山鹿城の動向は不明ですが、山鹿重安が城村城に籠っている事からも、山鹿氏は活動をしているのです。
城域は、現在の上市と呼ばれる清滝神社を中心とする低丘陵一帯で、旧山鹿町の中心街のため遺構はほとんど残っていませんが、土塁、空堀跡が残ります。肥後国誌には『三ヶ所ノロアリ、南ハ清滝口、西ハ像成寺口、北ハ菊池口池』とあり、3つの虎口を設けていた様です♪
因みに、現在の光専寺の境内が山鹿氏の居館跡でありました。光専寺は西南戦争時、山鹿口の戦いでは薩軍の野戦病院となりました。

2024年07月07日 マグロ常陸介祐平
山鹿城



菊池氏の一族、山鹿氏代々の居城です。山鹿氏は菊池則隆の次男の西郷政隆の系統ですので、西郷隆盛の家とは同族となります。

最後の城主山鹿重安は、佐々氏に対して起こした肥後国人一揆に加担し、城村城で戦いますが最後は降伏し小倉で切腹しています。

城址は、市街地化していてよく分かりません。昭和の雰囲気が残るスナックがある路地の先の清龍神社が本丸跡とされていますが、遺構は見当たりません。写真6枚目の盛土が土塁の痕跡かもしれません。向かいにある圓頓寺(写真5枚目)は、寛永元年(1624年)に城址に建立されたお寺で、山鹿重安の霊を供養する板碑があるようですが、わかりませんでした。

2021年08月24日 多咲兵庫頭兼定
山鹿城

近くの有料駐車場に車を止めて、リア攻マップに従い歩いて攻めてきました。城跡はお寺の境内になっており、お城っぽさは残っておりませんでした。ただ、山鹿の古い街並みの散策ができて楽しい城攻めでした。

2019年06月10日 虹雷 大宰大弐 サンダー
山鹿城



城跡の案内板は、細い路地を入った奥の方にあるので見つけにくいです。街の真ん中なので、車も停めにくく、徒歩でゆっくり散策を。

2019年06月04日 笑門来猫
山鹿城



屋敷跡にある光専寺。西南戦争の山鹿口の戦いでは桐野利秋隊が激戦を繰り広げ、野戦病院となる。

山鹿城の周辺スポット情報

 焼米城(周辺城郭)

 用木城(周辺城郭)

 乙城(周辺城郭)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore