日嶽城(鶴城)

日嶽城(鶴城)([筒ヶ嶽城  周辺城郭])

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日嶽城(鶴城)の口コミ情報

2023年09月29日 龍馬備中守【感謝】


熊本県の玉名市にある【日嶽城(鶴城)】♪開田集落背後の標高201m程の山頂を中心に城郭は形成されました♪南側の日嶽城(亀城)は日嶽城の出城でしょう♪
本善坊(標高300m)の南側の峰に日嶽城(鶴城)は立地します♪小岱山(筒ヶ嶽城)とは直線3キロ位の位置関係です♪

古代における日嶽は火岳(狼煙を上げる火の岳)と呼ばれていて、烽火台が設けられていたとも云われています♪古代からの肥後国といえば鞠智城ですが、有明海に敵の船が侵入すると狼煙を上げ、次々に山々をリレーし菊池の鞠智城まで伝えたのではないか?とも云われている日嶽城です♪
さてさて歴史詳細です♪鎌倉時代の建久4年(1193年)八幡別当・紀国隆は鎌倉幕府より大野別府250町の地頭職に命じられています♪嫡子の時隆、次男の国秀、三男の秀隆に各55町を分与しています♪時隆は肥後玉名郡大野別府にて中村氏を称し、次男の国秀は築地氏を称し築地次郎国秀館を現・岱明町下前原に居館を構えています♪
三男の秀隆は大野氏を称し、惣領職を継いでいます♪

弘安4年(1281年)2度目の元寇襲来の際に奮戦した大野小次郎国隆は『蒙古襲来絵詞』にその名を残しました♪同一族の岩崎氏、田嶋氏、築地氏、二塚氏の4氏は田地を得ました♪

南北朝時代に大野氏は菊地氏と共に南朝方(後醍醐天皇方)として戦いましたが幾度となく北朝(足利方)の今川軍に攻められています☆

同南北朝時代に北朝方の小代氏の筒ヶ岳城に対抗して、南朝方の大野三郎が築城したのが日嶽城と伝わり、『日岳』の山頂に本丸を置きコレを鶴城と称し、『古城』に二の丸を配置して亀城と称したと伝わります♪

中世の大野別府(玉名町、築山、滑石、岱明町一帯)を中心に栄えた土豪・大野一族の山城なのであります♪
天文19年1550年には豊後国・大友義鎮の家臣・小代氏が日嶽城を攻略☆
耳川の戦いにより、その力を失っていく豊後国の大友家ですが、その契機に佐嘉・龍造寺隆信は肥後北部まで勢力を伸ばしていきます☆
これにより小代氏は、大友家から龍造寺家に転属していて、天正9年(1581年)には日嶽城・城主、大野弾正少弼紀親祐は、小代左近将監親忠と戦い敗退しています☆大野別府・地頭である大野氏はココに滅んでしまいました☆

2021年03月09日 一寸榎伊予守


日嶽城跡は筒ヶ嶽城跡の南約3.6㎞の所、開田集落背後の標高200㍍程の山頂を中心に築かれています。
山頂の狭い郭と南東側に二段の郭があり北側に堀切、北西側に4~5条の畝状空堀群があり、さらに北側の本善坊背後にも浅いながら一条の堀切があります。

主郭背後の堀切の北側に削平され土塁を伴う空間があり堀切の構築の後にさらに防衛のために造ったのかな?と想像をかきたてる場所も。

城主の大野氏は鎌倉時代に下向し、蒙古襲来や南北朝時代には南朝方として活躍しましたが天正9年、かねてより不仲だった筒ヶ嶽城城主の小代氏により攻撃され落城し滅亡しました。

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