日嶽城(亀城)
日嶽城(亀城)([筒ヶ嶽城 周辺城郭])
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日嶽城(亀城)の口コミ情報
2023年09月30日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
熊本県の玉名市にある【日嶽城(亀城)】♪(鶴城)の南側に伸びる尾根上の標高92m程を中心に城郭は形成されました♪北側の日嶽城(鶴城)は日嶽城の詰城です♪
古代における日嶽は火岳(狼煙を上げる火の岳)と呼ばれていて、烽火台が設けられていたとも云われています♪古代からの肥後国といえば鞠智城ですが、有明海に敵の船が侵入すると狼煙を上げ、次々に山々をリレーし菊池の鞠智城まで伝えたのではないか❓とも云われている日嶽城です♪
さてさて歴史詳細です♪鎌倉時代の建久4年(1193年)八幡別当・紀国隆は鎌倉幕府より大野別府250町の地頭職に命じられています♪嫡子の時隆、次男の国秀、三男の秀隆に各55町を分与しています♪時隆は肥後玉名郡大野別府にて中村氏を称し、次男の国秀は築地氏を称し築地次郎国秀館を現・岱明町下前原に居館を構えています♪
三男の秀隆は大野氏を称し、惣領職を継いでいます♪
弘安4年(1281年)2度目の元寇襲来の際に奮戦した大野小次郎国隆は『蒙古襲来絵詞』にその名を残しました♪同一族の岩崎氏、田嶋氏、築地氏、二塚氏の4氏は田地を得ました♪
南北朝時代に大野氏は菊地氏と共に南朝方(後醍醐天皇方)として戦いましたが幾度となく北朝(足利方)の今川軍に攻められています☆
同南北朝時代に北朝方の小代氏の筒ヶ岳城に対抗して、南朝方の大野三郎が築城したのが日嶽城と伝わり、『日岳』の山頂に本丸を置きコレを鶴城と称し、『古城』に二の丸を配置して亀城と称したと伝わります♪
中世の大野別府(玉名町、築山、滑石、岱明町一帯)を中心に栄えた土豪・大野一族の山城なのであります♪
天文19年1550年には豊後国・大友義鎮の家臣・小代氏が日嶽城を攻略☆
耳川の戦いにより、その力を失っていく豊後国の大友家ですが、その契機に佐嘉・龍造寺隆信は肥後北部まで勢力を伸ばしていきます☆これにより小代氏は、大友家から龍造寺家に転属していて、天正9年(1581年)には日嶽城・城主、大野弾正少弼紀親祐は、小代左近将監親忠と戦い敗退しています☆大野別府・地頭である大野氏はココに滅んでしまいました…。。
副郭である日嶽城(亀城)ですが、登城路は無く、程良い場所から登城します♪長らく人が入り込んでいない為に、中々の藪ではありますが、その遺構は、鮮明に残ります♪
特に堀の鋭さ畝状竪堀群(畝が太い)を見ると、戦国晩期まで使用されたのかな〜?という印象です♪大野氏が滅んだ後は龍造寺方として、動いた小代氏が南方に根を張る薩摩国・島津氏に対して造り込んだのかもしれません♪突き進め竹藪〜wって感じでしたww
2021年03月12日 榎晴信肥後守
日嶽城跡(亀城)は日嶽城跡(鶴城)の南側、標高92㍍の山頂北側にあります。南側は蜜柑畑となっており遺構は失われていますが東側から北側にかけて遺構がよく残っております。
この城とにかく遺構がすばらしいんです。山頂から北側にかけて土橋付きの堀切や土塁の残る数段の曲輪、東側の腰曲輪付きの規模の大きい畝竪など見所満載なんです。
しかしそこは激竹藪の中…当然案内板や道などありません。地図を頼りの登城となります。
熊本の山城には少ない規模の大きな畝竪などは龍造寺方となった小代氏の支配下となった後で造られたのかもしれません。