高道城(たかみちじょう)
高道城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 熊本県玉名市岱明町高道字城内
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 高路氏、池松氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
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筒ヶ嶽城(熊本県荒尾市)[8.4km]
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大津山城(熊本県玉名郡)[18.1km]
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高道城の口コミ情報
2024年11月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
中土館[高道城 周辺城郭]
熊本県玉名市の岱明町中土にある【中土館】♪現在は雛壇状に畑となっています♪北側には友田川の中流左岸、南側は菊池川が造り出した河岸段丘上、現在は中土集落の中に居館は存在しました♪
地内には縄文式土器から土師器までの遺物を出する遺跡が点在します♪名田地名が多く残り、小集落が点在し中世村落の名残を留めています♪この中土館は、中土集落のほぼ中央に位置します♪が、築城年、城主共に不明な居館となります。
この辺り一帯は大野別符(大野荘)があった場所であり、中世より大野一族が領したエリアであります♪この大野氏は同領内にある日嶽城(以前口コミ済み)を本拠としています♪
この大野一族の存在ですが、大野氏の祖とされる紀国隆が、鎌倉初頭に建久4年(1193年)大野(現岱明町大野か?)に下向して以来、この地を領し国衆として活躍しています♪
祖とされる紀氏についてですが、肥後の在庁官人の中にその名前があり、大野別符(9世紀〜16世紀にかけての大野荘園)を開発したと推測されます♪紀氏の一族は以後、大野・中村・薬地・高路など、地名から来る姓を名乗り、その中世村落を治める在地領主として活躍しています♪中土氏という名前は確認取れませんでしたが、中土はこの、在地領主に組み込まれたモノなのか?分からず仕舞いでありました。
ただ、中土館のある丘陵地には幾つか、城郭、居館が点在しており、組み込まれていたのでしょう。
この辺りの出来事として南北朝時代には菊池郡を拠点とする菊池氏が南朝方として活動し、正平年間頃(1346年~1370年)菊池武光の弟である菊池武尚が大野荘まで進出しています♪
その子、菊池武国は高瀬氏を称し、高瀬城(保多木城)を拠点に大野荘の領主大野氏と協力して、玉名地方を勢力下に置こうと画策します。
これに対して隣接する野原荘(荒尾)在地領主の小代氏は北朝方に与同し、両者は大野・伊倉両荘の領有をめぐって激しく対立しました。対立の背景には、両荘が天然の良港を有していたという事があります。ここ大野荘には、肥後の対明貿易港の1つとして、中国明の類書『図書篇』の中に達加什(たかせ)と見える高瀬(高瀬城)の事があり、菊池氏一族がこの港を通じて、明や朝鮮と貿易活動をしていた事が分かっています。また伊倉荘でも、本堂山の板碑群のなかに渡海行者の存在を示すものや、『大明振倉謝公墳』と刻まれた明人墓碑が残り、中国との交流があった事を示しています♪この様に港を制圧し、自己の管理下に置く事は菊池氏にとっては非常に重大な課題であり、大野、高瀬進出の狙いは港を抑える事にあった様です♪
結果、中土館については不明ではありましたが、大野別符という場所の重要性を理解する事が出来ました。
現在、中土館は何にもありませんw
ただ、台地高まる場所であり、荘園制度の中で育まれた中世村落だった事、その中で、大野別符に組み込まれた在地領主の存在があったのか?今は、知ることはできませんが、思いを馳せ、畑を見ていましたw
南には中土の六地蔵石幢が残ります♪
2024年11月16日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
高道城
熊本県玉名市の岱明町高道字城内にある【高道城】♪城めぐりに歴史詳細がない為記載します。筒ヶ岳の南側の裾野は洪積台地となり、北西に長く伸びます♪この台地上に高道城は存在します♪南側麓には、境川と菊池川が有明海に注ぎます♪台地を見るからに、東側から流れる境川は、古来よりもう少し大きな河川だった事を物語ります♪境川は台地を浸食し削ったであろうし、台地下では菊池川に伴う沖積平野でやや広い平野が成り立ちます♪また時代の流れと共に有明海の後退が行われた♪台地下の沖積平野では河川の氾濫防止や石高の増強の為の干拓が行われてきたのでしょうね♪現在に至っては、人々の生活に都合が良い様に、川の流れ方が当時と比べ小さくなっているという事が良く分かる♪そんな地形をしています♪
さて♪
高路とも記される高道城は、鎌倉時代から見える地名です♪元亨元年(1321年)阿蘇文書に、『一所たかミち』『一所高路』ともあり、その存在を確認する事が出来ます♪
築城年代は不明です。。が、玉名を拠点とし日嶽城(筒ヶ嶽城から口コミに入れています♪)を本拠とした、大野氏一族の高路幸経が居城としています♪この大野一族の存在ですが、大野氏の祖とされる紀国隆が、鎌倉初頭に建久4年(1193年)大野(現岱明町大野か?)に下向した事に始まり3人の子にそれぞれ所領を分けています♪その内の次男、築地二郎国秀に譲った築地五十五町の中に『前原、野口、高道』が含まれています♪現在も下前原には、築地次郎国秀館の居館跡が残り、野口は弥生時代の遺跡があり、高道には城郭が残ります♪
祖とされる紀氏についてですが、肥後の在庁官人の中にその名前があり、大野別符(9世紀〜16世紀にかけての大野荘園)を開発したと推測されます♪紀氏は以後、大野・中村・薬地や高路などを称していて、中世後期まで活動しています♪
紀姓武士団の中で中心となったのが大野氏ですが、弘安4年(1281年)弘安の役の際、再び日本に襲来した蒙古軍を迎撃した肥後の家人の中に『大野小次郎くにたか』という人物がいて、またその論功行賞に預かった者に大野岩崎太郎・同田島十郎幸隆の名があります♪この論功により両氏は、肥前国神崎荘内に所領を与えられています♪
南北朝期~戦国期を通じて大野氏の宿敵となったのは、隣接する野原荘の地頭である小代氏です♪小代氏は筒ヶ嶽城を本拠地としています。
大野氏は現玉名郡、小代氏は現荒尾と、隣り合わせに所領を要しております。大野氏と小代氏は宿敵となり、幾多も合戦を繰り返しています。
応安6年(1373年)北朝方に与同した小代氏は大野荘まで進出していて、これに対抗した大野氏は、肥後南朝方の雄高瀬氏(菊池一族)と結び付き、大野荘の保持を意図しました。
その後、戦国期に入ると、小代氏の勢力は更に拡大。天正9年(1581年)大野氏を滅亡させたと伝えられ、大野荘は小代氏の勢力下で近世を迎えています。
この高道城は、天正10年頃には城主は大野氏一族である池松貞胤でしたが、肥前国の龍造寺氏の侵攻を受け落城。大野氏は衰退しています。
城は洪積台地上に立地します♪現在は住宅地となり、高道集落となっています♪
残る遺構としては、濠、土塁、櫓台?
現在、本丸は菅原神社となります。
大手口は3つあり、東大手口、南大手口、西大手口♪南側、東側は丘陵地の斜面で防御。北側は水濠で防御♪西側には空堀もあった様ですが、消失しています。字名、城内。間違いないです♪
2017年02月12日 水瀬筑後守名雪
高道城
高道城趾は、大野下駅の南東に位置する特に名もなき神社でした。境内の中は普通に神社で、特に城の遺構などは見られなかった。駐車場はなく、狭く急な坂の登り口より境内の中に邪魔にならないよう端っこに止めるしかない。