高道城(たかみちじょう)
高道城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 熊本県玉名市岱明町高道字城内
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 高路氏、池松氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
筒ヶ嶽城(熊本県荒尾市)[8.4km]
大間城(福岡県大牟田市)[16.0km]
妙見城(熊本県熊本市)[16.3km]
岩野嶽道祖城(熊本県熊本市)[16.8km]
南関城(熊本県玉名郡)[17.3km]
柿原城(熊本県熊本市)[18.0km]
大津山城(熊本県玉名郡)[18.1km]
寺中城(長崎県島原市)[18.6km]
上代城(熊本県熊本市)[19.1km]
山鹿城(熊本県山鹿市)[19.5km]
高道城の口コミ情報
2024年12月12日 龍馬備中守【】
保田木城[高道城 周辺城郭]
熊本県玉名市の高瀬にある【保田木城】♪別名を高瀬城とも呼びます♪菊池川と繁根木川の合流点付近に位置し、この両河川に挟まれ、コレを天然の濠とします♪小高い保田木台の高台に、城郭は立地しました♪
この『高瀬』とは鎌倉期から見える地名で、玉名郡大野別符(荘園)の内です♪南北朝時代に、菊池一族が保田木城を築いています♪大野別符の開発領主である大野一族ですが、南北朝時代に肥後国で南朝方の高瀬氏(菊池一族)と結び付き、大野荘の保持を意図しています♪
高瀬氏(菊池一族)と大野氏の結び付きは南北朝時代頃からで、菊池宗家は、高瀬の地を抑えたかった♪これは菊池氏の本貫地である、菊池に至る舟運の拠点として、当地の高瀬津を確保する為なのでしょう♪良港であった高瀬は、貿易が盛んに行われています♪元・明・高麗・朝鮮(李朝)などと交易を行い、以降、江戸時代までも肥後国の主要な良港として栄えています♪実際、高瀬の河原から12~13世紀以降の青磁が大量に発見されていて、貿易港としての高瀬津の繁栄が垣間見えます♪その後の高瀬は港町として発展していきますが、その根源は『和名抄(平安末期の辞書)』の石津郷と考えられていて、『津』とある事から、繁根木川が菊池川に合流する地点のすぐ北東、河崎(高瀬の東)辺りにあった港と考えられています♪港の発達は、この地に自治的な小都市の形成をもたらしました♪
南北朝時代の正平2年(1347年)菊池武尚が、ここ保田木台に保田木城を築いています♪
菊池武尚の子である菊池武国は、その後、高瀬氏を名乗り、代々の高瀬氏はこの城を本拠として、菊池本家を支え、海外との交流も活発にしています♪5代目の菊池武教の名は、朝鮮の『海東諸国紀』にも出た程でもあります♪貿易で築いた富で、隣接の清瀬寺、宝成就寺など五ヶ寺や、神社の保護にも務めています♪高瀬氏は16世紀の初めには、菊池宗家共々、衰亡しちゃいました。。
戦国時代には、この地は豊後国の大友宗麟に服従していて、宣教師達は大友宗麟の援助で高瀬に出入りしています♪『フロイス日本史』には、永禄6年頃(1563年)ルイス・アルメイダが豊後へ渡る途中に『高瀬』に立ち寄り、またこの頃、高瀬には宣教師、コスメ・ドレスが居住し、大友宗麟は住居や信仰の自由を許したと云われています♪高瀬にも教会が建てられた様で、その場所は八日町付近に比定されています(※岱明町地方史より)
天正6年(1578年)耳川の戦いによって、大友氏が島津氏に大敗すると、この地には北から龍造寺氏が進出し、周辺の小領主を服属させていきました。玉名郡大野別符200町を、野原荘(現荒尾市)小代親伝に宛行いますが、この内に高瀬が含まれていたか?は不明です。
天正10年(1582年)には島津氏が隈本城を攻略し、高瀬へ接近した為、龍造寺氏は当地から出陣しています(※上井覚兼日記より)。
江戸時代に入り、寛永11年(1634年)に高瀬町は肥後五ヶ町の1つとなり、保田木城の場所には町奉行所が置かれました♪現在、保田木城跡は保田木神社となり、菊池武尚と、奈良時代に肥後・筑後両国の国司をつとめた、道君首名を祀っています♪
因みに、集落内にある願行寺の境内には天正12年(1584年)島津・有馬の連合軍と戦い(沖田畷の戦い)敗死した肥前の戦国大名、龍造寺隆信の首塚と伝えられる石塔が残ります。菊池川に破棄された龍造寺隆信の首は、願行時の四阿上人によって丁重に葬られたと伝わります。
その後、明治4年(1871年)に、佐賀へ戻され高伝寺へ移されたと伝わります。
島津が返還しようとした首の受け取りを龍造寺側は拒否しています。驚いた事に受け取りを拒否したのは誰あろう実母の慶誾尼だったといいます。隆信の首は行き場を失い、龍造寺領と島津領の勢力の境目の寺にやむなく葬られたと云われていますが、コレが願行寺なのです。
全く触れなかったのですが、明治10年の西南の役(薩摩軍VS官軍)では、田原坂の戦いの次に熊本県北の激戦場となった場所でもあります。官軍墓地がヒッソリとありました。
2024年12月08日 龍馬備中守【】
高岡城[高道城 周辺城郭]
熊本県の玉名市山田にある高岡城♪現在はスーパーの横に看板があるのみで、高台となっています。高岡城は古代山城だった城郭です♪北側の小岱山から流れ出る境川が造り出した、洪積台地なのか?ハタマタ有明海が大きく入り込み出来た台地なのか?調べてみました♪
玉名の1万年前の海面の状況は、現在より400メートル程低い状態だった様で、5千年前の縄文時代中期には、逆に現在よりも5メートル程海面が高くなっており、玉名市の梅林や小田まで海水が入り込んできて、それはまるで大きな湖の様になっていた様です♪現在の高瀬や伊倉の低い部分が、当時の海岸線だった様で、湾の形をしていました♪縄文時代の貝塚や、その後の古墳の分布を見るからに、やや高台に築いている事から、海面は後退し、現在の地形に至っているという訳です♪
少し前に口コミした、大野氏の大野別符(荘園)がある場所は、中世には台地として、土地利用されています♪この高岡城がある場所も同様に、台地上でコレを城郭として利用♪対岸も台地♪恐らく、台地下まで海がきていたんでしょうかね??水利が良い点も注目出来ます♪古来は小さな湾の様になっていたのかな〜?これは地形地図から見たら、イメージが付きやすいですね♪
さて、この玉名郡ですが、郡司・日置氏が7世紀後半に、立願寺に群衙を築くまで拠点とした場所です♪大宝律令(701年)によって、地方には国郡里制がしかれ、肥後国には玉名郡以下13郡(後に14郡)が置かれています♪玉名郡には8郷(玉名郡 日置、為太、石津、下宅、宇部、大町、大水、江田)が置かれていました♪郡衙とは、今でいう役所みたいなもので、日置氏がその統治を行ったとされています♪
天智天皇2年(663年)白村江の戦いでの倭軍敗北後以降に、九州や中四国(瀬戸内)畿内に至るまでに築城されたのが、古代山城であり、これは大和朝廷が百済の将軍指揮下のもと、対朝鮮・中国の情勢に応じ、西日本各地の山に築造した防衛施設なのであります♪
高岡城もその1城とされています♪
太宰府の守りは勿論、鞠智城を守る西の城郭だったのでしょう♪
以下現地案内板より♪
山田団地の北側一帯の丘陵地は、熊本城等とはまったく異なる古い時代の築城法(朝鮮式山城)で造られ、監視所と防禦塞を兼ねた要塞のような山城でした。隣接地には城主の屋敷が構えられていました。一郭には一族の墓も営まれ、中には初代城主の墓とみられる巨大古墳も祀られています。うっそうと竹林が生い茂ってうす暗い中には、小さな墓標一基がひっそりとたたずんでいます。「釈尼童女」宝暦十二王天(一七六二)正月廿三日と墓誌銘が鮮やかに読み取ることができます。この乙姫墓を付近の人はお姫さんの墓と読んでいますが、城主の子孫で幼くして逝った姫君の墓です。西の家の庭先にも『高町殿紀氏の墓』(貴婦人墓)がまつられるなど、高岡には至るところ文化遺産やロ碑が語り継がれていて、高岡城にまつわる遠い歴史のおもかげを偲ぶことができます。
とまぁ、古代山城だったらしいです♪
遺構が消失している為、今は知ることはできませんが、灯台の様な性格を持っていたのか?狼煙的な性格を持っていたのか?謎が深まります。もう少し遡ると、同場所からは弥生時代後期の高岡原遺跡が発見されていて、後漢鏡や小型傍製鏡などが出土していました♪
更には住居跡が数基確認されていて、土器や鉄斧なども出土している様です♪
更に、中世には『高岡屋敷』と呼ばれる屋敷があった様で、掘立柱建物6棟、溝状遺構1条などが検出されていて、14世紀〜16世紀代の青白磁、瓦器などが出土しています♪
古くから土地利用をされていた場所は、年代を重ねる毎に海面が後退し、境川が台地を削り今の形になっている♪高台であり、見晴らしが良く、水利が良い、時代は変われど良い場所には変わりない為、人々が住み着いているのでしょう♪
2024年11月30日 龍馬備中守【】
築地館[高道城 周辺城郭]
熊本県玉名市の築地にある【築地館と蓮華院誕生寺】♪築地は小岱山の南麓で、この山を源流とする境川上流域右岸の洪積台地上に位置します♪地内は上築地・下築地・西築地に分かれます♪山麓には小古墳群・須恵器窯跡・製鉄跡・火葬骨壺など古代の遺跡も多くあり、台地上の水田には条里制の地割の名残を留めていて、古来より土地利用されてきました♪
立願寺の玉名郡衙と同じ白鳳期(※あんまり聞き慣れない白鳳期とは7世紀後半から8世紀初めまでを指します)から平安中期の瓦を出土する遺跡があり、郡司の官舎の1つと考えられています♪この築地という地名ですが、この郡司官舎の築地によるものと考えられています♪
この時代は国風文化が花開いた時代であり、十二単とか、蹴鞠を楽しむ貴族とかそんなイメージですかね〜?調べたら奥ゆかしいです♪
また、この地に縦横に大土塁が残っていたそうですが、景行天皇の行在所のものという伝説や、平重盛建立の寺のものという伝説があり、いずれも『伝』であります♪『伝』という言葉は非常に都合が良い言葉でありますw
鎌倉中期から西大寺の末寺である浄光寺が、下築地に8町の寺域を構え繁栄を続けた結果、寺院が多く残っています♪妙性寺や蓮華院、南大門の地名も残り、蓮華院誕生寺には、関白塔という超大型の鎌倉期の五輪塔が残ります♪鎌倉時代は武家の時代、この時代にも寺領が幅を効かせていたというのは意外でありました♪この築地館の主であり大野別符・大野氏の支族である築地氏は、蒙古襲来の時に恩賞に預かっています♪上築地の陣内には、土塁を巡らした築地館が残ります♪空堀もシッカリと残っていますが、藪の中でありますw
さて、この築地氏は大野一族で、大野別符内の築地の地を統治したのでしょう♪築城年は不明なれど、築地尚直の館と伝わります♪別名を築地尚道館とも呼びます♪開発領主であり祖である紀氏は以後、大野・中村・薬地・高路・築地などを称し、中世後期まで活動しています♪以降の大野一族は…応安6年(1373年)北朝方に与同した筒ヶ嶽城主の小代氏が、大野荘まで進出していて、これに対抗した大野一族は、肥後南朝方の雄高瀬氏(菊池一族)と結び付き、大野荘の保持を意図しました。
その後、戦国期に入ると、小代氏の勢力は更に拡大。天正9年(1581年)大野氏を滅亡させたと伝えられ、大野荘は小代氏の勢力下で近世を迎えています。築地氏の大まかな流れも、こんな感じでしょう。
築地氏を調べてみたら…
①建久4年(1193年)幕府の命を得て関東から下向した紀国隆は『肥後国玉名郡之内大野二百五十町』を給され、それを男子3人に分領したが、その内に『二男築地之二郎国秀ニハ築地五十五町』とあり、築地次郎国秀は当地の55町を領したとしています♪
②建武2年(1335年)神埼にある東妙・妙法両寺寺領坪付注文写(東妙寺文書)には『築地諸太郎隆能息時成』の名があり、当地で発掘された数基の五輪塔の内に大野系図に見える『下築地諸太郎幸経』の法名教信を刻む永徳年銘のものがあります♪
③建武2年の少弐頼尚知行預ヶ状案には『肥後国上小田・上築地・桑原・安永・小山田』などが、兵料所として詫磨宗直に預け置かれています。康暦元年(北朝方にて使用された年号)詫磨寂祐譲状には『上ついち』が詫磨西八郎殿に半分譲与されたが、取り返し惣領・詫磨別当五郎に譲与されています♪
④至徳3年(1386年)の九州探題今川了俊書状にも『大野別符内築地』と残ります♪
更に九州探題今川了俊書下でも詫磨氏の『上築地内知行分』を闕所(領主が移ったり知行人がいない土地)と号して乱することのないよう、『大野人々御中』に命じています♪
⑤戦国期の弘治3年(1557年)大友義鎮預ヶ状(志賀文書)には『肥後国玉名郡之内前原九町、同郡之内甲弐町・同郡之内下築地伍町』が志賀親度に預け進められています♪
などなどがありましたが、築地氏に付いてはイマイチ不明な点が多いです。
蓮華院誕生寺に関しては、玉名市築地にある寺院です♪真言宗で院号は蓮華院♪天正9年肥前国の龍造寺勢の兵火に掛かり、一度焼失しています。寺跡には『おちっつあん』と呼ばれる草堂と『お釈迦さん』と呼ばれる瓦ぶきの堂宇、『かんぱくさん』と呼ばれる大五輪塔2基が残っています♪
また、時代感が交差した五輪塔が沢山密集しています♪
2024年11月28日 龍馬備中守【】
築地次郎国秀館[高道城 周辺城郭]
熊本県玉名市の岱明町下前原にある【築地次郎国秀館】♪下前原集落は、友田川が造り出した洪積台地上に存在します♪台地下(南側)には友田川が流れ、この川が削り造った台地といった所でしょうか♪現在、下前原集落には熊野神社が鎮座しますが、熊野神社の区画とその西側の一画が築地次郎国秀館と伝わります♪
『しもまえばる』と言いますが、一般に前原と呼ばれる場所です♪群内には前原村が2か村あり、海に向かい下方の前原の意で下前原と命名したとされています(岱明町地方史)♪字・正林には弥生後期の竪穴住居跡群が発掘された下前原遺跡があり、字・西の下前原西遺跡からは須恵器が出土しています♪古来より、中世にかけての歴史が詰まっています♪
建武4年(1337年)紀国隆の二男の築地二郎国秀によって築かれたと云われていますが、一説には三男の前原蔵人秀親によるものとも云われています。下前原も、また大野別符の内(大野荘の内)であり、開発領主は紀氏です♪紀氏は肥後の在庁官人の中にその名前があり、大野別符(9世紀〜16世紀にかけての大野荘園)を開発したと推測されます♪紀氏は以後、大野・中村・薬地・高路・築地などを称し、中世後期まで活動しています♪
築地次郎国秀館のある場所は字・中宅地陣内と呼ばれ、熊野神社はこの時の建立であります♪熊野神社から西の区画の北側に土塁跡が残っているらしいのですが、宅地化されていて、見当たらず。。近くには『殿さん墓(前原さんの墓)』と呼ばれる墓標があります♪大野別符である、築地村の枝村とも云われる前原は、地形からみても、築地の前方の原という意と思われます♪
2024年11月17日 龍馬備中守【】
中土館[高道城 周辺城郭]
熊本県玉名市の岱明町中土にある【中土館】♪現在は雛壇状に畑となっています♪北側には友田川の中流左岸、南側は菊池川が造り出した河岸段丘上、現在は中土集落の中に居館は存在しました♪
地内には縄文式土器から土師器までの遺物を出する遺跡が点在します♪名田地名が多く残り、小集落が点在し中世村落の名残を留めています♪この中土館は、中土集落のほぼ中央に位置します♪が、築城年、城主共に不明な居館となります。
この辺り一帯は大野別符(大野荘)があった場所であり、中世より大野一族が領したエリアであります♪この大野氏は同領内にある日嶽城(以前口コミ済み)を本拠としています♪
この大野一族の存在ですが、大野氏の祖とされる紀国隆が、鎌倉初頭に建久4年(1193年)大野(現岱明町大野か?)に下向して以来、この地を領し国衆として活躍しています♪
祖とされる紀氏についてですが、肥後の在庁官人の中にその名前があり、大野別符(9世紀〜16世紀にかけての大野荘園)を開発したと推測されます♪紀氏の一族は以後、大野・中村・薬地・高路など、地名から来る姓を名乗り、その中世村落を治める在地領主として活躍しています♪中土氏という名前は確認取れませんでしたが、中土はこの、在地領主に組み込まれたモノなのか?分からず仕舞いでありました。
ただ、中土館のある丘陵地には幾つか、城郭、居館が点在しており、組み込まれていたのでしょう。
この辺りの出来事として南北朝時代には菊池郡を拠点とする菊池氏が南朝方として活動し、正平年間頃(1346年~1370年)菊池武光の弟である菊池武尚が大野荘まで進出しています♪
その子、菊池武国は高瀬氏を称し、高瀬城(保多木城)を拠点に大野荘の領主大野氏と協力して、玉名地方を勢力下に置こうと画策します。
これに対して隣接する野原荘(荒尾)在地領主の小代氏は北朝方に与同し、両者は大野・伊倉両荘の領有をめぐって激しく対立しました。対立の背景には、両荘が天然の良港を有していたという事があります。ここ大野荘には、肥後の対明貿易港の1つとして、中国明の類書『図書篇』の中に達加什(たかせ)と見える高瀬(高瀬城)の事があり、菊池氏一族がこの港を通じて、明や朝鮮と貿易活動をしていた事が分かっています。また伊倉荘でも、本堂山の板碑群のなかに渡海行者の存在を示すものや、『大明振倉謝公墳』と刻まれた明人墓碑が残り、中国との交流があった事を示しています♪この様に港を制圧し、自己の管理下に置く事は菊池氏にとっては非常に重大な課題であり、大野、高瀬進出の狙いは港を抑える事にあった様です♪
結果、中土館については不明ではありましたが、大野別符という場所の重要性を理解する事が出来ました。
現在、中土館は何にもありませんw
ただ、台地高まる場所であり、荘園制度の中で育まれた中世村落だった事、その中で、大野別符に組み込まれた在地領主の存在があったのか?今は、知ることはできませんが、思いを馳せ、畑を見ていましたw
南には中土の六地蔵石幢が残ります♪
2024年11月16日 龍馬備中守【】
高道城
熊本県玉名市の岱明町高道字城内にある【高道城】♪城めぐりに歴史詳細がない為記載します。筒ヶ岳の南側の裾野は洪積台地となり、北西に長く伸びます♪この台地上に高道城は存在します♪南側麓には、境川と菊池川が有明海に注ぎます♪台地を見るからに、東側から流れる境川は、古来よりもう少し大きな河川だった事を物語ります♪境川は台地を浸食し削ったであろうし、台地下では菊池川に伴う沖積平野でやや広い平野が成り立ちます♪また時代の流れと共に有明海の後退が行われた♪台地下の沖積平野では河川の氾濫防止や石高の増強の為の干拓が行われてきたのでしょうね♪現在に至っては、人々の生活に都合が良い様に、川の流れ方が当時と比べ小さくなっているという事が良く分かる♪そんな地形をしています♪
さて♪
高路とも記される高道城は、鎌倉時代から見える地名です♪元亨元年(1321年)阿蘇文書に、『一所たかミち』『一所高路』ともあり、その存在を確認する事が出来ます♪
築城年代は不明です。。が、玉名を拠点とし日嶽城(筒ヶ嶽城から口コミに入れています♪)を本拠とした、大野氏一族の高路幸経が居城としています♪この大野一族の存在ですが、大野氏の祖とされる紀国隆が、鎌倉初頭に建久4年(1193年)大野(現岱明町大野か?)に下向した事に始まり3人の子にそれぞれ所領を分けています♪その内の次男、築地二郎国秀に譲った築地五十五町の中に『前原、野口、高道』が含まれています♪現在も下前原には、築地次郎国秀館の居館跡が残り、野口は弥生時代の遺跡があり、高道には城郭が残ります♪
祖とされる紀氏についてですが、肥後の在庁官人の中にその名前があり、大野別符(9世紀〜16世紀にかけての大野荘園)を開発したと推測されます♪紀氏は以後、大野・中村・薬地や高路などを称していて、中世後期まで活動しています♪
紀姓武士団の中で中心となったのが大野氏ですが、弘安4年(1281年)弘安の役の際、再び日本に襲来した蒙古軍を迎撃した肥後の家人の中に『大野小次郎くにたか』という人物がいて、またその論功行賞に預かった者に大野岩崎太郎・同田島十郎幸隆の名があります♪この論功により両氏は、肥前国神崎荘内に所領を与えられています♪
南北朝期~戦国期を通じて大野氏の宿敵となったのは、隣接する野原荘の地頭である小代氏です♪小代氏は筒ヶ嶽城を本拠地としています。
大野氏は現玉名郡、小代氏は現荒尾と、隣り合わせに所領を要しております。大野氏と小代氏は宿敵となり、幾多も合戦を繰り返しています。
応安6年(1373年)北朝方に与同した小代氏は大野荘まで進出していて、これに対抗した大野氏は、肥後南朝方の雄高瀬氏(菊池一族)と結び付き、大野荘の保持を意図しました。
その後、戦国期に入ると、小代氏の勢力は更に拡大。天正9年(1581年)大野氏を滅亡させたと伝えられ、大野荘は小代氏の勢力下で近世を迎えています。
この高道城は、天正10年頃には城主は大野氏一族である池松貞胤でしたが、肥前国の龍造寺氏の侵攻を受け落城。大野氏は衰退しています。
城は洪積台地上に立地します♪現在は住宅地となり、高道集落となっています♪
残る遺構としては、濠、土塁、櫓台?
現在、本丸は菅原神社となります。
大手口は3つあり、東大手口、南大手口、西大手口♪南側、東側は丘陵地の斜面で防御。北側は水濠で防御♪西側には空堀もあった様ですが、消失しています。字名、城内。間違いないです♪
2017年02月12日 水瀬筑後守名雪
高道城
高道城趾は、大野下駅の南東に位置する特に名もなき神社でした。境内の中は普通に神社で、特に城の遺構などは見られなかった。駐車場はなく、狭く急な坂の登り口より境内の中に邪魔にならないよう端っこに止めるしかない。