築地館
築地館([高道城 周辺城郭])
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築地館の口コミ情報
2024年11月30日 龍馬備中守【】
熊本県玉名市の築地にある【築地館と蓮華院誕生寺】♪築地は小岱山の南麓で、この山を源流とする境川上流域右岸の洪積台地上に位置します♪地内は上築地・下築地・西築地に分かれます♪山麓には小古墳群・須恵器窯跡・製鉄跡・火葬骨壺など古代の遺跡も多くあり、台地上の水田には条里制の地割の名残を留めていて、古来より土地利用されてきました♪
立願寺の玉名郡衙と同じ白鳳期(※あんまり聞き慣れない白鳳期とは7世紀後半から8世紀初めまでを指します)から平安中期の瓦を出土する遺跡があり、郡司の官舎の1つと考えられています♪この築地という地名ですが、この郡司官舎の築地によるものと考えられています♪
この時代は国風文化が花開いた時代であり、十二単とか、蹴鞠を楽しむ貴族とかそんなイメージですかね〜?調べたら奥ゆかしいです♪
また、この地に縦横に大土塁が残っていたそうですが、景行天皇の行在所のものという伝説や、平重盛建立の寺のものという伝説があり、いずれも『伝』であります♪『伝』という言葉は非常に都合が良い言葉でありますw
鎌倉中期から西大寺の末寺である浄光寺が、下築地に8町の寺域を構え繁栄を続けた結果、寺院が多く残っています♪妙性寺や蓮華院、南大門の地名も残り、蓮華院誕生寺には、関白塔という超大型の鎌倉期の五輪塔が残ります♪鎌倉時代は武家の時代、この時代にも寺領が幅を効かせていたというのは意外でありました♪この築地館の主であり大野別符・大野氏の支族である築地氏は、蒙古襲来の時に恩賞に預かっています♪上築地の陣内には、土塁を巡らした築地館が残ります♪空堀もシッカリと残っていますが、藪の中でありますw
さて、この築地氏は大野一族で、大野別符内の築地の地を統治したのでしょう♪築城年は不明なれど、築地尚直の館と伝わります♪別名を築地尚道館とも呼びます♪開発領主であり祖である紀氏は以後、大野・中村・薬地・高路・築地などを称し、中世後期まで活動しています♪以降の大野一族は…応安6年(1373年)北朝方に与同した筒ヶ嶽城主の小代氏が、大野荘まで進出していて、これに対抗した大野一族は、肥後南朝方の雄高瀬氏(菊池一族)と結び付き、大野荘の保持を意図しました。
その後、戦国期に入ると、小代氏の勢力は更に拡大。天正9年(1581年)大野氏を滅亡させたと伝えられ、大野荘は小代氏の勢力下で近世を迎えています。築地氏の大まかな流れも、こんな感じでしょう。
築地氏を調べてみたら…
①建久4年(1193年)幕府の命を得て関東から下向した紀国隆は『肥後国玉名郡之内大野二百五十町』を給され、それを男子3人に分領したが、その内に『二男築地之二郎国秀ニハ築地五十五町』とあり、築地次郎国秀は当地の55町を領したとしています♪
②建武2年(1335年)神埼にある東妙・妙法両寺寺領坪付注文写(東妙寺文書)には『築地諸太郎隆能息時成』の名があり、当地で発掘された数基の五輪塔の内に大野系図に見える『下築地諸太郎幸経』の法名教信を刻む永徳年銘のものがあります♪
③建武2年の少弐頼尚知行預ヶ状案には『肥後国上小田・上築地・桑原・安永・小山田』などが、兵料所として詫磨宗直に預け置かれています。康暦元年(北朝方にて使用された年号)詫磨寂祐譲状には『上ついち』が詫磨西八郎殿に半分譲与されたが、取り返し惣領・詫磨別当五郎に譲与されています♪
④至徳3年(1386年)の九州探題今川了俊書状にも『大野別符内築地』と残ります♪
更に九州探題今川了俊書下でも詫磨氏の『上築地内知行分』を闕所(領主が移ったり知行人がいない土地)と号して乱することのないよう、『大野人々御中』に命じています♪
⑤戦国期の弘治3年(1557年)大友義鎮預ヶ状(志賀文書)には『肥後国玉名郡之内前原九町、同郡之内甲弐町・同郡之内下築地伍町』が志賀親度に預け進められています♪
などなどがありましたが、築地氏に付いてはイマイチ不明な点が多いです。
蓮華院誕生寺に関しては、玉名市築地にある寺院です♪真言宗で院号は蓮華院♪天正9年肥前国の龍造寺勢の兵火に掛かり、一度焼失しています。寺跡には『おちっつあん』と呼ばれる草堂と『お釈迦さん』と呼ばれる瓦ぶきの堂宇、『かんぱくさん』と呼ばれる大五輪塔2基が残っています♪
また、時代感が交差した五輪塔が沢山密集しています♪