福丸城

福丸城([鷹取城  周辺城郭])

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福丸城の口コミ情報

2023年05月28日 龍馬備中守【感謝】


福岡県のうきは市にある【福丸城】♪別名・福益城は妙見城を本城に持つ、星野氏の支城群の1城になります♪鷹取山から北に伸びる尾根線上に♪妙見城の北東側の尾根が突き出た場所に福丸城は立地しています♪

戦国時代に築かれたと伝わる福丸城は城主・星野高実と云われていますが、定かではありません⭐︎『星野系図』では、福丸城を築いたのは、京都から来たと伝わる祖・星野中務大輔胤実の子、星野鎮実で、その後、星野高実の代まで在城したと伝わり、妙見城同様に築城は戦国時代より前なのでしょう♪星野の祖である星野中務大輔胤実は、鎌倉時代初期の嘉禄2年(1226年) 筑後国生葉群星野郷に封ぜられ星野領主となり、約360年後の天正14年(1586年)直系18代目の星野鎮胤(吉実)の代に没落するまでの間、分家一族共に繁栄しました♪その間の出来事の多くは謎に包まれていますが、生葉、竹野両郡の内壱千余町を領し星野に本城を構え各地に支城を設けています♪まぁ、少弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏、龍造寺氏、島津氏等の九州、周防、安芸の大名の間で揺れ動いたのでしょう⭐︎妙見城の支城群、福丸城という訳であります♪

『太宰管内志』にはこう記されています♪『堀川院の時 胤実は筑後国星野を賜り嘉禄2年11月、星野に館を構えて本星野に居る。且つ星野山中に内城高岩城を築き其の後子孫は繁栄し生葉・竹野両群を領してゆく。家紋は「亀甲藤丸」とす。 八郎丸は長じて胤実と名乗り常陸介・中務大輔を称す。胤実には二子があり長を鎮実と云い右近大夫と称す。 本星野館に居り、後、延壽寺村に福丸城を築き移って福益館に居る。次を実隆と云い、樋口次郎太郎実安の養子となる、三郎二郎越前守と称す。兄の譲を受けて本星野館に居る又十籠館とも云う。鎮実の子星野民部大輔 鎮能、其の子星野宮内小輔鎮行、其の子星野八郎元行、其の子星野志摩守元実、其の子星野民部大輔元親、 其の子星野下總守親実、其の子星野志摩守鎮忠、其の子星野中務大輔鎮種、鷹取城に居る。鎮種の子星野下總守実世は福丸城に居る。実世の子星野伯耆守職泰福丸城に居る。職泰の子伯耆守元康本星野館に居る。 次に樋口実房、元康の子星野下野守鎮康は石垣邑中山城を築く。鎮康の子星野中務大輔吉實、次に星野右衛門太 夫重実、吉實は福丸城に居り生葉群三十二村竹野群東郷五百町を領す。星野中務大輔吉實は戦国時代の人で、こ の頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。吉實自立していずれにも偏せず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏、黒木氏同盟して猫尾城を守る。大友氏は偽って竹尾外記なるものを猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後、黒木氏は龍造寺氏に属す。常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て 名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文3年(1535年)9月13日に死す。その子伯耆守正実は福丸城に在ったが大友勢に攻められて周防に逃る。この後、星野氏は大友氏に属し、右衛門太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後福丸城に高実がいたが大友氏の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘です)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石城に居る、後福丸に移り肥後勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて豊後に奔り弟鎮胤(吉実)は初め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正14年(1586年)8月25日筑前高鳥居にて討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する』と残ります⭐︎
星野家の始祖・星野中務大輔胤実から始まり星野中務大輔吉実、星野民部少輔吉謙の星野兄弟で一旦、終焉、滅亡に追い込まれる星野家ですが、その子、星野鎮之(長虎丸)を使しめて筑後に帰しています♪血脈を残した星野家♪星野鎮之(長虎丸)は肥前の龍造寺政家に預けられ、その後は鍋島直茂に預け替えになっていて以降は鍋島家の家臣として仕える身となったと伝わります♪

動乱の世を生き抜いた星野家♪福丸城にはその鋭さ、土木量が今に伝わります♪
因みに、福丸城の別名が福益城と呼ばれるのは、城と館の混同なのでしょうね♪
巨大な堀切♪畝状竪堀群は必見です♪

2021年05月03日 大内周防守毛利


 福丸城は秋月氏配下の星野氏によって築かれた城の一つ。星野氏の本拠地の城とされる妙見城は福丸城の背後、南西に存在しています。

【構造】標高190mの尾根の頂部に曲輪を2段設けている。南側には虎口を兼ねていたとも考えられる大堀切があり、それを挟んだ丘陵部分には2段にわたって畝状竪堀が構築されています。また、曲輪の北側には堀切がある。
 頂部に南北に長く伸びている曲輪は2段に分かれている。曲輪の東側には、大堀切の見張り場とも考えられる場所から北西にある一段下がった曲輪にかけて通路が設けられている。(縄張り図にはありませんが、この通路下にも数本竪堀があるような?) 頂部の曲輪から下の通路は見下ろす構造になり、上方や背後からも攻撃できます。
 北西の一段下がった曲輪は、南側に土塁と虎口がある。また南側から北西にかけて放射状に畝状竪堀が15本見られる。
 頂部の曲輪の南側に大堀切を挟んで残存する丘陵部分には、畝状竪堀によって平坦部をなくす形で掘ってある。これは攻城の足場として利用されないように丘陵部を破壊したものと考えられる。

【アクセス】久大本線筑後吉井駅の南側から歩いて、東側から攻城。ネットで調べた登城口不明、藪が多くアタック出来ず。南側より適当なところより川を跨いで無事到着。場所はかなりわかりづらかったですが、後日城の西側の袋田不動尊から行くことができることを知り後悔。

【写真】①②南側丘陵部の畝状竪堀
    ③大堀切
    ④見張り台
    ⑤曲輪から見下ろす通路
    ⑥頂部の曲輪
    ⑦北西の曲輪

【参考文献】2020 戦国期北部九州の城郭構造  岡寺 良
 2017 福岡県の中近世城館跡Ⅳ 福岡県教育委員会

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