高取城(たかとりじょう)

高取城の基本情報

通称・別名

芙蓉城、鷹取城、高取山城

所在地

奈良県高市郡高取町高取他/吉野郡大淀町比曽

旧国名

大和国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

連立式[3重3階地下1階/1589年築/破却]

築城主

越智邦澄

築城年

元弘2年(1332)

主な改修者

筒井順慶、本多利久

主な城主

越智氏、筒井氏、本多氏、植村氏

廃城年

明治6年(1873)

遺構

曲輪、石垣、横堀(空堀、水堀)、堀切、井戸

指定文化財

国史跡(高取城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

越智城(奈良県高市郡)[6.7km]
今井環濠(奈良県橿原市)[9.4km]
戒重城(奈良県桜井市)[9.5km]
吉野城(奈良県吉野郡)[11.0km]
櫛羅陣屋(奈良県御所市)[11.5km]
宇陀松山城(奈良県宇陀市)[11.7km]
十市城(奈良県橿原市)[11.7km]
高田城(奈良県大和高田市)[11.8km]
佐味城(奈良県御所市)[11.9km]
芝村陣屋(奈良県桜井市)[12.0km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

61 高取城

設置場所

高取町観光案内所「夢創館」[地図

高取城の解説文



高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城。別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

概要 

城は、高取町市街から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と歌われた。なお、土佐とは高取の旧名である。

曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。又、天守、御殿、櫓、門、土塀と言った建物の木造復元計画は予算の関係でない。

歴史・沿革 

室町時代・安土桃山時代

南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城となっていたようである。天文元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻してきた。対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めてきた。証如軍は高取城を包囲し、激戦となったようだが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した(天文の錯乱)。

その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は天正8年(1580年)に一旦は廃城となった。 天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され(自害とも)、越智氏は滅亡した。

筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。

天正13年(1585年)、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久に与えられた。天正17年(1589年)、利久は家臣諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並んだ。また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類を見ない広壮な山城が出現した。家臣団は、山麓の高取市街に城下町を営んだ。

利久は、天正19年(1591年)に没した秀長の後嗣となった秀保に仕えた。文禄4年(1595年)、秀保が17歳で没した後、利久の子俊政は秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。秀吉没後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600年)、家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。

江戸時代

俊政の子の政武は、寛永14年(1637年)嗣子なく没し本多氏の支配は終焉した。

本多氏廃絶の後、桑山一玄(大和新庄藩主)と小出吉親(丹波園部藩主)が城番となったが寛永17年(1640年)旗本の植村家政が2万5,000石の大名に取り立てられ新たな城主となった。以後、明治維新最後の城主植村家壷まで植村氏が14代にわたって城主となった。幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受ける。

近現代

明治2年(1869年)6月、版籍奉還により兵部省の管轄となり明治6年(1873年)廃城となった。入札により建造物の大半が近隣の寺院などに売却された。明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊したとされる。その一方で、明治6年(1873年)に建物の払い下げが行われ、7円35銭6厘(100円とも)で落札されるが一部を取り壊したのみで、明治20年(1887年)に黒門の払い下げ、明治24年(1891年)ごろに天守以下の建物全ての取り壊しが行われたともされる。

この内、二の門は町内にある子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は町内の石川医院の表門に、松ノ門は1892年(明治25年)に土佐小学校(町立高取小学校)の校門として移築された。1944年(昭和19年)、小学校で起きた火災により小学校は全焼、松ノ門は一部損傷し臼井家(伊勢屋・現在の金剛力酒造)が解体保存していたが[1]2004年(平成16年)、児童公園の表門として復元した。確認されている高取城の現存構造物はこれらのみである。この他に、下屋敷表門を移築したものではないかと言われている門が残っていたが門は取り壊され石碑のみになっている。

殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。しかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある。

貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)3月31日に国の史跡に指定された。平成18年(2006年)に、日本100名城に選定された。

城郭 

植村時代は、それぞれ3重の天守と小天守をはじめ、22基の櫓、5基の多門櫓、33棟の門、2900メートルの土塀、3600メートルの石垣、9の橋梁(きょうりょう)、5の堀切からなる山城であった。高取城は『高取町史』によると、近世的な改築は天正9年(1581年)から始まり、本多利久が朝鮮出兵より帰国した文禄2年(1593年)、そして植村氏が入封した寛永17年(1640年)ごろには基礎を築いたと指摘している。この植村氏が統治する約200年以上、大きな焼失や災害にあうことなく、部分的な修築がなされていたであろうが、旧状を保っていたと思われている。また『大和高取城研究』によると、当時は城の石垣を組みなおす場合でも、江戸幕府に報告し許可が必要であったが、高取城に関しては3代将軍家光より直々に、植村氏は三河国居城時の松平氏の古参譜代であり、山上にあることから年々破損も多いと思われるということで「一々言上に及ばず」と特別に許されていたようである。現状を維持する分には、容易に改修ができたと思われている。

本丸

本丸部分の大きさは東西に75メートル×南北に60メートル、高さは約8メートルの石垣に囲まれている。南西には3重3階の「小天守」があり、大きさは東西12メートル×南北13メートルある。また東側には2重3階の「硝煙御櫓」があり、虎口付近、「具足櫓」対岸には平櫓の「鉛御櫓」がある。このように本丸は、1基の天守と1基の小天守、3基の櫓が多門櫓で連結された連立式天守の縄張りであった。

この5基の櫓で囲まれた本丸部分には、「本丸大広間」という場所に礎石が数カ所あり1棟の御殿があったと考えられている。また、この御殿跡周辺には東西約5メートル×南北約3メートルの「楠井戸」がある。高取城の井戸は多数見受けられるがその大半は、雨水や湧水を集水したもので、地下の水脈まで到達した井戸はほとんどない。

天守

天守台の石垣は打込みハギで、隅部は算木積みで反りのない工法である。天守は本丸の北西に位置し、天守台には通路が約3メートルの穴蔵を設けている。このような穴蔵形式をもつ天守台は、他では犬山城福知山城岐阜城が同じような形式で、天守台としては発展期の築城様式と考えられている。天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模で「御天守」と呼ばれている。外観は『和州高取城山之絵図』によると、1重目は千鳥破風、2重目の中央に出窓形式、3重目には軒唐破風があり、外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観3重、地下1階の天守が推定されている。また、天守台の東側には付櫓台が属しており、2重の「具足櫓」が建っていたと考えられている。

太鼓御櫓・新御櫓・国見櫓

本丸と二の丸の間には2基の櫓が建っていた。一つは「太鼓御櫓」は南側で2重2階、もう一つは「新御櫓」は北側で同じく2重2階、その間を土塀でつなぎ、また太鼓御櫓から「十五間多門」があった。「新御櫓」、「太鼓御櫓」、「十五間多門」とちょうど「L字」型をなしている。

この建物群の機能としては、ここで天守の防衛を果たし馬出の形式をしていたと考えられている。この石垣が新しくみえるのは、昭和49年に修復されているからである。新御櫓は太鼓御櫓の後ろ側にあたるため古写真に姿はないが、石垣の構造などからおそらく同規模の櫓が建っていたと推定されている。新御櫓台には礎石跡が確認されている。

二ノ門から本丸へ行く途中には国見櫓があった。櫓は失われているが石垣上から文字通り奈良盆地を一望する事が出来、天候が良ければ大阪市街・六甲山・比叡山までも見通すことが出来る。

二の丸

二の丸の大きさは東西に約65メートル×南北は約60メートルで、主な建設物として、二の丸を守る北側中央にある「十三間多門」と「西江角櫓」、北西には「火之見櫓」、南西に「客人櫓」、南側中央に「御風呂屋」、そして中央に「二の丸御殿」が建設されていた。御風呂屋は2階建てで、寄棟、柿葺屋根になっており、石垣沿いに建設され、吉野山方向を望む風流な建物であったと考えられている。「二の丸御殿」には、玄関、御書院、大広間、湯殿、井炉裏間、廊下、雪隠等の間取りがあり、特に大広間は本丸大広間と同規模で、その大広間の上段には「軍議処」と呼ばれる場所があり、その南側には御書院が2室あり、重要な建物であったと推察されている。なお二の丸御殿の玄関が高取国民学校に移築されたが、昭和19年に焼失した。

御城

「二の丸御殿」下段の北側には通路幅約8メートルの外枡形状の虎口があり、「御城門」という門が開かれていた。高取城の大手門に相当し、この内側には平櫓の「竹櫓」が置かれていた。「竹櫓」とは、攻めてきた敵の足を滑らせる竹を保管していたと伝承されている。また上段にある太鼓御櫓の古写真は、この場所から撮影されたものである。

下屋敷

高取城跡より、1200メートル下ると植村家長屋がある。また、その南側の丘陵にあるが「下屋敷」もしくは「ゴテンアト」と呼ばれていた藩邸が置かれていた。大きさは、東西約80メートル×南北約90メートルで、北側半分は公的な場として活用され、南側半分を私的の場としていた。弁天池や四阿紫府亭も設けていた。また、門の東側には水堀があったと伝承されているが、その遺構は確認できていない。

高取城の特徴

高取城の特徴として「城郭談話会」では次の4つを挙げている。

標高の高い山城であるが近世の施設がある
戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれているが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されることが多い。高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない。火災や風雨、山上の不便さから、再築されることが少なかったからである。しかし、高取城は3代将軍家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、それで江戸時代を通じて各建物の存続と完備ができたとしている。
縄張と虎口の構成
高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと言われている。高取城は標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、平山城と同じような構えをもっている。また不等辺台形の隅部に三重天守、小天守、二重櫓を配し、周囲に多聞櫓を巡らしている点は、和歌山城と類似する。この共通性は、羽柴秀長が3か国の太守となり、和歌山城には桑山重晴、抑えの城である高取城には本多利久と、自らの家臣を置いたからと考えられている。
天守と小天守が建てられている
山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない。例えば洲本城には、天守に小天守台はあったが、小天守台に小天守が建てられたかどうかは不明である。そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例があるが、高取城は「三重天守」以外にも一回り小さな「三重小天守」まである。築造時期は明確ではないが、本多利久から植村氏が入るまでと推定されている。
櫓の数棟が多く、独特の名称が多い
高取城は櫓の数が多い。三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟あって、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で姫路城に似た外観であったと考えられている。また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴であると指摘している。また、二の門外の大手筋と岡口門の分岐に、猿石と呼ばれる石像がある。明日香村から石材として運ばれたもの。

交通・登城 

  • 電車 - 近鉄電車吉野線「壺阪山駅」→奈良交通バス「壺阪寺前」下車→徒歩約50分
  • 車 - 南阪奈道路葛城IC→国道165号→国道24号→国道169号→奈良県道119号
    • 駐車場は、高取町観光案内所の「夢創舘」横と児童公園近くの観光駐車場。
    • 城内入口付近には駐車場は無いがタクシーなら宗泉寺までは行く事が出来る。
  • 徒歩 - 「夢創舘」から徒歩で約90分。
  • 登城 - 宗泉寺より先は特に舗装整備はされておらず、手すりや街灯なども設置されていない山道である。「虫・蛇に注意」という看板が立てられており、夏の草刈り前は草木が鬱蒼と茂り、冬の降雪の後などは足下に充分な注意が必要である。

行事 

  • 1月1日 - 行事化されてはいないが初日の出を見る為に登城する人がいる。
  • 11月23日(祝) - たかとり城まつり

その他 

平成24年、地元自治会と市民団体が3万5679個のアルミ缶を使用して高取城天守をモデルにした作品(高さ4.1m)を作り[2]、「缶の使用数が最も多い像」としてギネス世界記録に認定された[3]

参考文献 

  • 【書籍】「大和高取城 」
  • 【書籍】「日本の名城・古城もの知り事典 」

関連文献 

  • 【書籍】「大和高取城に関する文献史学的研究 」

高取城の口コミ情報

2024年03月28日 ささやん左衛門督
高取城



さすが三大山城です。始めの坂はかなりキツイですが、登り切った後は、苔むした石垣に癒されました。本丸前でお出迎えしてくれる木彫のクマと城もいい感じでした

2023年12月10日 薊伍壱土佐守
高取城



入り口までは車で行けます。駐車場は無いですが数台は路駐出来るみたいです。
本丸までは20分ぐらい山歩きになりますので滑りにくい靴に履き替えた方が賢明かと。
建物の類いは何もないですが名城スタンプ設置の夢創館に置いてある無料のパンフレットにAR表示のがあるのでスマホ片手に散策すると面白いかと。

2023年11月15日 百済門徒衆修理大夫とら❖
芋ヶ峠[高取城  その他]



芋ヶ峠は古代からの飛鳥から吉野へ抜ける古道で、壬申の乱の折も天武天皇が吉野に落ち延びる際にここを通った。

又、神君伊賀越えの際には、徳川家康が道中発生した一揆を避けて、この峠を経て伊賀に入った。(神君伊賀越え大和説による)
当時の高取城主越智玄蕃宛の家康による感状が存在することから、当然高取城からの監視協力のもとに通過したと思われる。

現在も桜井明日香吉野線として車で通行出来るが、本来の古道は車道から外れている。

2023年09月05日 さっちゃん
高取城



たどり着くまでの道のりは、崩れかかった所もあり、なかなか厳しかったです。
日本三大山城であり、某番組で最強のお城にも選ばれた事を後で知ったのですが、選ばれるのも納得。見応えがありました。遺された苔むした石垣が物語っています。城下町の街並みも風情があって良かったです。

2023年09月04日 やまぴぃ
高取城



日本三大山城の高取城に行ってきました。まず最初に岩村城に行き山城なのにしっかりとした石垣が残り城址が好きになったきっかけでしたが、高取城に行き城の規模と石垣のスケールが圧巻で、とてもよかったです。あと残り一つの備中松山城が楽しみです。高取城もよかったですが、高取城の周辺も寺や古墳、神社がたくさんあるので是非お立ち寄りください。

2023年06月11日 備後守理恵之介
高取城



足場は悪いので歩きやすい靴がおすすめです

2023年06月05日 更科山城守六兵衛
高取城



麓から歩いて行きました。往復3時間ありましたが、見ごたえのある山城でした

2023年02月26日 小太郎左衛門督南海道22國守
高取城



夢創舘で御城印と資料を入手後、急ぎ旅につき、車で15分程で壺阪口門前空地に到着。数台分の広さはあります。そこから徒歩で、大手門、二ノ丸、本丸に20分程で到着します。塀、建物などなく、曲輪と石垣だけで圧巻な城です。

2022年11月21日 蜜黄熊織姫
高取城

よくある朽ちた山城だと思ってました。ごめんなさい。本丸は素晴らしい石垣で山道からは想像できない写ししでした。ハイキングにも最適で、ランチや紅葉も楽しめました!

2022年10月08日 
高取城



車で登って行くと楽しみは半減。歩いてる方も沢山見えますので、山道は慎重に運転してください。キトラ古墳方面からも登山道として続いてますので時間に余裕のある時に登りましょう。100名城ですが、崩落危険の看板がありました。手が加わってないとの見方もできますね。

2022年09月19日 トビー弾正少弼
高取城



壺阪山駅より朝9:45発の壷阪寺前行の奈良バスに乗り、終点壷阪寺前のバス停で降りて、お寺拝観受付の対面にある登山口から、五百羅漢ルートで登城しました。なおバス路線途中の山の麓に、壷阪寺口というバス停があり、間違えて降りてしまうと、30分位車道を登る事になりますので要注意です。また五百羅漢ルートは搦手口の様で、砂防公園からの大手道ルートに比べると、整備されていない急峻な山道になりますが、登る距離としては短いと思います。

2022年05月30日 課長大和守Ver.B
秋津城[高取城  周辺城郭]



以前は3000城に登録されていましたが城郭変更で忘れられた存在となっているようなので復活の口コミを…(笑)

秋津城は淳和天皇の御代にこの地に封ぜられた秋津氏の居城で、南北朝期には既に「古郭を修復し」とあるので相当古くからある城と見られます。

城は国道309号沿いの八幡神社裏の城山と呼称される所にあり、現在は東側に霊園が広がっています。
縄張りは北側に堀切を設けた主郭と南側に一段下がったニ郭、更に南に削平地が見えますがこれが説明板にある南郭と思われ、東郭は霊園による改変を受けているのではと考えられます。
遺構は主郭北側の堀切、主郭土塁と虎口、ニ郭の土塁と坂虎口ですがいずれも風化により浅くなっていました。

アクセスは国道の戎神社前交差点を東に進んだ先でクルマは霊園駐車場が利用出来、城域へは霊園の西側頂点付近から現在も墓域として利用される主郭へと向かうことが出来ます。
また霊園中央の四阿近くに説明板が、八幡神社内に城跡碑があります。

2022年05月22日 竹中播磨守じゅん兵衛
高取城



観光駐車場から山頂往復3時間のハイキングコースは途中まで舗装道で歩きやすいです。山城なのに水堀あるし苔むした石垣がバンバン登場するので退屈しません。国見櫓跡からの眺望は素晴らしいです。夢創舘でスタンプ押して御城印購入、高取町限定の高取城カードくれました。ありがとう夢創舘の奥さん、また登城したくなる日本最強の城です。
後日、写真整理してたら謎の物体が写ってました、高取城の精霊か?

2022年05月03日 saizo
夢創館[高取城  スタンプ]

外にスタンプが設置されていて、営業時間外でも押すことができます。ただ、やはり自由に押すことができるからか、状態はよくなく、汚れを取る必要がありました。インクが出やすいので、軽く押すとよいと思います。

2022年04月03日 りゅうぱぱ
高取城



途中の道は車がすれ違うのが厳しい山道を登る必要があります。山の上の石垣はよくここまで運んだなあと関心ものです。

2022年01月30日 重田右近衛中将憂兵衛
高取城



城跡まで車で近くまでも行けますが、やはりリア攻めならば麓から歩いて。
また登山道は2つあり、比較的壷阪寺口から登られる方が多いイメージですが、ぜひ砂防公園側から行って下さい。かなりキツいコースですが、七曲りや一升坂など、実際に城攻めしている感覚になりますよ。
ちなみに、高取町観光事務所でもある夢創館近くには無料の観光駐車場もあり便利です。

2022年01月26日 百済門徒衆修理大夫とら❖
国見櫓跡[高取城  遺構・復元物]



絶景ビュースポットです。大和盆地を一望。生駒山脈から金剛葛城山脈を見渡せる。椅子も設置してあり、たまに双眼鏡が置いてある。

2022年01月26日 百済門徒衆修理大夫とら❖
史跡高取城跡[高取城  碑・説明板]



ここから壷阪口門へと通じます。数台の車が駐車出来ます。仮設トイレが有ります。現在、七つ井戸への道は車で通行止めになっています。

2022年01月26日 百済門徒衆修理大夫とら❖
弥勒堀切[高取城  遺構・復元物]



大手門跡から20分かかりました。途中、道が細く片方が崖になっているので気を付けて下さい。

2022年01月11日 在来線男右京進
高取城



工事中、この先通行止めと看板がありますが、壷坂口まで行けます。車は4.5台は停めれます。2基の簡易トイレもあります。ただ本丸の簡易トイレは使用できませんでした。道は整備途中な感じで少し歩きにくいです。木を切り倒している最中のようで、たくさん残っています。石垣は多いです。緑色のコケが石垣にびっしり付いているところもあります。

2021年12月27日 楊近江守威利
高取城



朝雪が降っていたのか、道中、石垣など雪化粧でした。雪の石積みもまた風情がありますね。ナビどおり進みました。駐車場はなく、登城口付近に停車させていただきました。上手くすればに2、3台駐められるかも…

仮設トイレから15分くらいで壺坂曲輪から城域に入ります。本丸まで様々な場所での石垣が圧巻。また来たい!と思わせるような並び立つ石垣に感動しました。

車で行かれる方は山道気をつけて下さい。

2021年11月25日 多雨主殿頭古墳
高取城

僕は高取城の御城印、スタンプ設置場所夢創舘から歩きました。最初は遺産が所々残っている感じのアスファルトの道でしたが、途中で砂利道に変わります。そこからは七曲りや一升坂などがつづき、こまめに休憩することをお勧めします。猿石がでてきてからは、門や櫓の跡が連なり、少し歩くと高い石垣の本丸がでてきます。秋にいくと、紅葉が綺麗でした。🍁

2021年11月24日 多雨主殿頭古墳
松ノ門[高取城  遺構・復元物]

火災で一部が焼失したものの、公園として整備された。

2021年10月17日 里奈安房守
高取城



徒歩は流石に山城の為大変です。しっかり準備して下さい。車で山頂近くまで行けますが道が狭く駐車場がありません。

2021年09月27日 山中 バンビの助
高取城

日本最大の山城のとおり広大な城域を持っています。かなり山奥でありながら高石垣が素晴らしいです。壺阪口から登りましたがマムシがいました。十分注意を

2021年07月20日 建礼門院駿河守
高取城



往時の登城ルートを体験したくて黒門跡、ニノ門跡経由で、壺阪山駅から歩きました。やはり、遠くて、暑かったです。石垣の遺構は良好。見応えがありました。ショートカットしたい人は、七つ井戸近くまで車で上がれるので、二ノ門跡、国見櫓跡、水堀、松ノ門跡、宇陀門跡などは、少し下って、見れば早く回れます。

2021年04月09日 TK
高取城



夢創館近くの観光駐車場にレンタカーを止めて城跡まで往復2時間歩きました。七曲 一升坂などの急坂は少し体力を使いました。

2021年02月28日 琉城A和泉守【JM】
高取城



夢創舘で城内図とパンフレットをもらって、高取城へ!私は黒門跡から登城しました。
山を登っていくと、「史蹟 高取城阯」という石碑があります。そして、【一升坂】を通り、少し進むと【猿石】があります。その近くには【ニノ門跡】、山城では大変珍しい【水堀】(夢創舘から約1時間)があります。【国見櫓跡】からは奈良盆地を一望することができます。
あちこちに削平地がありますが、これは侍屋敷跡です。【松ノ門跡】高取城の廃城時に土佐小学校に移築されましたが、その後火災で一部焼失。残存部が児童公園に復元されています。【宇陀門跡】宇陀松山城から移築された門がありました。その近くには、「宇陀櫓」があったそうです。【千早門跡】楠木正成の千早赤坂城から運ばれた門がありました。その先には【大手門跡】城内最大規模の枡形虎口。【二ノ丸】藩主の館である二ノ丸御殿が建っていました。
【本丸・天守台】天守台は高さ12mで、打込みハギ、算木積みで反りは無い。本丸石垣の上に(天守台・小天守台など)三重天守、三重小天守、具足櫓、煙硝櫓などがあって、和歌山城に類似していた。天守台には穴蔵もある。夢創舘から天守台まで遺構見学しながら行くと、約1時間40分でした。下りは八幡口方面へ!天守台から八幡口までは約20分。そこから壺阪寺向けて県道119号を歩いて行きます。が、八幡口から、壺阪寺までが遠い!!(約30分)さらに!!壺阪寺から麓までがもっと遠い!(約1時間)八幡口から合計1時間30分歩きっぱなしです。という訳で、県道119号ルートはお勧めしません。城の遺構も黒門〜ルートの方が見どころ多いので…(タクシー・バスは話が別)


2020年11月28日 鼓舞式部卿勘助
高取城



やっと来ることが出来ました。標高580m超の山奥にこれでもか、と言うくらい聳え立つ石垣群は圧巻の一言です。自分以外の来訪者はほぼ紅葉が目当ての方に見えました。

2020年09月29日 百済門徒衆修理大夫とら❖
高取城

現在、七つ井戸前の駐車場は、崖崩れの為使用できませんでした。

2020年09月22日 ぽち
高取城

こんな山の上に平城みたいな入りくんだ立派な石垣。
車で行けるとこまで行って、ちょっとした山登り。

2020年07月22日 大隅守
多武峰城塞群(御破裂山城)[高取城  周辺城郭]

談山城から御破裂山へ林道を歩くとあります。

2020年07月22日 大隅守
多武峰城塞群(冬野城)[高取城  周辺城郭]



門跡から冬野へ林道を利用して歩くと良いです。約20分途中冬野の名水で水分補給して歩くと数件民家が建ち並んでます。


2020年07月22日 大隅守
談山神社西山門跡[高取城  遺構・復元物]



枡形虎口になってます。
もしかしたら談山神社は城郭寺院だったかもしれないです。

2020年07月22日 大隅守
多武峰城塞群(談山城)[高取城  周辺城郭]



談山神社の駐車場に停めて
登城口は談山神社の中にあります。
御破裂山、談山へのハイキングコースを登ると談山城があります。


2020年05月30日 しまちゃん
高取城

山道を登ると、立派な城跡を見ることができます。
これからの季節、マムシやヒルに気をつけて山城を堪能してください。

2019年10月23日 蔵人頭 毛呂モロ就
高取城

近くの壺阪寺(南法華寺)さんの納経所で御城印が入手できます。

2019年06月12日 龍馬備中守【】
高取城



本丸の枡形虎口☆石垣で前方の視界を遮り折れを造る☆標高583mに築かれる☆備中松山城・岩村城と共に日本三大山城の一つ♪

2019年06月11日 龍馬備中守【】
高取城



二の門跡石垣と水堀☆山城には珍しい水堀☆あんまり見た事無かったから興味津々♪

2019年06月11日 龍馬備中守【】
高取城



(奥)天守台☆本丸より☆天守台下の郭からは12mと圧巻☆かつては三層の天守が立っていた☆

2019年06月10日 龍馬備中守【】
高取城



前日の大雨により新緑が映える三の丸下・枡形の石垣☆総石垣で固められた城郭は見事です☆一度行って見て下さい♪絶対満足します(°▽°)♪

2019年06月09日 龍馬備中守【】
高取城



十三間多門跡☆門は厳重に築かれ枡形となる☆ニノ門より常に折れて折れて折れて…真っ直ぐには進めない☆敵の視界を遮る☆

2019年04月26日 美濃守ヒーロー
本丸、南側の堀切[高取城  遺構・復元物]



本丸より南側、吉野門口付近にある堀切^ ^は尾根を深く断ち切る。

2019年04月24日 美濃守ヒーロー
弥勒堀切[高取城  遺構・復元物]



吉野口門より南東方向の尾根へ。弥勒堀切^ ^中世と近代が混じり合う堀切跡は必見

2019年04月23日 美濃守ヒーロー
岡口門[高取城  遺構・復元物]



猿石より明日香村方面へ。横垣郭を経て岡口門の堀切^ ^中世と近代が混じり合う堀切跡は必見。ちと遠いのが難点。スポット登録しといたのでご参考に^ ^

2017年09月09日 稲葉宮内卿元康
高取城

夢創館のおば様が親切に仕事用カバンを預かってくれサクッと攻城。
本丸まで上がると見事な石垣が確認でき存在しないはずの熊さんが本丸を案内。
見晴らしは、本丸やや下った所にある国見櫓が最高です。

2017年08月08日 織田上総介晃司
高取城

壺阪寺を越えて分かれ道を左に進んでいくと高取城の案内板と簡易トイレがある坂道の少し広いスペースに他の人の邪魔にならないように停めて壺坂口門跡を目指して登りました。

歩くとすぐに石垣が現れ、テンションが上がります。
二の丸・本丸の石垣は感動ものです。労力が報われます。

蜂や蛇に注意とありましたが最大の敵は蚊!撮影のため両手が塞がったところに蚊がやって来ます。

なお、先程の道は20:00~翌5:00まで進入禁止です。夜道はかなり危険です。
それでもその時間に行きたい人は自己責任と違反キップ覚悟で…

2016年07月21日 みやび姫
高取城

下で書いて下さったルートを頼りに車で行き止まりまで走りました。工事現場のような柵がありますのですぐわかります。虻(蜂かなぁ?)が恐ろしいほど飛んでいて、とても車から降りられる状況ではありませんでした。(7/19.気温33度)これから登城の計画がある方は完全防備してって下さいね。

2016年07月10日 カーネル
高取城

近鉄壺阪山駅から
駅を背にロータリーを抜け最初の信号がある交差点は直進し、2つ目の路地には右に城まで5kmの看板があります

あとは本丸まで真っ直ぐです。夢創館で地図をゲットすればなおよしです
ようこそ!の雰囲気たっぷりの町並みを抜けると山道に。道は歩きやすく、傾斜も普通です

また道中にも石垣がちらほらあり、二の門からは石垣だらけです
平場に築かれた大きな間口と異なり、山道の斜面にある門は狭く、下から見上げると迫力があります

千早門を越えると壺阪寺からの道と合流。本丸に寄ってから、壺坂寺におりてバスで帰りました

2回目なのでさらっと見学しましたので駅から2時間で壺坂寺に着きました。初めての方は見学時間が+20~40分は必要でしょうか

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

2016年04月24日 まー刑部卿
高取城

2度目の登城。夢創舘から約100m先左手に高取町観光用駐車場が出来ていたため午前8時すぎから登城開始。今回はここから歩いて登城。黒門跡から七曲り、猿石、ニノ門跡を通り過ぎて本丸跡へ。帰りは壺坂口門を通って帰ってきました。だいたい行きに約2時間、帰りに1時間半くらい歩いたと思います。

2016年04月11日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
高取城

今回は城友さんと登城散策しました。ありがとうございました。
100名城スタンプは、夢創館でいただきました。また散策マップ、縄張り図、ハイキングマップもいただけました。有り難いです。
数ある城の中、この城は数々の戦乱や戦災をくぐり抜けた強運の城です。
三成さんの攻撃からを耐え、幕末の天誅組の吉村寅太郎の攻撃を跳ね返しました。
この城を攻略できなかった吉村さんは、この後敗走、離脱者が続出し1863年9月27日銃撃を受けて戦死。もし高取城を取れていたら•••その後の歴史は変わったものになってたかも(;^_^A
この城の防御力の高さを伺えます。
城内の石垣も立派、古木はかなり大きく屹立して城の守護神が如きです。
この日は本丸の北側に伐採した古木からチェーンソーによって作った本丸案内板を持った熊さんと天守閣が作成されてありました。

井戸跡には水もあります。籠城の際は飲料水の確保は不可欠です。ここに築城地と決めた越智氏や作事に携わった人達の労働力に敬意を(>_<)ゞ。大変美しいです!

以上、平成28年4月10日。

2015年11月05日 まるき〜出雲守
高取城

高取城への最短ルート、国道169号線うずら町交差点(ファミリーマート)を東に、案内板を頼りに進むと夢創館と言う所で100名城スタンプが押せます、ココで高取城のパンフ、縄張り図は10円で手に入ります、城へ直接行くなら国道169号線、清水谷交差点を東に約3キロ強、壺阪寺を越え細い道なりに最後の分かれ道は左へ、突き当たりまで行けます、簡易トイレが目印、これが最短ルートただ、車は2、3台しか置けないので注意!3台、4台目置けると思われますが置いてしまうとUターンできませんので、ここは気遣いが必要な箇所。
若干広い所で車を反転させて駐車する事をお勧めします。ココ以外、壺阪門手前に何台か駐車出来る。縄張りの看板が目印、坂道に停める事になるので輪止めを忘れずに…ココからだと本丸まで15分位、ルートとしてはココに車を停めて城探索して上の駐車場から降りて来るのが良いかと…最近は自転車のツーリングコースで登り下り共に自転車が多い時があります、真ん中を下ってくる自転車も居ます事故等無い様お互いが気を使って安全に道路を使用してもらいたいものです。


2015年04月12日 のぶ刑部卿
高取城

飛鳥駅前の、明日香レンタサイクルで原付をレンタルして、高取城に行きました。日本三大山城の1つだけあって、徒歩や、バス+徒歩でもキツイと思いました。最初から、車で行く予定なら問題ないです。ただし、駐車するスペースが狭いので注意が必要です。

2014年10月01日 月影
高取城

奈良市内からだと169号線の清水谷交差点を東に入るルートが迷わず簡単です。
壺阪寺迄はまあ普通の2車線の山道、そこから先は1〜1.5車線の鬱蒼とした苔なんかも生えている急な坂道。東大阪・奈良方面の方には「暗峠の様な(もっと緩やかですが)」といえばあながち外れてはいないかと。
国道から90ccのバイクで20分程で城への入り口に到着。そこから徒歩550mとありました。天守跡迄はちょっとした登山 or トレッキング。途中の一番急な所には登りやすい、きれいな木の階段がありましたが、足元は最低限スニーカーが良いと思います。途中から立派な石垣が現れだすとあとちょっとで天守跡。
僕で20分程、ゆっくり登っても小一時間もあれば着くと思います。城郭跡は不思議な景色。思い出してもまた行きたくなります。綺麗だという紅葉時期にとか。
天守跡の南西方向に登って来た道と違う道があります。急ですがそちらを下りると当時の井戸があります。でも雨の後とかだとこの道は少し危険かも知れません。
下りると道に出ますが、嬉しい飲み水(恐らく 笑)がこんこんと流れていました。道を下りると登り始めた場所に着きます。

2014年03月26日 イソ弾正大弼ナミ
高取城

飛鳥駅からレンタサイクルをかりて壷阪山駅を抜け、山をのぼる坂道で激しく後悔。せめて電動自転車にしておけば…と、そこまで1時間。
さらに高取城の途中にある壷阪寺まではひたすら苦行。そこからハイキングコースの山道にはいり、50分弱で着くらしい。

結局、高取城にはいけず
壷阪寺で悟りました。
壷阪山駅からタクシーにするべきです。
レンタサイクルは、手前の飛鳥駅にしかないので、自転車なら絶対電動にするべきです。
そして、もし山登り覚悟なら、早めに行動しましょう。

以上は私の反省です。


2013年01月23日 コロ助
高取城

雪はあまり残っていませんでしたが、倒木が多かったです。跨いだり潜ったりして通過は出来ます。アスレチック感覚です。
100名城スタンプが置いてある夢創舘の方が、親切に温かいお茶を出して下さいました

2013年01月17日 ぽえぞお弾正少弼黄金旅程
高取城

車で攻略。案内板付近及び行き止まりになる7つ井戸に駐車可能です。(案内板付近5〜6台、7つ井戸3〜4台)自分は7つ井戸に停めましたが、Uターンして来た方向に向け城側の斜面に寄せて停めました。案内板の所はぬかるみ易いのでUターンで車を入れる際には注意が必要。7つ井戸も雨の日や雨上がりすぐだと水が溢れるらしいので滑り易く濡れるので注意が必要かと。
道がメチャクチャ狭いから行き帰りは慎重に運転しましょう。

2012年09月08日 尾辺安房守直虎
高取城

遊歩道から、登ると2㌔以上修験道みたいな山道なので、体力ないとかなりきついです。
ただ、登城口から本丸にいたるまで石垣が非常に素晴らしく、すごいです!

2012年07月01日 ポリタンク大和守
高取城

時間が許せば、吉野口から芋峠に下る途中にある弥勒堀切も見学しましょう。石垣で固めた堀切なので見応えがあります。ただ、赤土郭手前の堀切付近(左側を歩く)は幅が狭いので注意です。

2011年09月14日 浅井伊頼
高取城

11月の中頃なら紅葉が綺麗ですよ、登城はしんどかった。

2011年04月08日 古楽侍従広家
高取城

戦国時代は当然のことながら、幕末においても事件の舞台となる城。散乱された瓦なんかも見ることができます。

2011年02月07日 三河守コーキしゃん
高取城

石垣が物凄いです

虎口が幾重にも折れ曲がっていて迷路のようで楽しいです



高取城の周辺スポット情報

 岡口門(遺構・復元物)

 弥勒堀切(遺構・復元物)

 赤土郭(遺構・復元物)

 赤土塁南西尾根の土橋(遺構・復元物)

 本丸、南側の堀切(遺構・復元物)

 談山神社西山門跡(遺構・復元物)

 談山神社東大門(遺構・復元物)

 植村家長屋門(遺構・復元物)

 田塩家長屋門(遺構・復元物)

 松ノ門(遺構・復元物)

 国見櫓跡(遺構・復元物)

 井戸(遺構・復元物)

 水堀(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 弥勒堀切(遺構・復元物)

 井戸(遺構・復元物)

 登り石垣(遺構・復元物)

 天守台(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 小天守台(遺構・復元物)

 本丸西多聞櫓(遺構・復元物)

 本丸南多聞櫓(遺構・復元物)

 煙硝櫓(遺構・復元物)

 鉛櫓(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 太鼓櫓(遺構・復元物)

 新櫓(遺構・復元物)

 ニノ門(移築現存)(遺構・復元物)

 武家屋敷-旧高取藩筆頭家老屋敷(遺構・復元物)

 旧高取藩下屋敷移築表門(遺構・復元物)

 武家屋敷-田塩邸(遺構・復元物)

 黒門跡(碑・説明板)

 一升坂(史跡高取城跡大手道登城案内図)(碑・説明板)

 二の門跡(碑・説明板)

 矢場門跡(碑・説明板)

 松ノ門跡(碑・説明板)

 宇陀門跡(碑・説明板)

 千早門跡(碑・説明板)

 大手門跡(碑・説明板)

 吉野口門跡(碑・説明板)

 壺阪口中門跡(碑・説明板)

 壺阪口門跡(碑・説明板)

 史跡高取城跡(碑・説明板)

 史蹟高取城址(碑・説明板)

 別所郭(史跡高取城跡大手道登城案内図)(碑・説明板)

 七曲り(史跡高取城跡大手道登城案内図)(碑・説明板)

 秋津城 説明板(碑・説明板)

 秋津城 城跡碑(碑・説明板)

 一升坂(碑・説明板)

 多武峰城塞群(談山城)(周辺城郭)

 多武峰城塞群(御破裂山城)(周辺城郭)

 多武峰城塞(念誦堀城)(周辺城郭)

 多武峰城塞群(冬野城)(周辺城郭)

 秋津城(周辺城郭)

 多武峰城塞群(平尾口・岡道地区)(周辺城郭)

 多武峰城塞群(飯盛塚遺跡)(周辺城郭)

 多武峰城塞群(下居出城)(周辺城郭)

 多武峰城塞群(冬野・細川地区/畑城)(周辺城郭)

 多武峰城塞群(経ヶ塚山城)(周辺城郭)

 宗泉寺 高取藩主植村家菩提寺(寺社・史跡)

 壷坂寺(寺社・史跡)

 西国三十三所札所 岡寺(寺社・史跡)

 岩屋不動(寺社・史跡)

 五百羅漢(寺社・史跡)

 子嶋寺(寺社・史跡)

 益田岩船(寺社・史跡)

 高松塚古墳(寺社・史跡)

 文武天皇陵(寺社・史跡)

 キトラ古墳(寺社・史跡)

 夢創館(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 便所(トイレ)

 バイオトイレ(トイレ)

 高取町観光駐車場(駐車場)

 猿石(その他)

 芋ヶ峠(その他)

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