高田城(たかだじょう)
高田城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 奈良県大和高田市旭北町
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 高田為貞
築城年
- 永享4年(1432)
主な改修者
- -
主な城主
- 高田氏
廃城年
- 天正8年(1580)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
今井環濠(奈良県橿原市)[3.6km]
越智城(奈良県高市郡)[5.6km]
十市城(奈良県橿原市)[5.7km]
箸尾城(奈良県北葛城郡)[6.0km]
櫛羅陣屋(奈良県御所市)[6.4km]
二上山城(奈良県葛城市)[6.5km]
田原本陣屋(奈良県磯城郡)[6.6km]
片岡城(奈良県北葛城郡)[8.1km]
戒重城(奈良県桜井市)[8.4km]
平石城(大阪府南河内郡)[8.6km]
高田城の口コミ情報
2023年03月07日 百済門徒衆修理大夫とら
瓦城[高田城 周辺城郭]
市教育委員会の方に話を伺うと、戦国時代の草摺りが発見されたようです。詳しくは、令和4年度の香芝市埋蔵文化財発掘調査概報に掲載されると思います。
2023年03月03日 百済門徒衆修理大夫とら
瓦城[高田城 周辺城郭]
瓦城(かわらじょう)。築城者、歴史とも不明。
2022年、北側に隣接する土山古墳の発掘調査に伴う最新のドローン測量によって、遺構の存在が明らかになった。方形単郭の城郭で、主郭西側に土塁と堀が巡る。馬見丘陵の南端で見通しがきき、南から西に葛下川が巡り天然の堀となる。この地域は万歳氏の領内にあたるので万歳氏築城の可能性が考えられる。
現在案内板等はありません。主郭は円乗寺裏手に当たり、当方に伝言にてご連絡頂ければご案内いたします。円乗寺前の児童公園に駐車場あり。
地主さんが3月頃に木の伐採をされる予定なので、かなり見易くなると思います。
2023年03月03日 百済門徒衆修理大夫とら
万歳平城[高田城 周辺城郭]
万歳平城は、二上山南にある万歳山に築かれた万歳山城に対して、現在の大和高田市市場に万歳氏によって築かれた平城です。万歳氏は、興福寺一乗院の大荘園、平田庄の万歳郷を支配する国人です。
平安後期の東大寺文書によると、「対馬守」の官位を得て葛城郡に土地を所有しており、万歳氏の系図によると、古代の武内宿禰の後裔を称し、源頼朝に仕え治部少輔友直が万歳姓を名乗り始めたという。南北朝時代は南朝方であり、越智氏等と活動を共にする。応仁の乱では西軍として越智方に属し、文明7年(1475)筒井順尊が大軍を率いて万歳平城を攻撃するが、越智氏の加勢もあり逆に城から打って出て筒井方箸尾氏に大打撃を与え、大勝利した。その後も国中(くんなか。奈良盆地平野部のこと)制圧の重要拠点として攻防の的となった。天正6(1578)年織田信長の命で破却される。
城跡は現在、春日神社の境内を含む宅地となり、地割りによってしかたどれないが、『高田市史』に載せる古図によると、約50m×75mの長方形の主郭の4周に広い堀をめぐらし、四方に出郭を設けて、その西と南は二重の堀となっていた、大手は南面に開き、城下集落に市場を設営し、それが今日の地名の市場に残った。しかし、大和高田市の発掘調査報告書は、春日神社の東方、高田西中学校の後方にある名倉北池を万歳城址であったと報告している。 名倉北池と春日神社の間、住宅裏に一段高い竹藪があり、堀跡らしき水路もある。
周辺は道の狭い住宅地で駐車スペースはほぼ無い。近くにATMのみのJAバンクがある。
2023年01月01日 ファン掃部助トム治郎
高田城
朝イチの散歩で伺いました。和歌山線の線路と常光池の間にあった平城のようです。近鉄大和高田駅、高田市駅、JR高田駅とさして遠くないので間違いブラにはよいかもしれません。
2021年08月11日 大蔵卿理恵之介
高田城
片塩小学校奥の小さな公園?の片隅に、ひっそりと碑が立ってます。徒歩で向かった方がいいです。
2021年02月10日 百済門徒衆修理大夫とら
有井環濠[高田城 周辺城郭]
現在ある正行寺は、當麻氏居館跡である。
文明年間に當麻四郎為綱が浄土真宗の蓮如上人に帰依して寺を建立した。周囲には、北と西に壕が残る。
2015年10月14日 まるき〜陸中守
高田城
マイナーなお城跡故、足を向ける方も少ないと思いますが…
片塩小学校と常光寺の間にある小さな公園のスペースが高田城跡となっています
特に遺構は見当たりませんが案内板と立派な城址碑がありました。
常光寺の説明書きによると、元々お寺は高田城内に含まれていたそうです。
場所は狭い道の奥になっており駐車スペースも無いので近くの市営パーキングやタイムズ等に車を入れて歩き(5〜10分程度)での攻略となるかと思います。
ルートによっては、途中踏切の無い線路を渡る場所もありますので十分にお気をつけて攻略して下さいませ
( ´ ▽ ` )ノ
2012年12月07日 邦順大和守大八郎宗久
高田城
常光寺(当麻(とうま)氏の菩提寺で、会所としても機能)の東側の池辺りが城跡で、大手口は西、搦手は東とされる。堀池(廃城後、時代と共に拡張)と二重の堀に囲まれた平城で、布施氏との戦では、五重の木戸を四重まで落とされるも撃退したという。現在は土塁などの遺構は見当たらず、せいぜい池と寺院、城址碑程度。
有井城(現在は正行寺)の当麻(在地名は高田)氏が六代将軍・足利義教の命で高田城主となった事は明確な歴史とされる。
高田(当麻)氏は平田庄八庄官(東西二里、南北二里余りの大庄園。庄官が多く、必ず8人ではない模様)の一人で、筒井氏に付いていたが後に松永氏に付いた。天正8年に指出検地の不備か、松永氏に加担した事への報復か、誅伐されたという(他に岡・戒重・大仏供らも誅伐された)。
城下は城跡北側のJR高田駅辺り(古市場という地名や、当麻氏が建てた天神社が存在)や、城跡北西の不動院(当麻氏が建立)と馬冷池、城跡西の八幡神社(興福寺末寺の伊福寺跡)から本郷町辺りまでと見られる。
周辺散策のついでに寄るのが良いだろう。JR高田駅か近鉄高田市駅から徒歩で廻る事を勧める。