今井環濠(いまいかんごう)
今井環濠の基本情報
通称・別名
- 今井寺内
所在地
- 奈良県橿原市今井町
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 環濠集落
天守構造
- なし
築城主
- 今井兵部豊寿
築城年
- 天文年間(1532〜1555)
主な改修者
- -
主な城主
- 今井氏
廃城年
- -
遺構
- 横堀(水堀)、土居
指定文化財
- 国重要伝統的建造物群保存地区(橿原市今井町伝統的建造物群保存地区)
再建造物
- -
周辺の城
-
十市城(奈良県橿原市)[3.4km]
高田城(奈良県大和高田市)[3.6km]
越智城(奈良県高市郡)[4.8km]
戒重城(奈良県桜井市)[4.9km]
田原本陣屋(奈良県磯城郡)[5.7km]
芝村陣屋(奈良県桜井市)[6.3km]
箸尾城(奈良県北葛城郡)[7.3km]
柳本城(奈良県天理市)[8.0km]
櫛羅陣屋(奈良県御所市)[8.6km]
高取城(奈良県高市郡)[9.4km]
今井環濠の解説文
今井環濠の口コミ情報
2022年02月19日 【城郭道】尾張守たっきー
朝堂院南門(藤原宮)[今井環濠 寺社・史跡]
朝堂院(ちょうどういん)南門跡。朝堂院と朝集殿の間に置かれていた門です。視覚的に示すために赤い列柱が設けられました。方角によっては持統天皇の句にも登場する香具山がよく見えます。他の方角で見ると香具山とは別に耳成山も共に見えます。いつかの機会で行ってみて〜。
2021年08月08日 【城郭道】尾張守たっきー
藤原宮跡[今井環濠 寺社・史跡]
奈良盆地南にある橿原市と高市郡明日香村の一部にかけて存在するのが、藤原京である。畝傍山、香具山、耳成山の大和三山に囲まれた美しい場所である。
694年、持統天皇が飛鳥浄御原宮から遷都。しかし、710年に平城京に遷都されてしまった。
その翌年には、焼失。これは偶然なのか…。
1968年、歴史的風土特別保存地区に指定され、1995年には、橿原市教育委員会により、発掘調査が開始された。
ちなみに、藤原宮は『日本書紀』にも記載されていた呼称であり、藤原京は明治時代に歴史学者・喜多貞吉氏が命名した学術用語で、『藤原宮の周囲に造られた京』という意味がある。
2021年06月05日 【城郭道】尾張守たっきー
橿原神宮[今井環濠 寺社・史跡]
御祭神、第一次天皇、神武天皇(古くは、神日本磐余彦火火出見天皇/かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)と第一次皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命皇后(ひめたたらいすずひめこうごう)である。神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。本殿 は1855年(安政2年)建立の京都御所賢所(内侍所)を創建に際して移建したもので重要文化財である。
尚、この国は今年(2021年)で建国2681年である。
駐車場から本殿までは約5分ほどで、とても雰囲気の良い場所です。人生で一回は行っておいた方が良いです。
日本人であることが誇りに思える場所の一つだと思います。
2020年11月16日 育弘
今井環濠
1559年(永禄2年)になると畿内を支配していた三好長慶の家臣松永久秀が大和に入国し、国衆との乱闘が繰り広げられた。ここで本願寺を背景とした今井郷はそれら角逐に乗じて、有利に発展し、興福寺からの弾圧も免れることになり、漸く永禄年間に顕如上人により寺号を得て、河瀬兵部丞(後改め今井兵部房)と河合清長(後改め今西正冬)が門徒や在郷武士・牢人を結集させ今井道場を中心とする寺内町をつくった。
明智光秀今井郷宛書状が残っており「端書無之 當在所事、去年任被仰出旨、土居構崩之、國次准土民由、尤神妙候、其段弥於無相違者、重而違乱族不可有之候、陣取等堅可令停止、宗及別而断之条、自今以後不可有疎意候」和議の条件には防衛設備の破却と、郷民の土民化(武装放棄)もあったことがうかがえる。今井は武装都市としての性格を否定された。天下布武印入りの織田信長今井郷宛赦免状が文化財に指定されているが、今井には寛大な措置を下し織田氏支配下の都市になるのではなく、大坂同様に自治を許され、江戸時代には今井札(銀札)を発行するまで栄えることになる。今井西環濠から眺める重要文化財今西家は今井の天守閣である。
2019年06月10日 石工集団穴太衆【兒】
今井環濠
町内に入ると随所に見通しのきかない筋違いの道路があり、恐らくは敵の侵入に備えての事、戦国時代の要塞都市の構造がそのまま残ってます
2019年05月10日 百済門徒衆修理大夫とら
華甍(はないらか)[今井環濠 関連施設]
今井町見学はまづここから!駐車場トイレあり、無料見学。
必見は、複製ながら、称念寺所蔵の明智光秀書状、信長朱印状の展示。
海の堺、陸の今井と言われ、大和の金は今井に七分あると評された戦国屈指の寺内町。織田軍団明智勢に焼討ちされる寸前、茶人津田宗久が奔走し、明智光秀に直々の嘆願によって回避され、貴重な室町戦国の町並みが現在に残った。
また今井町町並みの模型も展示している。
2016年05月16日 邦順大和守大八郎宗久
今井環濠
紙半豊田記念館、規模は小さいですが豊田家が収集した美術品や使っていた品が良好な状態で展示されていました。
濠跡や町並み以外でも、今井町の栄華を感じる良いスポットですよ。
2012年11月12日 邦順大和守大八郎宗久
今井環濠
1386年時点では、今井庄という興福寺一乗院の庄園である。
興福寺の影響力低下が出始めたのか、天文年間に一向宗門徒が道場を設けるも、幾度か近辺に勢力を持つ越智氏(一乗院方)に破却されるが、今井兵部(代々称念寺住職が名を継いだという)や集結した牢人・在郷武士などが称念寺を中心に寺内町を造った。
1574(天正2)年に織田勢の明智・筒井達に攻められるが、翌年に赦免されて以降は大和随一の経済の町として栄えた(赦免の際に高櫓などの防備を破却させられた)。
現在は名残として入り組んだ道と町並み、再現(往時より狭く浅いが)された濠がある。
城塞都市、経済の中心の他、大坂~吉野を往復する本願寺一門の宿泊地でもある(吉野町の飯貝に、本善寺という蓮如上人と御同行が建立した寺院と上人の墓所(御分骨が眠る)がある)。
近鉄八木西口かJR畝傍から徒歩での訪問を勧める。
2012年09月09日 ヤマト紀伊守タケル
今井環濠
近鉄橿原線の八木西口駅から徒歩三分位で着きます。案内板有り。
環壕の名残らしき溝が町の周りに見受けられました。
また、五月には大名行列やフリマなど出店する六斉市が有るそうです。
しかし、天正3年(1575)織田信長の軍門に降り、環濠、土居が埋めたとされているが、17世紀初期頃旧状に基づき復旧されたものが江戸時代を通じて維持され、町の入口は9口の門を備えていた。
17世紀末頃の古絵図によると、東側の土居は、率川の西側土居を含め二重、西南隅の春日神社附近では2~3重に描かれている。
土居幅は3間が普通で、掘った土を構築し、竹や雑木が繁り、いざ戦いとなると竹を伐り竹槍などに使用したらしい。
濠幅も平均3間が普通であるが、西南部の外濠は4.5間、西北部の集水場所は7.5間と記している。これより水は、北に流れ田原本町附近で飛鳥川と合流し、大和川へと注ぐ、なお、古絵図では、西口門より乾口門にかけて、内側の土居は描かれていない。それは、すぐ西側に天領支配の際、代官所「御役屋舗」が設けられた関係で、東側の土居を移したとも考察される。
また、元禄12年(1699)には、春日神社境内の拡張を示す享保年間の「町方留書」には、「東西三拾間、南北二拾間五尺、但シ東ニ而四間三尺、五間三尺、入込之有」とあり、現状の広さとほぼ一致するが、これは内濠の一部及び、内側の土居を埋め立て、春日神社本殿を再建したものとみられるが、春日神社西側の内濠中央部分に積まれている石垣上部は、後補の積替があるが、下部は比較的大きな自然石が用いられ、その積方工法は17世紀を降らないとみられているので、観音堂(慶長18年)建設の際、境内を拡張したものとも推察されるが、今後の調査を待つこととする。
環濠は、防御的な役割りと同時に、水害の際の遊水池的な機能をもち、また地区内の雨水、家庭内の排水を集める役割りも兼ね備えており、江戸時代を通じて濠・土居についてもきびしい學書もあり守られてきた。