二上山城(にじょうざんじょう)
二上山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 奈良県葛城市染野、加守
旧国名
- 大和国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 楠木正成?
築城年
- 室町時代以降
主な改修者
- 木沢長政
主な城主
- 畠山氏、赤沢氏、木沢氏
廃城年
- 不明
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
平石城(大阪府南河内郡)[3.8km]
七郷山城(奈良県香芝市)[4.8km]
白木陣屋(大阪府南河内郡)[5.8km]
片岡城(奈良県北葛城郡)[6.3km]
高田城(奈良県大和高田市)[6.5km]
高屋城(大阪府羽曳野市)[6.7km]
櫛羅陣屋(奈良県御所市)[7.6km]
箸尾城(奈良県北葛城郡)[8.1km]
下赤坂城(大阪府南河内郡)[9.2km]
上赤坂城(大阪府南河内郡)[9.7km]
二上山城の解説文
[引用元:Wikipedia「二上山城」の項目]
二上山城(にじょうざんじょう)は、奈良県葛城市加守、染野及び大阪府南河内郡太子町大字山田周辺にあった日本の城(山城)。
沿革
この城は大和国と河内国の国境にある二上山山上に築城された。二上山に城郭を築いたのが楠木正成で、楠木氏河内国七城の一つであると思われているが確証がない。室町時代初期、河内国守護畠山氏が高屋城の支城として二上山城を設けたとも思われている。
明応8年(1499年)に大和国へ入国した赤沢朝経が二上山城に入城して畠山尚順をはじめとする筒井氏、十市氏に従う国人衆を制圧した。しかし永正4年(1507年)6月23日永正の錯乱で細川政元が暗殺(永正の錯乱)されると、赤沢軍は総崩れになってしまった。同年6月25日に赤沢軍に属していた和田源四郎という人物が二上山城に逃れてきたが、『多聞院日記』によると桜井周辺で大和国の国人衆に遭遇し敗死してしまった。
同年8月に政元の養子の1人・澄元が政権を取ると朝経の養子・長経が大和国に侵攻、これに対して大和国の国人衆は同年11月13日に二上山城を含む各地で「一国一揆」をおこすが敗退してしまう。
その後天文10年(1541年)8月に木沢長政が改修した。今日に見られる二上山城の城郭は木沢長政時代に築城したと思われる。しかし、その木沢長政も翌天文11年(1542年)3月17日に太平寺の戦いで討ち死にすると信貴山城と二上山城は陥落してしまったと思われている。しかし『日本城郭大系』では「確証はない」としながらも、松永久秀が信貴山城の城主の時に岡氏が当地区を支配し松永久秀軍に属していたこともあって、木沢長政時代同様、信貴山城と二上山城の両城に布陣した可能性を示唆している。
城郭
二上山は雄岳と雌岳の両峰からなりなっており、二上山城は北の雄岳の山上にある。山頂は東西170mの西高東低の二段からなる長大な曲輪で、二の丸と呼ばれている場所に大津皇子の墓がある(但し、大津皇子の墓ではないとする説もある)。陵墓は後世に整備させたようであるが、二上山城時代にはこの周辺に櫓台か土塁があったと思われている。陵墓は石垣が補修され公園化されているので、城の面影は少ないが登り道の斜面には三段の帯曲輪が東西に走っている。本丸と呼ばれる曲輪の東側には葛木坐二上神社の拝殿がある。本丸から更に西側に向うと、帯曲輪、空堀、土塁と続き六段の曲輪がある。この部分は公園化されていないので、曲輪の形が現在でも確認できる。二上山の雌岳側にも腰曲輪の城郭があったと言われているが、全体の崩れがあり城郭部分が明確に判断出来にくい状態になっている。
二上山城の山続きの北1kmには岡氏の居城であった岡城、南に900mには万歳山城があり二上山城は両城を抑えることが可能な位置にある。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 近畿日本鉄道 南大阪線 二上神社口駅 → 徒歩 → 葛木倭文座天羽雷命神社
- 車でのアクセス
- 西名阪自動車道 柏原インターチェンジ → 国道165号 → 葛木倭文座天羽雷命神社
- 南阪奈道路 太子インターチェンジ → 香芝太子線 → 国道165号 → 葛木倭文座天羽雷命神社(近隣に駐車場無し)
- 徒歩でのアクセス
- 葛木倭文座天羽雷命神社 → 徒歩(行き約2時間、帰り約1時間) → 雄岳の山上
参考文献
- 『日本城郭大系』第10巻、三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、391-392頁。
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二上山城の口コミ情報
2023年06月17日 百済門徒衆修理大夫とら
岡氏居館[二上山城 周辺城郭]
発掘調査により岡氏の居館跡とされましたが、現地は住宅開発地で案内板も無く、痕跡も見当たりませんでした。
2023年06月15日 百済門徒衆修理大夫とら
千股池の石碑[二上山城 碑・説明板]
大和郡山藩主の松平忠明が池を築造したことを伝える石碑。
漢文を訳すと以下のとおり。
103年以前、寛永5年(1628)に松平下総守様の御代、新たに池築造なされ、享保15年(1730)の角倉与一様(角倉玄懐)の代になって堤を築き直すことをお認めくださいました。
松平忠明は、長篠の戦いによる大功で、徳川家康長女亀姫を貰い受けた奥平信昌の4男であり、家康の孫です。家康の養子となり、松平性を賜ります。
大坂の陣の戦功で大坂藩主となり、大坂城下町を復興させ、のち大和郡山藩主となり大和の治水事業を進めた賢君です。
角倉与一玄懐(すみのくらよいちはるかね)は、角倉了以(りょうい)から6代目の子孫にあたり、大和の天領の管理を行いました。
2023年05月07日 隼大学頭太郎
二上山城
二上山のハイキングで取れました。木立の中、階段がたくさんあって、風が吹かず、汗だくになりました。
2023年03月03日 百済門徒衆修理大夫とら
鈴山城[二上山城 周辺城郭]
『奈良中世城郭事典』によれば、この城は万歳氏の領する地域にあたるが、岡氏の勢力圏にも接することから、両氏のせめぎ合う地域であったと考えられると記している。
2022年12月13日 百済門徒衆修理大夫とら
瓦城[二上山城 周辺城郭]
瓦城(かわらじょう)。築城者、歴史とも不明。
2022年、北側に隣接する土山古墳の発掘調査に伴う最新のドローン測量によって、遺構の存在が明らかになった。方形単郭の城郭で、主郭西側に土塁と堀が巡る。
馬見丘陵の南端で見通しがきき、南から西に葛下川が巡り天然の堀となる。
この地域は万歳氏の領内にあたるので万歳氏築城の可能性が考えられる。
現在案内板等はありません。主郭は円乗寺裏手に当たり、当方に伝言にてご連絡頂ければご案内いたします。
円乗寺前の児童公園に駐車場あり。
地主さんが3月頃に木の伐採をされる予定なので、かなり見易くなると思います。
2021年04月23日 課長大和守Ver.B
鈴山城[二上山城 周辺城郭]
鈴山城は築城者、来歴共に不明で南北朝期に出来た城と見られています。
城域の南側は遊歩道建設の際失われた様ですが北側部分は良好な遺構が残っており空堀と土塁、井戸跡等が見られます。
なお遊歩道建設に伴う発掘調査では南側にも堀跡が検出されたとのことで、方形居館形態の縄張りと推定されているようです。
城は近鉄五位堂駅前とニュータウン開発から取り残された丘陵端部にあり、よく今まで残ってきたなという印象…(^^;
立地も駅近で周辺にコインパーキングも多数ありますので訪城には大変便利な城跡です☆
2021年03月31日 山城守せいちゃん
二上山城
大阪側から登山し、雌岳から雄岳へと踏破!
道中、急坂もあり、しんどかったけど雌岳山頂で仲間と桜を見ながらお弁当食べて見晴らしもよくリア攻め完了後は達成感で一杯でした〜♪
往復2時間でリア攻めできますよ!
2019年04月24日 ばあや
公衆トイレ[二上山城 トイレ]
トイレのお水が出るようになってました🎵
2018年05月22日 カーネル
二上山城
近鉄南大阪線の二上神社口駅から
駅改札口に、二上山ハイキングコースの分かりやすい案内があります
改札をでたら右(西)へ。すぐに二上山の全容が見えてきます
高いなぁ。と思いながら西へ進み、麓の葛木倭文座天羽雷鳴神社に到着したら、お参り
拝殿の右に行ってしまい道が分からず迷いましたが、拝殿の左側の舗装路を進むと登山口になります
傾斜はそれほどきつくなく、ゆっくり登っても駅から50分程で御岳着
山頂は東西に長い曲輪・・・。たぶん曲輪です
反対の西側に降りると、一段低い曲輪があり、途中に石垣にみえなくもない岩が斜面に埋まってました
ここで引き返して二上神社口駅に戻り2時間弱でした
2015年11月13日 邦順大和守大八郎宗久
二上山城
何度か登っていますが、今回は葛城市歴史博物館で入手した縄張り図を手に、城跡西側を探検。
草木が繁りがちですが、曲輪の連なり・段差(切岸)は確認できます。
主郭西側の傾斜は周辺より緩めで、削ると隣接する曲輪が広くなり、削らないと登られるので城跡唯一の空堀が造られたのかと思います。
南北に延びる横堀ですが北側は隣の曲輪に繋がり、南は延ばしきらずに崖を維持。堀切より、通路と土塁の印象を持ちました。大きな堀ではないですが、目的を想像する楽しさがあると思います。