下赤坂城(しもあかさかじょう)
下赤坂城の基本情報
通称・別名
- 赤阪城、楠木館
所在地
- 大阪府南河内郡千早赤阪村下赤坂
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 楠木正成
築城年
- 元弘年間(1331〜1334)
主な改修者
- -
主な城主
- 楠木氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- 国史跡(赤阪城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
上赤坂城(大阪府南河内郡)[1.6km]
龍泉寺城(大阪府富田林市)[2.4km]
白木陣屋(大阪府南河内郡)[3.5km]
烏帽子形城(大阪府河内長野市)[5.3km]
平石城(大阪府南河内郡)[5.4km]
千早城(大阪府南河内郡)[5.8km]
狭山陣屋(大阪府大阪狭山市)[8.0km]
仁王山城(大阪府河内長野市)[8.2km]
櫛羅陣屋(奈良県御所市)[8.3km]
二上山城(奈良県葛城市)[9.2km]
下赤坂城の解説文
[引用元:Wikipedia「下赤坂城」の項目]
下赤坂城(しもあかさかじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村森屋にあった日本の城。国の史跡に指定されている。
概要と沿革
鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。標高185.7メートル、比高61.4メートル。遺構はほとんど残っていない。現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったとされる。千早赤阪中学校の裏手に石碑が残り、日本の棚田百選にも選ばれた美しい棚田の風景が広がる。
昭和9年(1934年)3月13日、「赤阪城跡」として国の史跡に指定された。楠木七城の一つ。
歴史
元弘の乱の主要な舞台となった。元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、楠木正成もこれに呼応して当地で挙兵。熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城、正成は金剛山に潜伏した。翌元弘2年(1332年)になると、正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けた。この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、全国的に倒幕の気運が高まったとされる。
南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年(正平15年、1360年)に落城した。周辺の金剛山の尾根上には上赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。一連の戦いの模様は『太平記』に記述されている。
参考文献
- 『日本史広辞典』山川出版社、1997年
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下赤坂城の口コミ情報
2024年09月19日 ワンダー縫殿允
下赤坂城
道が狭いので、徒歩での進軍がオススメです。
2024年05月26日 バックロール但馬守
下赤坂城
棚田も見れるので一石二鳥。車では難しいので注意。
2024年05月09日 はるお
下赤坂城
かなり狭い道でした。車では厳しいですが、バイクでは大丈夫です。
2023年10月20日 RED副将軍
下赤坂城
楠木正成が築いた赤坂城の前衛の出城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1331年に楠木正成により築城。
楠木正成は、鎌倉幕府の討幕を目指す後醍醐天王の呼びかけに応じて挙兵し築いた拠点のひとつ。
下赤坂城は前衛の出城として機能し、元弘の乱の主要な舞台のひとつとならました。周囲の上赤坂城は本城、千早城は詰城の関係であり楠木七城のひとつに数えられます。
同年の下赤坂城の戦いは、10月17日に始まり、10月21日に落城し、楠木正成は城に火を放って金剛山の詰め城である千早城に逃げたとされます。幕府軍の勝利ではありますが楠木正成とその一族を取り逃がしたため失敗ともされます。
翌年に楠木正成は夜襲により下赤坂城を奪回しました。
この戦いで勢い付いた楠木正成は瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となりました。
見所
農地改良により遺構はほぼ消失。千早赤阪中学校裏手の石碑のみです。
周囲は棚田百選にも選ばれている美しい下赤坂の棚田の風景が広がります。
2023年08月20日 中務少輔わた
下赤坂城
残暑の美しい空に城跡から見える棚田は美しいもの
2023年06月29日 尼崎城駿河守一口城主
下赤坂城
6月18日登城。当日は下赤坂城・上赤坂城・千早城の3城を巡るために河内長野駅前でレンタサイクルを借りて出陣🚲河内長野から起伏に富んだ道を進み、下赤坂城近くの千早赤阪村消防分署前の<『太平記』の村にようこそ>の看板前(写真①)に辿り着きました。私は最初、誤って看板前の府道705号を進んで行き過ぎてしまい💦地元の方に教えてもらいUターンして看板前に戻りました。下赤坂城へは看板の裏(写真②左側の道)から徒歩約10分(0.8km)とあり、車の方は看板の所の駐車場をご利用下さいとありました🅿️(写真③)
道なりに進むと<史蹟赤坂城阯>の石碑(写真④)と説明板(写真⑤)がありました。付近は日本の棚田百選の<下赤坂の棚田>(写真⑥)となっており、棚田や紫陽花のホッコリする風景が広がっていました。(写真⑦)
帰路、棚田と最初に間違った道を眺めながら来た道を戻りました😅繰り返しますが下赤坂城に登城される方は、写真⑧ほぼ中央奥の消防署(白い建物)の裏の道(棚田側の細い道)を進むと城址に辿り着けます‼️私みたいに間違わないよう気を付けて下さい⚠️下城後は上赤坂城を目指しました。
2023年04月30日 右大将蔵人頭
下赤坂城
近鉄富田林駅から金剛バス千早線で20分ほど。消防分署前か歩いて10~15分ほどのところに石碑があります。バスはおおむね一時間に一本でした。遺構はありませんが、バス停から歩く間に山城らしい地形が見られたようでした。棚田も見られ、今はまだ水が入っていませんでしたが、水が入り、田植えが終わると、きれいだろうなと思います。
2022年05月06日 タカシ飛騨守
下赤坂城
中学校の敷地が通行不可になっているので、バスで行く場合、千早赤阪中学校前ではなく、消防分署前の停留所が最寄りになります。
2022年05月01日 多雨式部少輔古墳
千早赤阪村立郷土資料館[下赤坂城 関連施設]
楠木正成や下赤坂城や上赤坂城についてタッチパネルやジオラマで詳しく展示されています。下赤坂城の御城印もここで買うことができます。
2022年05月01日 多雨式部少輔古墳
楠木正成生誕の地[下赤坂城 遺構・復元物]
道の駅「ちはやあかさか」の隣。石碑と看板があります。近くには楠木正成の産湯の井戸もあります!
2022年04月09日 特にありません
下赤坂城
う〜ん。資料にはこの辺にあったとの事らしい。ほとんど中学校の敷地の様な気もする。棚田は見れますので、行く価値はあります。駐車場は消防署の横です。上赤坂も攻めるなら先にこちらをクリアした方が良いです。
2021年05月05日 図書助半兵衛
下赤坂城
碑は、千早赤阪中学校の真裏の農道脇に有ります。農道は狭く、農作業で使用されていますので、車での進入は控えた方がよろしいかと思います。(すれ違い不可)
2021年03月28日 天道式部卿早雲
観光者用駐車場[下赤坂城 駐車場]
富田林消防署千早赤阪分署横に観光者用駐車場5台分あります。バイク・ロードバイク用のスペースもありました。
徒歩10分で城跡石碑と100選の棚田に着きます。
2019年01月19日 イオ左衛門佐
下赤坂城
下赤坂城(と下赤阪の棚田)への車の乗り入れは禁止になったようです(中学校の通り抜けも不可)。車は先人の口コミにある消防署横の駐車場にどうぞ。詳しくは千早赤阪村のホームページをご参照下さい。
ただ、道路沿いには、中学校方面に導く下赤坂城の案内標識が残っていますので、ご注意を。
2018年06月05日 天道式部卿早雲
下赤坂城
富田林消防署千早赤阪分署横に観光者用駐車場5台分あります。そこから徒歩10分で城跡石碑と100選の棚田に着きます。
石碑のそばにも駐車できますが、道が細いのと棚田農家の人達が利用するので、車では消防署横か千早赤阪郷土資料館に駐車することをおすすめします。
2016年05月29日 ねこ式部丞すずめ
下赤坂城
此処、日本の棚田100選に認定されている下赤坂の棚田が史跡から見れます。
2015年03月14日 羽渡関白唯子
下赤坂城
中学校を通り抜けた所にあるので、入場フリーとはいえ非常に訪問しづらい
2014年11月10日 征夷大将軍ひとりもん
下赤坂城
石碑の立つ場所に棚田を見渡せる駐車スペースがありました。
下赤坂城の周辺スポット情報
楠木正成生誕の地(遺構・復元物)
本丸石碑(碑・説明板)
赤土山城(周辺城郭)
土居城(周辺城郭)
橘公産湯の井戸(寺社・史跡)
千早赤阪村立郷土資料館(御城印)
観光者用駐車場(駐車場)
千早赤阪村立郷土資料館(関連施設)