狭山陣屋(さやまじんや)
狭山陣屋の基本情報
通称・別名
- 狭山藩陣屋
所在地
- 大阪府大阪狭山市狭山3
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 北条氏信
築城年
- 元和2年(1616)
主な改修者
- -
主な城主
- 北条氏
廃城年
- -
遺構
- 移築門
指定文化財
- 市史跡
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
陶器城(大阪府堺市)[2.9km]
小谷城(大阪府堺市)[5.4km]
丹南陣屋(大阪府松原市)[5.7km]
龍泉寺城(大阪府富田林市)[5.9km]
高屋城(大阪府羽曳野市)[6.8km]
東村砦(大阪府堺市)[7.0km]
烏帽子形城(大阪府河内長野市)[7.2km]
白木陣屋(大阪府南河内郡)[7.7km]
下赤坂城(大阪府南河内郡)[8.0km]
一津屋城(大阪府松原市)[8.2km]
狭山陣屋の解説文
[引用元:Wikipedia「狭山陣屋」の項目]
狭山陣屋(さやまじんや)は、河内国丹南郡[1]池尻村および半田村(現在の大阪府大阪狭山市狭山3・4丁目および同2丁目)にあった陣屋で、狭山藩の藩庁である。
概要
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐により、後北条氏5代当主北条氏直が高野山にて蟄居を命ぜられ、これに氏直の叔父にあたる北条氏規も従った。翌年赦された氏直は秀吉から1万石を与えられたが、程なくして死去し、後北条氏の本家筋は絶えた。
立藩前夜、氏直から家督を相続した氏規は河内国に7千石を拝領し、大坂屋敷で政務を執っていた。慶長5年(1600年)に氏規が没すると、氏規の嗣子である北条氏盛は、遺領7千石と下野国に拝領していた自身の4千石を併せて1万1千石の外様大名となり、狭山藩が立藩され、初代狭山藩主となった。
陣屋は広大な狭山池の北東に上屋敷、東畔に下屋敷が築かれた。元和2年(1616年)、2代氏信の代に陣屋を池尻村に設置し、3代氏宗の代に本丸にあたる上屋敷が完成した。5代氏朝の代には東除川対岸の半田村に下屋敷が完成した。以後12代氏恭の代まで続き、明治維新を迎える。
御殿は天明2年(1782年)に焼失し、天明6年(1786年)に再建された。
遺構
上屋敷跡は藩主御殿跡に狭山藩陣屋跡碑と説明案内板がある以外は特に何も残されていないが、道路や区画は比較的によく残っている。上屋敷の西縁にあった上池・中池・下池のうち上池と中池は埋め立てられ、大阪狭山市立東小学校・大阪狭山市立東幼稚園の敷地として利用されており、小学校の一部は屋敷跡地にもまたがっている。また、上屋敷を南北に縦断する大手筋(大町筋とも)は大阪府道198号河内長野美原線の一部区間として利用されており、大手筋の北表門は大阪府堺市堺区神明町東2丁にある浄土真宗本願寺派堺別院に移築され、同寺院の御成門として現存する。
下屋敷跡はさやま遊園(旧・狭山遊園地)として平成12年(2000年)まで利用されていた。閉園後も一部がさやか公園として利用されている。市の埋蔵文化財包蔵地として周知されている。
周辺建造物ほか
- 武家屋敷長屋門
- 狭山池 - 日本最古のため池とされる[2]。
アクセス
南海高野線 大阪狭山市駅下車。徒歩にて約10分程。
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狭山陣屋の口コミ情報
2026年04月14日 romikun
平尾城[狭山陣屋 周辺城郭]
顕彰碑から約300m程北に城はあったとされる。
さつき野公園内には、土塁のあとと古窯跡が残る、土塁跡ははっきりと痕跡が残る貴重な遺物である。
平尾古窯址群(平尾城土塁跡)
もと長山とよばれ、羽曳野丘陵から平尾小川に向けてつきでた地形であり、この地点から、約300m南にあった平尾城の防禦(ぼうぎょ)施設と伝えられていたため、昭和54年に、美原さつき野地区の開発に際し、事前調査が行われた。
調査の結果、旧地形を成形し、幅約25m、高さ約4.5mの段状に、粘土を積み上げ、3段に構築した土塁と呼ばれる施設が設けられ、土塁の頂部には土塀が築かれていた事が判明し、伝承を裏付けた。さらに、その下層から6世紀後半から7世紀前半にかけての、須恵器(すえき)の窯跡16基が確認された。
美原町
2026年04月14日 romikun
河内池尻城[狭山陣屋 周辺城郭]
池尻城は、大阪狭山市池尻中付近に所在し、狭山池北西の中位段丘の縁辺に築かれた平城である。『大阪狭山市埋蔵文化財分布図』1)では南北約500m・東西約300mの範囲を包蔵地「池尻城跡」として記載している。昭和60年に実施された大阪府教育委員会の発掘調査2)では、13世紀末〜14世紀まで機能していた第1期の居館と、14世紀中頃から15世紀前半に使用された第2期の城郭遺構が確認された。築城当初は周囲に空堀をめぐらせた一辺65mの方形単郭を成し、第2期にこれを拡張する形で北側と東側に独立した郭を設けた縄張りへ発展した3)。池尻城の主たる防御設備は、幅3m〜5m・深さ1m前後を測る空堀と、段丘崖の落差を利用したものであるが、北方には高さ約1m・幅約4mの土塁跡が検出されており、第2期では、堀と土塁を組み合わせた防御ラインを構築していたようである。14世紀中頃には、要害拠点としての価値がより高まった池尻城の姿が想像される。第2期池尻城構築に際して埋め戻された空堀から、太刀装具の冑金が出土している。冑金の表裏両面は彫りの深い唐草文で飾られ、その中に三目結紋が片面5箇所に配されている。三目結紋は近江源氏の佐々木氏の家紋として著名である。『和田助氏軍忠状』4)には、貞和3年・正平2年(1347年)の「河内池尻合戦」に引き続いて同年に「藤井寺合戦」があったと記されており、この合戦で佐々木氏泰が討死したことが『太平記』に記されるなど、佐々木氏が河内諸地域の合戦に北朝方として参戦していることが知られている。池尻城が南北朝いずれの拠点として機能していた城郭であるかは定かでないが、池尻城は狭山池の要をなす北堤に近接し、かつ中高野街道を押さえることができる交通の要所に築かれた城郭であり、戦略上の重要地であったことは疑いない。
ところで、本市域には池尻城のほかに、中世城郭「半田城」の存在が推定されている。その城域に関しては、考古学的知見も少ないためにいまだ説が定まらないが、おそらくは狭山神社遺跡の宮山に遺る土塁状遺構で区画された平坦部を本郭としてその北方に郭を連ね、池尻城と同じく中位段丘崖の落差を防御ラインとして利用した城郭であった可能性が高い。本市域の中世史を明らかにするためにも、半田城の実態および池尻城との関連性を解明していくことが望まれる。
大阪狭山市内遺跡群 発掘調査概要報告書19転記"
2026年04月13日 romikun
半田城[狭山陣屋 周辺城郭]
半田城 半田城跡は、狭山神社に北接し、その広さは、東西二町、南北三町とされ中位段丘崖の落差を防御地形として利用する中世城郭である。この城は、南北朝時代には北朝方の拠った砦で、建武4 年・延元 2年(1337年)河内国高木遠盛や佐備正忠が南朝方として手兵が半田城を攻めています。また、明応年間(1492~1501)には埴田右近が半田城を居城したとも 伝えられるが、詳細は不明である。 『日本城郭大系』第12巻より
2026年03月08日 romikun
平尾城[狭山陣屋 周辺城郭]
住宅地の外れに碑と簡単な掲示板があります。
2022年08月15日 陸奥守新九郎
狭山陣屋
戦国大名小田原北条氏の流れを汲む河内狭山藩の陣屋。
遺構の残りは良くないですが、絵図に合わせて周辺を散策すると、楽しめます♩
ここから移築された門が、堺市の本願寺にありますので、合わせてお訪ねください。
2022年04月18日 尼崎城紀伊守一口城主
狭山陣屋
4月17日、白木陣屋下城後に当地に向かいました。10㎞以上ある道程なのでまずは最寄駅の南海高野線の大阪狭山駅を目指した。大阪狭山駅で踏切が開くの待っていると南海電車🚃に遭遇(当たり前か🤭)
狭山駅前に周辺の観光マップがあり参考にしながら目的地を目指します。駅から西に向かい狭山半田郵便局🏣をの交差点を目指し、交差点を渡り右折(北進)。東小学校を通り過ぎて行くと狭山陣屋の説明板にたどり着きます。説明板からやや離れた右手(北側)に石碑があります。
レンタサイクルの返却時間が迫ってきたため近くの陶器城に向かいたい気持ちを泣く泣く抑えてナビの羽曳野経由で上ノ太子駅までダッシュで向かいました😭
帰る道中、大鳥池が風景を反射させて綺麗だったため撮影。
2019年04月24日 国士無精河内守
石碑と説明板[狭山陣屋 碑・説明板]
石碑と説明板。付近に駐車スペースはありません。
2016年05月27日 ねこ左近将監すずめ
狭山陣屋
城郭基本情報のmap をあてにして行くと、ちょっと違う場所に行くことになります。スマホのナビで狭山陣屋と入力して、確認して行った方がいいと思います。場所自体は行けば一目で分かります。
2012年06月17日 てっちゃん掃部頭50
狭山陣屋
近くに有る「大阪府立 狭山池博物館」(無料)に小さいですが狭山藩関係の展示スペースが有ります。
丸瓦の一部や食器 甲冑や刀 系図等展示されています。









