高屋城(たかやじょう)
高屋城の基本情報
通称・別名
- 城山、畠山城
所在地
- 大阪府羽曳野市古市5〜7
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 連郭式平山城(古墳利用)
天守構造
- -
築城主
- 畠山義就
築城年
- 文明11年(1479)
主な改修者
- 三好康長他
主な城主
- 畠山氏、安見宗房、三好氏
廃城年
- 天正3年(1575)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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高屋城の解説文
[引用元:Wikipedia「高屋城」の項目]高屋城(たかやじょう)は、大阪府羽曳野市古市にかつてあった城。三管領の畠山氏の本拠地である。本丸は天皇陵に治定されている古墳(高屋築山古墳)があり、立ち入りが禁止されている。二の丸、三の丸は住宅地となっている。
【概要】
応永年間に畠山基国が管領になり、安閑天皇陵を流用して築かせたもの。守護代の遊佐氏が城代を務めていた。応仁の乱以後は守護職の畠山氏の居城となるが、畠山氏・安見氏・三好氏の三勢力の争奪戦が繰り広げられ、城主が頻繁に入れ替わった。天正3年(1575年)に織田信長の猛攻を受け落城。その後廃城となる。城の規模は南北に800m、東西に450mあり、土塁と堀で仕切られている。
〜住宅地と発掘調査〜
昭和30年(1955年)頃よりこの地域は新興住宅地となり、一方で宅地化や道路の敷設に伴う発掘調査が頻繁に実施されており、小規模な物を含めると100ヵ所をこえて、地上面の遺構は少ないものの高屋城の全貌が明確になりつつある。
【沿革】
この城の文献上の初見は応永年間(1394年 - 1428年)に畠山基国が築いたとされていることから、一部では南北朝時代の城として紹介されている。しかしこの時期の文献には高屋城との記載は見受けられず、古市城や誉田城との名称の混乱があり、羽曳野市教育委員会では出土遺物の検討から、応仁の乱後文明11年(1479年)ごろの築城が推定できるとしている。この場合、築城主は畠山義就とされる。
高屋城の城主は河内の守護を兼ねていた人物が多く、10名前後、30回以上入れ替わっており、平安の時は少なく交替が頻繁におこる。特に畠山義英、畠山尚順、畠山稙長の畠山氏の家督騒動の50年間は、それぞれで4、5回城主が交替しており、交代後畠山義英は誉田城、交野城へ、畠山尚順、稙長父子は広城(和歌山県広川町)、大和に退避していた。
永禄元年(1558年)に安見宗房が守護代となっていたが、三好長慶が永禄2年(1559年)に高屋城を落城させ、畠山高政を高屋城を城主に、河内国守護代に三好方の湯川直光にすえた。しかし、長慶に救援してもらったにもかかわらず畠山高政は湯川直光を免職、安見宗房を守護職に復権させた。これに憤慨した長慶は翌永禄3年(1560年)に高屋城を落城させ、河内の支配を手中にし、弟の三好義賢を高屋城に据えた。
しかし、またしても翌永禄4年(1561年)に高政が高屋城を奪回、翌永禄5年(1562年)に高政が教興寺の戦いで敗れると長慶の甥の三好義継が城主となった。三好三人衆と仲違いした義継は高屋城を離れ、永禄10年(1567年)に義継と松永久秀が東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆に勝利、翌永禄11年(1568年)に隙をつき三好康長が入城したが、同年9月28日に芥川山城が織田信長によって落城すると、康長は阿波に落ち延びていった。
畠山高政は信長と和を結び4度目の城主となり、家督は弟の畠山昭高に譲り河内半国守護となる。しかし、元亀3年(1572年)に遊佐信教の下克上にあい、昭高は自害した。これに激怒した信長は大軍をもって高屋城を攻城し、信教を追い出し昭高の嫁となっていた妹の救出に成功した。半年後の同年秋、三好康長が高屋城を修繕したが、2年後の天正3年(1575年)4月8日、再び織田軍によって攻城し落城した。
以後、城としては利用されなかったようで、この時に廃城になったと思われる。
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高屋城の口コミ情報
課長大和守ver.Bさん[2013年06月14日]
城跡碑(石碑)はニノ丸跡とされる神社内にありますが、なかなか撮影難度が高いです(笑)