丹南陣屋(たんなんじんや)
丹南陣屋の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大阪府松原市丹南町
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 高木正次
築城年
- 元和9年(1623)
主な改修者
- -
主な城主
- 高木氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
一津屋城(大阪府松原市)[3.0km]
小山城(大阪府藤井寺市)[4.3km]
東村砦(大阪府堺市)[5.1km]
高屋城(大阪府羽曳野市)[5.2km]
宇利和利城(大阪府大阪市)[5.5km]
陶器城(大阪府堺市)[5.5km]
狭山陣屋(大阪府大阪狭山市)[5.7km]
我孫子城(大阪府大阪市)[6.1km]
新堀城(大阪府大阪市)[6.1km]
寺岡砦(大阪府大阪市)[7.2km]
丹南陣屋の解説文
[引用元:Wikipedia「丹南陣屋」の項目]
丹南陣屋(たんなんじんや)は、大阪府松原市丹南3丁目、かつての河内国丹南郡丹南村にあった譜代大名高木家が治めた丹南藩の藩庁である。江戸時代後期には「丹南役所」とも呼ばれた。
歴史と概要
河内国丹南郡丹南村に藩の陣屋を置いた高木家は三河国の発祥で、初代藩主高木正次は関東および近江国に9,000石を領する旗本であったが、元和9年(1623年)大坂城番となる。この時、1,000石の加増を受け計10,000石となるが、公収替地となり相模国海老名を離れ、河内国丹南郡23か村内に10,000石を領有し、大名となる。そして、丹南村を陣屋を構えて丹南藩を立藩する[1]。
6代正陳の時に江戸定府となり、それ以降の藩政は全て江戸藩邸(上屋敷・中屋敷・下屋敷)で行われる。
12代正坦の時に明治維新を迎え、明治元年には陣屋内(来迎寺の東側)に藩校「丹南学校」が設置される。1869年(明治2年)6月の版籍奉還により、正担が知藩事となり陣屋は藩の庁舎となる。
1871年(明治4年)、13代正善の時、廃藩となり藩領は丹南県となる。そして、同年11月22日に廃県となり堺県へと編入される[2][3]。
陣屋の跡地は、1921年(大正10年)には民有地の田畑となっており、すでに痕跡は残っていなかったようである[4]。現在は、工場、店舗、民家となっている。
1999年(平成11年)の発掘調査により、丹南陣屋および丹南学校の遺構の一部が確認されている[5]。
陣屋の西隣にある来迎寺(融通念佛宗)は高木家の菩提寺であり、墓所に初代正次と11代正明の五輪塔が現存し、山門前には14代正得が1937年(昭和12年)に記した「旧丹南藩主高木主水正陣屋址」の石碑が残る[6][7][8]。
なお、陣屋の御殿の客殿の一部が、来迎寺の奥座敷として明治維新後に移築現存されていたが、取り壊されてしまい、現存しない。
位置と規模
丹南陣屋の正確な位置や建物の詳細を知る手がかりは極めて少なく、1873年(明治6年)3月の「丹南村地籍図」が唯一のものである。この地籍図には1筆ごとに地番が記されており、地目ごとに色分けされている。丹南陣屋は「邸内地」と記されているのみで区画内の詳細な様子は描かれていない[9]。また、陣屋南西の西除川右岸に丹南県操練場が存在したことがわかる。陣屋内の建物配置については、1880年(明治13年)1月の「丹南村地籍図」、敷地内に残る「陣屋」[10]「学校敷」[11]「学校内」[12]の小字名[13]、そして発掘調査成果より陣屋の西側に役所機能があり藩校「丹南学校」が併設されたと推測できる。
上田一は地籍図と住民への聞き取りより陣屋復元案を作成しており[14]、これによると東西最長235メートル強、南北190メートル強の約5900坪余りとなる。また、丹南村北端を東西にのびる道の北側に陣屋正門が南向きに建ち、道を挟んだ南に御用地が存在した。
江戸定府であったため陣屋には代官以下わずかな家臣のみが常駐したようであるが、幕末から版籍奉還の頃までに藩主以下江戸詰の家臣が引き揚げてきた。そのため、急速に建物の増築と整備が進められたと伝わる。陣屋東側に家臣の住居が集まり、庄屋宅北裏には下士の家屋が立ち並んだそうである。また、来迎寺の間にも家臣長屋が存在し、更には丹南村に分宿した者もいたと伝わる。これら建物の痕跡は1880年(明治13年)の地籍図で一部を確認することができる。
1874年(明治7年)に作成された丹南村の壱村限調帳には士族の家が80戸、人口324人(男157人、女167人)と記載があることから[15]、陣屋及びその周辺に居住した家臣とその家族は最大でもこの規模と考えられる。
参考文献
- 井上正雄(1922年)『大阪府全志 巻ノ4』大阪府全志発行所、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965801)
- 上田一(1985年)『城と陣屋シリーズ167 :河内丹南陣屋 丹南藩について』日本古城友の会、JP番号:86011022(https://ndlsearch.ndl.go.jp/openurl?cs=api_openurl&f-ndl_jpno=86011022)
- (公財)元興寺文化財研究所 編(2020年)『松原市文化財報告5:松原市内所在の文化財総合調査1-丹南・来迎寺-』松原市教育委員会、JP番号:23392931(https://ndlsearch.ndl.go.jp/openurl?cs=api_openurl&f-ndl_jpno=)
- 西田敬之(2015年)『平成27年度特別展:江戸のはじめの松原の… 』まつばら市民ふるさとぴあプラザ
- 長谷川弥栄(1921年)「丹南陣屋趾」『河南の枝折』大阪府南河内郡役所、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964284)、JP番号:43031937(https://ndlsearch.ndl.go.jp/openurl?cs=api_openurl&f-ndl_jpno=43031937)
- 福島雅蔵(1989年)「丹南藩」『藩史大事典 第5巻:近畿編』雄山閣出版、
- 松原市史編さん委員会(1975年)『松原市史資料集 第4号:松原における小字名と小字図』松原市、JP番号:80090038(https://ndlsearch.ndl.go.jp/openurl?cs=api_openurl&f-ndl_jpno=)
- 松原市史編さん委員会(1977年)『松原市史資料集 第8号:壱村限調帳』松原市、JP番号:77007525(https://ndlsearch.ndl.go.jp/openurl?cs=api_openurl&f-ndl_jpno=77007525)
- 松原市史編さん委員会(1985年)『松原市史 第1巻(本文編1)』松原市、JP番号:86028007(https://ndlsearch.ndl.go.jp/openurl?cs=api_openurl&f-ndl_jpno=86028007)
- 【書籍】「たじひのだより」
- 三上参次 編(1923年)『寛政重脩諸家譜 第2輯』國民圖書、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082719/380)、JP番号:21329092(https://ndlsearch.ndl.go.jp/openurl?cs=api_openurl&f-ndl_jpno=21329092)
- 大阪府教育委員会(2008年)『南河内における中世城館の調査』大阪府教育委員会事務局文化財保護課、JP番号:21512960
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丹南陣屋の口コミ情報
2026年04月14日 romikun
島城[丹南陣屋 周辺城郭]
旧丹南郡向野村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。
東除川の東岸、西稱寺付近にあったと考えられる。
同地は旧竹内街道を望む舌状台地上にあり、川に向かって南西方向に伸びる台地の先端部にあることから、川と街道を監視する役目があったものと推測される。
滋賀県の城 https://masakishibata.wordpress.com/ 転載
2026年04月14日 romikun
立部環濠[丹南陣屋 周辺城郭]
旧丹北郡立部村にあった環濠集落。
成立時期は不明。
立部村は中世に鋳物生産の一拠点として栄え、江戸時代初期に幕府領となった。
1705年より武蔵国川越藩領となり、藩主・秋元氏の支配を受けることになる。
1843年に記された『河州丹北郡立部村明細帳』によると、当時の立部村の家屋数は73軒、人口は334人であったとされる。
1845年に秋元氏が館林藩に転封となった後も立部村の領地は引き継がれ、秋元氏の支配の元で明治維新を迎えた。
現在の松原市立部1丁目付近に展開されていた環濠集落。
環濠の東辺が水路として残り、西辺と北辺は道路になっている。
その規模は東西が160mほどと考えられ、南辺を松原立部住宅北側の道路と仮定した場合には南北の規模は約300mとなる。
滋賀県の城 https://masakishibata.wordpress.com/ 転載"
2026年04月14日 romikun
河原城[丹南陣屋 周辺城郭]
河原城跡(かわらじょうあと)
羽曳野市河原城の集落の西にあり、東除川(ひがしよけがわ)に沿った小高い丘陵上に築かれた出城で、元弘の乱(1331年)の時、楠木正成に従っていた武将河原弘成(かわらひろなり)(有力名主)の拠点でした。丹比小学校の南側一帯には「城山」「城ノ前」など城跡を示す小字名(こあざめい)が連続して残っています。
河原氏は、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の河内国諸藩に「河原連(かわらのむらじ)は広階連(ひろなみのむらじ)・野々上連(ののうえのむらじ)と同祖で、陳思王植(ちんしおうしょく)の子孫である。」と記される渡来系氏族で、6世紀から7世紀にかけて羽曳野市内に渡来した文化人の子孫でした。
2026年04月14日 romikun
松原城[丹南陣屋 周辺城郭]
松原城の位置は分かりませんが、一名、剰彼城ともよばれていますので、中高野街道沿いの岡の北部にあたる出岡の地名と結びつきます。現在の岡2丁目あたりにあったかもしれません。
建武5年(1338)、南朝側の和田正興や橋本正義らは、丹下氏の勢力拡大を恐れ、松原城を攻撃して陥落させました。この時、和田正興軍の高木遠盛は、丹下八郎太郎の子である能登房を討ち取っています。この高木氏は、布忍の高木(現、松原市北新町)出身の土豪武士と考えられています。
松原城は構築まもなく落城しましたが、丹下城はその後、戦国期まで存在していたようです。現在、両城ともその縄張りなどは分かりませんが、南北両軍の攻防の歴史が市域にも及んでいたことを伝えています。
松原市HP引用転載"
2026年04月14日 romikun
余部城[丹南陣屋 周辺城郭]
余部城跡 "「余部城」は府道美原泉大津線建設に先立って1987年に実施した発掘調査で見つかった南北朝(14世紀)頃の城郭跡です。この時の調査では、幅7.5m、深さ1.5m、東西の長さ約75mの堀が確認されました。 古文書は残っていませんが、この場所に「城ノ山」、「城ノ西」、「城ノ前」など、城郭があったことを伺わせる字名が残っていますので、「余部城」と呼ばれている。
阪和自動車道の建設に伴う発掘調査で、東西約70m、南北約100mの規模が確認され、出土遺物から、13世紀の中頃から15世紀まで、建物が残っていたと推定されています。"
2026年04月14日 romikun
城岸寺城[丹南陣屋 周辺城郭]
城岸寺城跡 "別名大饗城(おあい)ともいう。大饗の地名は称徳天皇の頃、(約千二百四十年前)丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えられる。城岸寺城は南北朝の頃、楠公の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築いたとされており、現在この濠は昭和五十六年に埋め立てられ、城岸寺公園、児童館が設置された。
和田氏は楠左衛門尉成康の次男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に居城を構え和田氏を名乗った。(現在の岸和田城)その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。正平七年和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されている。その後、元享年間に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、念仏勧進の際、病気平癒のため、当城岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めている。「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称せられた宅磨派、宅磨法眼良賀の作といわれている。昭和五十六年に現在の本堂が建立された時、発掘調査が行われ南北朝の頃と推測される建物跡が発見された。尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際に基礎石として、使用されていたものである。無量山 城岸寺 『城岸寺城跡案内板』より
2026年04月14日 romikun
徳泉寺城[丹南陣屋 周辺城郭]
徳泉寺城 "徳泉寺(とくせんじ)は、真言宗金剛峯寺の末寺で、「大阪府全志」によれば、大日如来を本尊とし、空海が開祖と記載されています。
また、松永久秀が伽藍(がらん)を破壊し、城を築いたと書かれています。その後、松永久秀敗退後再興され、昭和十四年(一九三九)に火災により焼失し、その全容は不明です。周辺の小字名(こあざめい)から推察すると、中世には、城郭が築かれていたと思われます。
徳泉寺が建てられる以前は、丹比寺(たんぴじ)という奈良時代に建立された寺院があったようですが、創建時の瓦の出土はあるものの、規模等は不明です。現在、徳泉寺跡に残る基壇(きだん)状の遺構は、丹比廃寺跡として大阪府の史跡として保存されています。最近の調査で、奈良時代の遺構ではなく、中世のものの可能性が高くなり、徳泉寺城との関わりが指摘されています。
美原かるた解説より転載
2026年04月14日 romikun
丹南城[丹南陣屋 周辺城郭]
黒姫山古墳は、昭和22年に未発掘ながらも発掘調査が実施されています。報告書によると、後円部頂の埋葬施設はすでに盗掘されており、形象埴輪(家・盾・短甲・蓋・動物など)の確認と須恵器片などの出土にとどまりました。前方部の調査では、竪穴式石室がみつかり、中から2.4メートルの短甲と当のセットと鉄製の刀・剣・斧・鉄鏃などが出土しました。この石室は遺体の埋葬はなく、副葬品を埋納した施設と考えられています。
外部施設としては、墳丘斜面に葺石を施し、墳頂部外縁とテラスに円筒埴輪と朝顔形埴輪をめぐらせています。また、平成2(1990)年の発掘調査では墳丘のテラス面から周濠にかけての部分に中世の段階でかなり大規模に盛土がなされていたことが確認されており、城郭もしくは、堤のようなものに利用されていた可能性があります。"現地掲示板より
2026年04月13日 romikun
大保砦[丹南陣屋 周辺城郭]
大保塁 "平安時代の終わりから室町時代にかけて、大保(だいほ)には多くの鋳物師が集まり住んでいたそうです。鎌倉時代に東大寺の大仏修理にも参加するほか、全国各地のお寺の鐘にも製作者である河内鋳物師の名前が刻まれています。そのうち、河内国(かわちのくに)を離れて地方に住むようになり、各地で鋳物の技術を伝えた。
楠木氏の部将が拠ったとされる砦があったとされる。
鍋宮大明神旧跡には[大保千軒之碑、日本御鋳物師発祥地碑]などの顕彰碑が立てられこの辺りが大保千軒があったと示唆されている。
2026年03月22日 コムギ中務少輔
丹南陣屋
曲がる所が見落としづらいので気を付けて下さい。
2026年03月21日 romikun
丹南陣屋
"丹南藩の藩庁。 1623年、高木正次による設置。 高木正次は徳川十六神将のひとりに数えられた高木清秀の三男。 関ヶ原の戦い後に7千石を与えられ、大坂の陣後に2千石の加増を受けて相模国・武蔵国・上総国・下総国・近江国に9千石を領する旗本となる。 1623年に大坂定番になると1千石を加増され、河内国丹南郡のうち22村1万石を領する大名に列した。 丹南郡丹南村に陣屋を構えて丹南藩が成立し、明治維新に至るまで13代に渡って同地を統治。 藩領は廃藩置県によって丹南県となった後、堺県を経て大阪府に編入された。 高木氏の菩提寺である来迎寺の東隣にあったとされ、現在は商業施設となっている。 来迎寺の寺門の前に陣屋跡を示す碑と案内板が建つ。 陣屋の遺構として御殿の一部が来迎寺の奥座敷として移築されていたが、現在は取り壊されて現存しない。 滋賀県の城 https://masakishibata.wordpress.com/ 転載"
2023年12月09日 池田紀伊守信輝
松原市民ふるさとぴあプラザ[丹南陣屋 御城印]
丹南藩立藩400年記念
通常版300枚・特別版200枚
指定された文化財、サイトを閲覧して写真を見せれば頂ける御城印。
限定配布
2023年01月17日 摂政やつた
丹南陣屋
立派なお寺の東側に陣屋があったそうです。
2022年07月13日 尼崎城紀伊守一口城主
丹南陣屋
6月17日、一津屋城下城後に登城。Gマップを確認しながら進軍していくと来迎寺に辿り着きました。山門付近に<来迎寺と高木氏・丹南藩陣屋>の説明板と陣屋址の石碑がありました。下城後に陶器城を目指しました🚲
2021年04月24日 藤岡治部丞但馬
丹南陣屋
幹線道路沿いなので見つけやすいと思います。来迎寺というお寺です。以前はこの敷地に藩屋敷があったらしいです。
2021年04月22日 百済門徒衆左衛門尉とら
丹南陣屋
来迎寺の正面山門は南側にあります。そこに駐車場と丹南陣屋説明板、石碑があります。
2020年05月23日 首藤但馬守通宗
河原城[丹南陣屋 周辺城郭]
丹比小学生南にあったと伝わるが畑が広がるのみ。
2020年05月23日 首藤但馬守通宗
徳泉寺城[丹南陣屋 周辺城郭]
美原体育館西にあったらしいが畑が広がるのみ。
2016年06月29日 ねこ左近将監すずめ
丹南陣屋
駅から離れているので、車がお薦めです。隣のメガドンキに停めました。ちゃんと買い物もしましたよ(^^;









