一津屋城(ひとつやじょう)

一津屋城の基本情報

通称・別名

所在地

大阪府松原市一津屋5-8-9(厳島神社)

旧国名

河内国

分類・構造

平城(古墳利用)

天守構造

築城主

三好氏?

築城年

戦国時代

主な改修者

主な城主

三好氏

廃城年

天正3年(1575)?

遺構

曲輪、堀(周壕)

指定文化財

再建造物

周辺の城

小山城(大阪府藤井寺市)[1.6km]
丹南陣屋(大阪府松原市)[3.0km]
宇利和利城(大阪府大阪市)[3.5km]
高屋城(大阪府羽曳野市)[4.6km]
古河藩陣屋(大阪府大阪市)[5.6km]
久宝寺城(大阪府八尾市)[5.7km]
新堀城(大阪府大阪市)[5.8km]
正覚寺城(大阪府大阪市)[6.0km]
八尾城(大阪府八尾市)[6.1km]
恩智城(大阪府八尾市)[6.1km]

一津屋城の口コミ情報

2026年04月14日 romikun
若林環濠[一津屋城  周辺城郭]



若林陣屋
三好長慶と若林
三好長慶(1522〜1564年)は、阿波(徳島県)に生まれ、畿内(近畿地方)を中心に活躍した。時の室町将軍足利義輝を近江(滋賀県)に追放し、細川家の家臣という立場であった長慶は、三好氏を足利将軍家を擁せず、京都を支配するまでに押し上げた。当時、日本の中枢であった畿内を抑え、堺(大阪府)の重要性を認めてその掌握に努めた。長慶は、織田信長に先立ち、最初の「天下人」ともいえる人物といえる。

京都を中心とする畿内十一カ国の広い範囲を治め、中でも長慶の居城であった飯盛城(大東市・四條畷市)や芥川山城(高槻市)など、ゆかりの地が大阪府下に多く存在する。長慶が畿内を支配しようとし、河内でも激しい戦いがくりひろげられた。河内を支配していた河内守護で、高屋城主(羽曳野市古市)の畠山氏を討つため、天文十六年(1547)、今の松原市若林に陣所を置き、永禄三年(1560)には進軍したといわれている。ここ若林一丁目に鎮座する若林神社が微高地の最高所にあたる。当時は、今と比べられないほど広大な地が森で囲まれていたと思われる。同地が小字「若林」であるうえ、鎮守の森が陣取場になりやすいことから、神社付近が戦略拠点にふさわしい場所だったと推測される。

令和四年六月
松原市
松原市観光協会
現地掲示板

2026年04月14日 romikun
大堀城[一津屋城  周辺城郭]



大堀城
旧丹北郡大堀村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

大阪府立平野高等学校の東側、大堀八幡神社付近にあったと考えられる。
同地は大堀遺跡と呼ばれる集落遺跡内にあり、「大堀城」「大堀塁」と称される中世の城砦があったとの伝承が残る。
発掘調査によって古墳時代の竪穴住居跡や飛鳥時代の溝跡、奈良時代の掘立柱建物跡などが発見されたものの、城館の遺構は見つかっていない。
滋賀県の城 https://masakishibata.wordpress.com/ 転載"
八幡神社の生い立ち
〇大堀は、古代には「スス村」と呼ばれ、南北朝時代には大堀左馬の大堀砦が築かれていたので、村名を大堀と名付けたと伝えられている。
しかし、宝永元年(一七〇四年)新大和川の付け替えにより地形が変わり、大和川には剣先船(けんさきぶね)と呼ばれる荷物を運ぶ舟が通航され、水路による交通網の玄関口となってきた。もともと、大堀の八幡神社は大和川と落堀川が流れる大堀四丁目の字中島にあった。氏地は大堀一円で、村落の住民の安全と水路などを守る為に祀られた。祭神は「品陀別命(ほんだわけのみこと)」(応神天皇)を祀っている。
〇神社は、南北朝期の建武の戦乱のあと、延武四年(一三三七年)に小川の深居神社から分祀されたものである。石燈籠は宝永七年(一七一〇年)十一月吉日・大堀武道と記してあり、手洗石は寛文九年(一六六九年)の刻銘がある。
明治五年(一八七二年)に村社となり、明治二十一年(一八八八年)にこれまでの産土(うぶすな)神社より八幡神社に改名された。
〇社殿は覆屋内(おおいやない)にあり一間社流造(いっけんしゃながれづくり)・側面一間・浜縁付であり、千鳥・軒唐破風付(のきからはふつき)の柿葺(こけらぶき)であった。軒唐破風付に雲文彫刻をはめこみ、菖蒲桁が太く、身舎正面柱装置がなく、内陣は両開板扉一組。妻の棟木持送りに象鼻。組物に従って身舎の木鼻前後で異なっていた。元禄十五年(一七〇二年)の棟札があったといわれている。
〇しかし、旧社地が集落の北端で松原ジャンクションの関連事業によって、道路で分断されたことから、平成二十年、大阪府の神社敷地買い上げにより、移転用地の選択に入った。そこへ松原市の大堀給食センター跡地が町内の中心地であり、新鎮座地として最良の位置と決定し、移転が実現したものである。
平成二十六年四月より、株式会社金剛組の施工により、社殿の覆殿・幣殿・拝殿を総檜の木造入母屋造唐破風付にて建設し、平成二十七年三月七日に盛大な遷座祭が開催されたのである。

平成二十七年三月吉日
責任役員 松村 武著
(松原市文化財保護審議会の西田孝司氏著の諸本の一部を、著者の承諾を得て引用させていただきました。)
現地掲示版

■大堀集落の歩み
昭和五十七年、大堀地区の中央環状線の発掘調査によって、一万数千年前の旧石器時代の石核・剥片や、古墳時代(六世紀後半)の竪穴住居跡が見つかった。
さらに、奈良時代から平安時代はじめ頃の掘立柱建物、柵、井戸跡も検出され、集落があったことがわかった。同時に、奈良時代頃の軒瓦、平瓦、丸瓦も見つかり、大堀廃寺とでも呼ぶべき寺院があったことも推測された。
明治七年(一八七四年)の「老村限取調帳」によれば、当時の大堀村は戸数九十三戸、人口三九八人と記されている。明治二十二年、丹北郡大堀村は同郡の別所、一津屋、若林、小川の各村と合併して、丹北郡恵我村となる(のちに丹北郡は中河内郡となった)。この時の大堀の人口は四七六人であった。
のちに昭和三十年(一九五五年)、松原市が誕生するまで、大堀は恵我村の中心地として村役場、小学校、巡査駐在所、農協などの公共施設が置かれていたのである。また、恵我地域は戦前までは小作農家が圧倒的に多く、地主小作制下の農村の姿を如実に示していたため、村面積の大半は見渡す限りの水田地帯と灌漑用のため池が多く見られた。
その後、中央環状線・阪神高速道・西名阪道・近畿道・阪和道が通り、松原ジャンクションが出来たことにより集落が分断され、環状線沿い五十一戸内の住居は移転を余儀なくされた。
このため、四十数軒は上の池埋立地へ集団移転したものである。
平成二十七年三月七日には八幡神社の移転が完了し、移転問題もほぼ終了した。
(松原市文化財保護審議会の西田孝司氏著の「松原市域の大きな変化」(「松原市史」第二巻)の一部を、著者の承諾を得て引用させていただきました。)"
現地掲示板

2026年04月14日 romikun
別所城[一津屋城  周辺城郭]



別所城
"高屋城の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、畠山高政が高屋城主であった1552~1559年の築城と思われる。

時期は不明だが高屋城主・畠山高政が入城し、後に畠山勘解由が守備。
1575年に織田信長が河内国内の諸城に対して破却を命じた(河内国城郭破却令)際、別所城も廃城になったものと思われる。
畠山勘解由はその後も同地に留まるも1614年の大坂の陣で堺に逃れ、一族の別所小四郎が居城したと伝わる。

松原市別所7丁目から9丁目に所在する集落遺跡(別所遺跡)内にあり、現在は水田となっている。
発掘調査によって奈良時代の大型の掘立柱建物跡と井戸跡が発見されるも、城館の遺構は見つかっていない。
滋賀県の城 https://masakishibata.wordpress.com/ 転載"

2026年04月14日 romikun
一津屋本城[一津屋城  周辺城郭]



一津屋城
南北朝時代における南朝方の城砦のひとつ。
詳しい時期は不明だが、和田氏による築城。
和田氏は楠木氏の庶流とされ、南北朝時代に南朝方の有力氏族として活躍した一族。
河内国内に領地を持つ人物として「和田孫三郎正綱」の名が挙げられ、丹北郡富田荘を本拠とした。
和田氏は丹下城を本拠とする北朝方・丹下氏と度々争い、1338年には丹下氏の松原城を落城させている。
一津屋城は本城と出城で構成され、本城は松原市立松原第七中学校付近にあったと考えられる。
滋賀県の城 https://masakishibata.wordpress.com/ 転載"

2025年05月16日 百済門徒衆左衛門尉とら
吉村家住宅[一津屋城  寺社・史跡]



国重要文化財。民家では旧国宝で第1号に指定された。
長屋門、主屋が茅葺き屋根。大坂夏の陣で焼失し、その後の再建という。
秋元家館林藩の飛地であり、奥座敷は藩主迎える為に、一段格上の作りとなり、回遊式の庭園が残っている。
毎年春と秋に公開されている。ボランティアガイドさんが丁寧に説明して下さり、江戸時代の大庄屋の構えがどんなものであったが知ることが出来る。http://yoshimuratei.org/

2022年07月13日 尼崎城伊勢守一口城主
一津屋城



6月17日、小山城下城後に登城。Gマップを確認しながら進軍していくと厳島神社に辿り着きました。<厳島神社縁起>に一津屋城のことが記されていました。厳嶋神社にお参りして狛犬を撮って下城。長尾街道経由で丹南陣屋に向かいました。

2021年11月04日 萌魏副将軍叡声
一津屋城

近鉄恵我ノ荘駅から商店街抜けて真っ直ぐ北へ。厳島神社境内が城跡。古市百舌鳥世界遺産の中という土地柄、小高い丘は、明らかに古墳。でも、当時は、宮内庁も文部科学省もなかった。

2021年05月30日 源豊後守ポンコ2…
一津屋城



近鉄南大阪線恵我ノ荘駅改札を出て北側を直進し、左側にビーバープレイス一津屋が見えたら、右折して進むと主郭跡とされる厳嶋神社に着きます。駅徒歩10分でした。駐車場はなかったです。

古墳を再利用の名残が、北側の周濠(水堀)でわかります。水堀の周りは、住宅が建ち並んでるので、近づける場所は、神社拝殿を下るか対面の月極駐車場からになります。
拝殿周囲の林には横堀らしきものもありますが、遺構かどうか定かではありません。地域周辺に高屋城等の類似例がありますが、古墳を再利用すると、普請の負担も少し楽で周濠も備えた手っ取り早い城地かと思わされました。郭や外周散策含め、20分あれば十分かと思います。

また、恵我ノ荘駅改札南側から丹下城址とされる、全国第5位の規模をほこる6世紀前半に築造されたとされる大塚山古墳(埋葬者不明)も、駅徒歩5分弱で行けます。古墳内へは立ち入れませんが、周囲散策のついでによいかと思います。

2021年04月24日 藤岡治部丞但馬
一津屋城



迷路のような民家の中にある古墳跡にある神社です。この城は本城ではなく支城らしいです。本城はリア攻めマップに載っています。なぜ支城が登録されているかはわかりません。

2020年09月22日 真田
大堀城[一津屋城  周辺城郭]



マップ上の凸の場所は松原インターチェンジの暗渠と暗渠の合間ど真ん中でした。

2020年09月22日 真田
若林環濠[一津屋城  周辺城郭]



若林神社です。裏に一級河川が流れています。

2020年05月24日 首藤但馬守通宗
一津屋本城[一津屋城  周辺城郭]

一津屋城跡の厳島神社に立つ説明板によると、厳島神社付近に立っていた城は出城で、こちらの松原七中にあった城が本城だった。
今は中学校の周りに畑が広がるのみ。

2016年05月18日 ねこ左近将監すずめ
一津屋城

例によって、駐車場はありません。ナビも入口まで連れて行ってはくれません。地図を良く確認してから行くことをオススメします。

一津屋城の周辺スポット情報

 丹下城(周辺城郭)

 一津屋本城(周辺城郭)

 大堀城(周辺城郭)

 若林環濠(周辺城郭)

 別所城(周辺城郭)

 長尾家墓所(寺社・史跡)

 河内大塚山古墳(寺社・史跡)

 吉村家住宅(寺社・史跡)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore