久宝寺城(きゅうほうじじょう)

久宝寺城の基本情報

通称・別名

(久宝寺寺内町)

所在地

大阪府八尾市久宝寺6-6

旧国名

河内国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

畠山家国

築城年

不明

主な改修者

主な城主

渋川(畠山)氏、安井氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

八尾城(大阪府八尾市)[1.2km]
正覚寺城(大阪府大阪市)[2.6km]
古河藩陣屋(大阪府大阪市)[3.0km]
若江城(大阪府東大阪市)[3.2km]
宇利和利城(大阪府大阪市)[3.4km]
恩智城(大阪府八尾市)[5.0km]
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小山城(大阪府藤井寺市)[5.4km]
一津屋城(大阪府松原市)[5.7km]
新堀城(大阪府大阪市)[6.4km]

久宝寺城の解説文

久宝寺寺内町 

顕証寺を中心として発展した寺内町。平野から八尾を抜けて信貴山や奈良方面へ至る街道の中継地点にあたり、かつては在郷町としてにぎわった。

寺内町の興りは、戦国時代に蓮如が西証寺を創建したことに始まる。それ以前はこの地の土豪で畠山氏を祖とする安井氏が屋敷地に環濠を巡らせて支配していた。文明2年(1470年)に蓮如がこの地で本格的に布教活動を始めたが、当初は慈願寺を拠点としていた。文明11年(1479年)に「西証寺」を創建した。安井氏も創建に協力し、環濠を二重にして防御を厳重にするなど、寺内町の様相となり、戦国時代における一向宗の拠点のひとつとなった。

戦国時代から江戸時代にかけて多くの門徒衆や商人が集まり、地域の中心として賑わった。

かつて周囲に張り巡らされた環濠や土居は現在も一部に名残りをとどめている。碁盤目状の町割りはほぼ当時の状態をとどめており、域内の道は一方通行が多かったり入り組んだりしており、土地鑑がないと迷いやすい。主要道路は東西に7本、南北に6本で構成され、東西の道路は北から大手町通り、米屋町通り、馬追町通り、表町通り、中之町通り、慈願寺通りと呼ばれた。このうち表町通りがかつての八尾街道の道筋にあたる。「久宝寺寺内町みんなで作る燈路まつり」で令和元年度国土交通省手づくり郷土賞受賞。

久宝寺城址 

畠山満基の長子、渋川満貞の居城であったと伝えられている。満貞の嫡子の光重の時代に安井と改姓し、定重の時代に織田信長に仕えたが、石山合戦の時に顕如が率いる本願寺の僧兵に攻められ城は陥落した。城址は寺内町の北西あたりにあったとされ、小字城土居の地名として残っていた。

本解説文(基本情報を除く)は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「久宝寺」を素材として二次利用しています。

久宝寺城の口コミ情報

2023年08月13日 通天閣人
久宝寺城



石碑しか残っていないですが、感慨深いです。

2022年11月20日 ファン掃部助トム治郎
久宝寺城



久宝寺駅から寺内町を散策しながらゆっくり30分。環濠集落の町割りがいまも残り、本願寺に滅ばされた久宝寺城よりも顕証寺の砦という印象が強かったです。

2022年09月09日 天道式部卿早雲
三好長慶・義継墓所[久宝寺城  寺社・史跡]



大阪府八尾市にある真観寺の境内に三好長慶・義継親子(養父子)の墓所があります。
主君細川家を負かし、一時期京から将軍家を追い出し四国・近畿に勢力を拡大した三好長慶は1564年に病没
後継の義継がまだ若年だったこともあり、その死は2年間隠され、1566年に義継主導で真観寺にて葬儀が営まれた。この時、義継・三好三人衆により足利義輝が敗死(永禄の変)した後にもかかわらず、多くの参列者(公家や文化人なども)が集まり涙を流したとのこと。
義継は、後年上京した足利義昭と信長に従うも、義昭による信長包囲網に加わり叛旗を翻す。しかし反信長筆頭の武田信玄の死から包囲網が崩れ、若江城にて義昭を擁護するも、最期は妻子を刺殺して城外に切り込み多くの敵兵を倒した末、腹を十文字に割いて果てたと「信長公記」に記され、その最期は「比類無き御働き、哀れなる有様なり」と賞賛されているそうです。※哀れなる=感動する
この義継の最期は、武田家名臣の不死身の馬場美濃こと馬場春信の最期と同等の評価だそうです。

手前の御影石の焼香台・供花台は近年のもので、焼香台のすぐ後ろにある二基が二人のお墓になります。
資料によると、元々は二人の墓は宝篋印塔だったらしく、年月を経て違う五輪塔の上部が乗せられて現代に伝わっているとのこと。ただ、土台部分は往時のもので本来の二人のお墓だそうです。

真観寺には、JR「久宝寺」駅から徒歩約15分です。
駐車場2台分あるそうですが路地はかなり細いとのこと。また歩いて5分ほどの道路の対面にコインパーキングがあります。

2022年06月13日 尼崎城阿波守一口城主
久宝寺城



5月21日、八尾城から住宅街を進軍していくと、用水路沿いに久宝寺城の石碑を発見出来ました。久宝寺駅から帰路に着いたのですか駅構内に<天文十年(1541年)ごろつくられたまち久宝寺寺町への案内>という看板があり歴史ある町なんだなと感じました。八尾城と同じく次回は明るい時間帯に散策したいなと思いました。

2022年05月28日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
稲城址[久宝寺城  碑・説明板]



いつも出たとこ勝負の城巡りの私。大阪メトロ八尾南駅の付近見取り図に稲城阯···。

谷町線延長からすっかり宅地化のこの地区の人口密集地でどれだけ遺構があるものかと、訝しみながら利用の少ない北口から出ました。八尾空港跡地を抜けて行く途中の樟本神社、ここは昔、物部守屋の領内とありま又、物部守屋の首を洗ったと伝わる池が境内にあります。

物部守屋。6世紀に大和朝廷で軍事と外交で積極的なタカ派の豪族。本拠地は八尾市渋川。蘇我馬子と聖徳太子のタッグと争い、遂に武力衝突へ。グーグル案内で程なく稲城へ到着···光蓮寺の門前に城址の石碑。稲城の名前の由来は稲俵を積み上げて防壁の陣地としたところからとか。

大和川から信貴山を越えて攻め寄せる聖徳太子軍をここで迎撃の作戦。当時は泥と沼の湿地帯、この地形をうまく利用して何度も撃退させる守屋。自ら大榎に上り矢を射る守屋の奮闘。(負けるかもしれん!)焦る蘇我、太子連合軍。しかし、突然、密かに大木の上の守屋に近づいた迹見赤檮(とみのいちい)の放った矢が命中、即死。主を失った一族、郎党は討たれ、逃げて四散壊滅した。(丁未の乱)

物部守屋亡き後、館を寺としたのがこの光蓮寺。守屋の墓は八尾市太子堂の大聖勝軍寺に。寺とこの住宅地を囲う水路が僅かに防御施設の遺構の爪痕とみられます。境内はそんな昔の権力闘争があったことなど風化し僅かに本堂がおもかげを遺すのみ。よく陽のあたる場所です。本堂の階段に腰掛けて休憩して帰りました。

この辺でうまい飯屋、知りませんか?(笑)

2020年11月08日 さとにゃ中務卿
久宝寺城

徒歩なら簡単にリア攻めできます。車だとけっこう細い道だし住宅街なのでオススメしませんー。

2020年08月15日 kc玄蕃允maggy
久宝寺城

碑と土塁があった時代の写真と説明書きあるだけで、遺構のようなものもなく残念に思われるかもしれません。
しかし近隣には本願寺蓮如が創建した顕証寺と、それを中心に形成された久宝寺寺内町があります。また、大阪の陣の際に長曽我部盛親が敵の藤堂隊を見るために登った松(長曽我部物見の松)があったり、意外と歴史好きは楽しめると思います!

2020年02月27日 百済門徒衆修理大夫とら❖
久宝寺城



顕証寺の隣に、寺内町ふれあい館(無料)があるので、そこにいけばパンフレット等が貰えます。また、寺内町遺跡の地層断面や個人蔵の大坂の陣の配置図パネル等が展示してあります。
館員さんが、親切に対応してくれました。

2016年06月26日 ねこ治部丞すずめ
久宝寺城

近鉄の久宝寺口駅からすぐですが、JR久宝寺駅のからでも10分ぐらいで行けます。車1台しか通れない道なので、歩いて行くことをお薦めします(^^)

久宝寺城の周辺スポット情報

 稲城址(碑・説明板)

 久宝寺城碑(碑・説明板)

 久宝寺寺内町(周辺城郭)

 渋川城(周辺城郭)

 三好長慶・義継墓所(寺社・史跡)

 久宝寺縁地(関連施設)

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