稲城址
稲城址([久宝寺城 碑・説明板])
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稲城址の口コミ情報
2022年05月28日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
いつも出たとこ勝負の城巡りの私。大阪メトロ八尾南駅の付近見取り図に稲城阯···。
谷町線延長からすっかり宅地化のこの地区の人口密集地でどれだけ遺構があるものかと、訝しみながら利用の少ない北口から出ました。八尾空港跡地を抜けて行く途中の樟本神社、ここは昔、物部守屋の領内とありま又、物部守屋の首を洗ったと伝わる池が境内にあります。
物部守屋。6世紀に大和朝廷で軍事と外交で積極的なタカ派の豪族。本拠地は八尾市渋川。蘇我馬子と聖徳太子のタッグと争い、遂に武力衝突へ。グーグル案内で程なく稲城へ到着···光蓮寺の門前に城址の石碑。稲城の名前の由来は稲俵を積み上げて防壁の陣地としたところからとか。
大和川から信貴山を越えて攻め寄せる聖徳太子軍をここで迎撃の作戦。当時は泥と沼の湿地帯、この地形をうまく利用して何度も撃退させる守屋。自ら大榎に上り矢を射る守屋の奮闘。(負けるかもしれん!)焦る蘇我、太子連合軍。しかし、突然、密かに大木の上の守屋に近づいた迹見赤檮(とみのいちい)の放った矢が命中、即死。主を失った一族、郎党は討たれ、逃げて四散壊滅した。(丁未の乱)
物部守屋亡き後、館を寺としたのがこの光蓮寺。守屋の墓は八尾市太子堂の大聖勝軍寺に。寺とこの住宅地を囲う水路が僅かに防御施設の遺構の爪痕とみられます。境内はそんな昔の権力闘争があったことなど風化し僅かに本堂がおもかげを遺すのみ。よく陽のあたる場所です。本堂の階段に腰掛けて休憩して帰りました。
この辺でうまい飯屋、知りませんか?(笑)