若江城(わかえじょう)

若江城の基本情報

通称・別名

所在地

大阪府東大阪市若江北町

旧国名

河内国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

畠山基国

築城年

永徳2年〔南朝〕/弘和2年〔北朝〕(1382)

主な改修者

主な城主

畠山氏、遊佐氏、三好氏、池田氏

廃城年

遺構

土塁跡、井戸跡

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

八尾城(大阪府八尾市)[2.7km]
久宝寺城(大阪府八尾市)[3.2km]
水走城(大阪府東大阪市)[3.5km]
徳庵城(大阪府東大阪市)[4.0km]
往生院城(大阪府東大阪市)[4.6km]
正覚寺城(大阪府大阪市)[4.9km]
古河藩陣屋(大阪府大阪市)[5.5km]
恩智城(大阪府八尾市)[6.0km]
岡山砦(大阪府大阪市)[6.2km]
鴫野砦(大阪府大阪市)[6.4km]

若江城の解説文



若江城(わかえじょう)は、大阪府東大阪市(旧・河内国若江郡)にあった日本の城(平城)。15世紀後半には河内守護・畠山氏が拠点とし、織田政権期には大坂本願寺攻めの前線基地として用いられた。

立地 

若江は南北に長い河内国のほぼ中央に位置し、南から流れてくる大和川が二つに分かれた地点にあった。若江城は川により作られた自然堤防上にあり、周囲を低湿地で囲まれている。若江は水上交通の起点となる地で、大阪から奈良へと通じる十三街道と河内を南北に走る河内街道が交差する交通の要衝である。

若江の周辺には数多くの荘園が集中して所在しており、河内で最も農業生産力の高い地域だったとみられる。また、若江は古代から若江郡衙や若江寺(にゃくごうじ)が置かれる政治の場だった。

歴史 

15世紀後半

若江城が初めて史料に現れるのは、長禄4年(1460年)9月のことである(『経覚私要鈔』)。この時、京都を追われた畠山義就が若江城に入城している。この頃、畠山氏では応仁の乱の一因ともなる家督争いが起きており、長禄4年(1460年)閏9月から10月にかけて、大和国龍田に陣を布く畠山政長と若江城の畠山義就の間で合戦が行われた。この戦いに敗れた義就は嶽山城(富田林市)へと退き、代わって政長が若江城に入城した。畠山氏は、永徳2年(1382年)に河内守護に任じられた畠山基国以降、河内のどこを守護所としていたか不明だが、義就や政長が入城していることから、この時期の守護所が若江であることが分かる。

文明9年(1477年)、京から河内に下向した義就に攻められて若江城は落城し、若江城を守っていた政長の守護代・遊佐長直は天王寺(大阪市)から船で逃れた。これ以降、義就は河内に在国するが、文明11年(1479年)、義就は誉田屋形(羽曳野市)を築き、そこを守護所としている。守護代の遊佐氏が若江城で活動した記録も、これ以降は一切見られず、小谷利明は若江城が廃城になったとしている。

16世紀後半

次に若江城が文献上に現れるのは16世紀後半、三好義継の居城としてである。永禄11年(1568年)に足利義昭が織田信長と共に上洛すると、三好義継は当初、飯盛山城(大東市・四條畷市)を与えられた(『多聞院日記』)。その後、義継は拠点を若江に移しており、永禄13年(1570年)1月、松永久秀が若江にいる義継のもとへ礼に赴いている(『二条宴乗記』)。元亀3年(1572年)1月、「三好左京兆(義継)之城」の「若江」に織田方の軍勢が向かう準備を始めたと記す史料があり(元亀3年正月4日付下間正秀書状)、畠山義就の頃に若江城が廃城になったとする小谷利明は、この時を義継期の若江城の初出とする。なお、永禄13年(1570年)1月の時点で義継が若江城にいたとする見方もある。

天正元年(1573年)7月、槇島城の戦いで信長に敗れた足利義昭が若江城に移ってくる。義昭はその後、紀伊国由良(和歌山県由良町)へと退去した。同年11月、若江城は信長から派遣された佐久間信盛により攻められた。義継の家臣である池田教正・野間康久・多羅尾綱知(後の若江三人衆)が信盛の軍勢を城に招き入れ、義継は自害した。

その後、若江城は若江三人衆に預けられる。三人衆は北河内の支配を担い、大坂本願寺攻めにも従事した。若江城は本願寺攻めの拠点として用いられ、天正4年(1576年)5月には織田信長が若江城に入って本願寺攻めの指揮を取っている(『信長公記』)。信長はこの時以外にも度々、若江城に着陣・宿泊している。

廃城

天正8年(1580年)に石山合戦が終結すると若江城は廃城となり、若江三人衆は新たに八尾城(八尾市)を築いた。1581年4月14日(天正9年3月11日)付のルイス・フロイス書簡によると、同年3月19日(和暦2月15日)の時点ですでに若江に城はなく、多数の住民がいる町があるだけだったという。これらのことから『日本城郭大系』では、本願寺が開城した天正8年(1580年)4月から天正9年(1581年)3月までの間に若江城が破却されたと推測されている。

一方、森田恭二は、天正8年(1580年)12月16日に催された池田教正のもとでの茶会(「池田丹後会」)の開催地が「八尾」であることを指摘し(『宗及他会記』)、その時までに若江城の構築物が八尾城に移建されたとして、若江城の破却時期を本願寺教如が大坂を退去した天正8年(1580年)8月2日から同年12月16日までの間と推定している。

キリシタン 

若江三人衆の1人、池田教正はキリシタンだった。天正4年(1576年)、教正は若江に教会を建てており、これにより本願寺門徒の改宗が進んだ。フロイスの『日本史』によると、教正が建てたのは立派な司祭館付きの教会だったという[1]。また、河内におけるキリシタンの集住地として突出した地域として、岡山(四條畷市)・三箇(大東市)・若江の3か所が『日本史』に挙げられている。オルガンティーノはこれらの地域で、盛大な祭典を催し、美しく豪華な公開行列を行わせることで布教を進め、3つの地域のキリシタンたちも互いに競争心を掻き立てられたとされる。

若江城の廃城後、若江の教会も姿を消したが、現在の若江北町には「クルス」、若江南町には「大臼(だいうす、デウスを指す)」の字名が残っている。

発掘調査と城の構造 

若江城の遺構は地表面には存在せず、発掘調査からその様子がうかがえる。若江城は若江郡衙や若江寺と共に、弥生時代中期から江戸時代にかけての複合遺跡である若江遺跡に含まれている[2]。1972年(昭和47年)に若江遺跡の第1次発掘調査が行われ、2015年(平成27年)時点で調査回数は88次にわたっている。

15世紀後半の畠山期の遺構としては、3条の溝と1基の井戸のみが発見されている。遺構の少なさから、16世紀後半に城の工事が行われた際に破壊された可能性も考えられる。『長禄記』の寛正元年(1460年)9月の記事に「四方ハ皆深田ニテ、口二ツニシテ所々を堀切テ、搔楯、櫓、木戸、逆茂木思ノ儘ニ拵ヘテ」とあることから、当時の若江城の構造がうかがい知れる。

16世紀後半の三好期・織田期の遺構として、深さ3.5メートル前後、幅15–30メートルの内堀が確認されている。内堀の肩には逆茂木が打たれていた。内堀は湧水層まで掘られていたため常時水を湛えており、廃城後も近世に水路として利用されていたことが発掘調査から判明している。

内堀に囲まれた主郭は東西約130メートル、南北約130メートルの方形である。主郭南西部の内堀には土橋があり、その先に織豊系城郭の馬出と評価される突出部がある。しかしこの箇所は土橋より一段高くなっており、城の外に出撃するための馬出としては不自然であるともされる。

主郭内部では石垣や礎石建物、塼列建物が検出されている。塼列建物は土蔵として用いられたとみられ、主郭南の堀に面して建てられていた。主郭南西の内堀では、瓦葺建物を取り壊して廃棄した跡とみられる大量の瓦や壁下地、礎石が見つかっており、主郭南西部に瓦葺の隅櫓があったと推測される。

若江城周辺では、若江鏡神社の南側や若江小学校の西側などで堀の跡が見つかっている。このことから、若江城は惣構構造だったとも考えられ、その規模は東西560メートル、南北580メートルとなる。

所在 

  • 大阪府東大阪市若江本町・若江北町・若江南町

アクセス 

  • 近鉄奈良線「若江岩田駅」から南に1キロメートル

参考文献 

  • 【書籍】「南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆」
  • 【書籍】「戦国武将列伝8 畿内編 下」
    • 嶋中佳輝「多羅尾綱知―河内北部を統治する若江三人衆筆頭」(180–190頁)
    • 天野忠幸「三好義興・義継―長慶の後継者としての重圧」(205–221頁)
  • 【書籍】「守護領国支配機構の研究」
  • 【書籍】「図解 近畿の城郭IV」
  • 【書籍】「角川日本地名大辞典 27 大阪府」
  • 【書籍】「畿内戦国期守護と地域社会」初出:
  • 【書籍】「近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編」
  • 【書籍】「大阪府中世城館事典」
  • 【書籍】「日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫」
  • 【書籍】「近世初期日本関係南蛮史料の研究」
  • 【書籍】「河内守護畠山氏の研究」初出:【書籍】「若江遺跡発掘調査報告書I 本文編」

若江城の口コミ情報

2022年08月22日 花鳥子
飯島三郎右衛門 墓所[若江城  寺社・史跡]



大坂夏の陣で木村重成配下として戦い山口重信に討ち取られたという飯島三郎右衛門の墓所です。
現在は商店街のど真ん中で往時を偲ぶものは皆無ですが、当時この周辺は河川の合流点だったらしく水流に足を取られながら諸将が奮戦していた様子を想像するとさぞ激戦だったのかなぁと思いました。

2022年08月21日 花鳥子
山口重信 墓所[若江城  寺社・史跡]



大坂夏の陣で木村重成に討ち取られた山口重信の墓所です。
元々は木村重成の墓所と並んでいたようですが現在は公園向かいの若江南墓地の一角にあります。
1647年建立当時の墓碑らしいですがあちこち剥落が見られるので修復が望まれます…。
こちらも駐車場は無いのでご注意ください。

2022年08月21日 花鳥子
木村重成 墓所[若江城  寺社・史跡]



大坂夏の陣で豊臣方で奮戦も叶わず討死した木村重成の墓所が第二寝屋川沿いの公園内にあります。
元々は別の場所にあったようですが、河川改修に伴い現在地へ移設されたようです。
少し前までは近隣に木村重成像もあったようですが老朽化のため撤去されたようです…。
公園は広いですが駐車場は無いのでご注意ください。

2022年07月24日 (*¯ ³¯)っ旦
若江城

城跡らしきものは確認できませんでしたが、若江岩田駅から城へ向かう道路、城跡に近い村の中の道路などは緩やかに曲がり、勢いつけて攻め込めないようになっていたり、伏兵を隠したりできるようになっていますし、若江城ではなんで呼ぶのかわかりませんが、姫路城の町並みでいう「当て曲げ」という道を進むと突き当たって曲がる、また進むとまた突き当たって曲がるというなかなか城へたどり着けない仕掛けが施された町づくりになっています。
是非、歩いて体感してください。

2022年06月13日 尼崎城右近衛大将一口城主
若江城



5月21日、花園でラグビー🏉観戦後にリア攻めを再開。花園で熱戦を見たせいかテンションが上がり約40分の道のりも足取り軽く進軍出来ました🚶‍♂️若江小学校東の交差点付近に旧若江城跡の石碑や神社がありました。近くに若江城跡の説明板や美女堂氏遺愛碑というものも、ありました。

下城後、八尾城を目指しました。目指そうとした矢先に鏡神社⛩という立派な神社があったのでお参りしてきました。

2022年03月07日 百済門徒衆修理大夫とら
蓮城寺[若江城  寺社・史跡]



蓮城寺。宗派は日蓮宗。
寺の始まりは、天平年間(729~749)にさかのぼり、当地にあった若江鏡神社の神宮寺で天台宗系の若江寺とする。
若江寺は、織田信長による若江城落城後、衰退し、大坂夏の陣では戦場となり、木村重成の本陣が置かれた。
のち元禄6年に日蓮宗蓮性院日相上人により復興されて蓮城寺と改名された。

山門を潜り右には、木村重成の位牌を安置するお堂があり、堂内には他に木村重成影像と日蓮宗を保護した加藤清正木像が安置してある。
又、参拝者用にB4の資料が自由に頂ける。お堂は鍵が掛けられてなく、自由に入ることができる。

駐車場はないが、隣の若江鏡神社前の駐車場に止められる。2022.3.7

2022年01月10日 若江河内守國助93.8%
若江鏡神社[若江城  寺社・史跡]



境内にある「楠木魂」と書かれた石碑の碑文によると、豊臣秀吉が植樹したクスノキが境内にあるらしいのですが、どの木か不明。尚、「楠木魂」の石碑は大阪築城の石垣と縁のある巨石と伝説あり。

東側大鳥居の前に参拝者用の無料駐車場があります。停められる場合は参拝して下さいね〜。

2020年07月07日 天道式部卿早雲
白蔵大善神[若江城  寺社・史跡]



石碑のある神社
御狐様の白蔵主が祀られている稲荷神社

2020年07月07日 天道式部卿早雲
コインパーキング[若江城  駐車場]

1時間200円
24時間500円
若江城石碑まで徒歩10分ほどです。

2020年07月07日 天道式部卿早雲
石碑②[若江城  碑・説明板]



神社の対面にも石碑と説明板があります。

2020年07月07日 天道式部卿早雲
石碑①[若江城  碑・説明板]



若江小学校沿いの小さな神社の敷地にあります。

2018年02月04日 若江河内守國助93.8%
若江城

『大阪府史蹟名勝天然記念物』第3冊(昭和6)『若江城』の項によると、『小学校の東南隅に俚天守臺址と稱する僅に六坪餘の高地あり。その上に高さ五尺、幅三尺許なるほぼ三角形の古碑の表面に「社」の一字を刻せるものあり。これ当城唯一の遺物なるべし。城郭の原形を考ふるに、現小学校所在地は本丸にして、之を中心として南北に延び、南は雷の森に及び、東西の幅は割合に狭く、ほぼ凹字形をなし、その凹處の中央は東の河内街道に面し、此所を返見口と稱せり。』と、あります。
この文にある小学校は南側に移転し、現在は若江幼稚園になっています。雷の森とは、雷伝説が残る若江鏡神社の辺りかと思われます。

2016年08月06日 ねこ右近将監すずめ
若江城

実際に行ってみたら、近鉄の若江岩田駅から15分もかかりませんでした。

2014年12月25日 金森出雲守
若江城

若江小学校向かいの公民館に解説板、公民館隣の老人憩いの家入口にもよく見ると小さな石碑があります。小学校東の神社にある大きな石碑は立派です。

2014年02月04日 若江河内守國助93.8%
若江城

近鉄若江岩田駅から徒歩20分ぐらい。
発掘調査で出土したものは、水走城・神感寺城の発掘調査で出土したものと一緒に、東大阪市立郷土博物館に常設展示されてるそうです。

東側にある蓮城寺に、大坂夏の陣で若江に散った木村長門守重成公の位牌堂があります。


2010年09月25日 古楽侍従広家
若江城

応仁の乱の時に、日本で最初の水攻めが行われた城。そして三好義継が居城として戦国畿内の有力大名三好氏の興亡を静かに見続けた城でもありますね。

若江城の周辺スポット情報

 石碑①(碑・説明板)

 石碑②(碑・説明板)

 楠木正行の墓(碑・説明板)

 福万寺城(周辺城郭)

 萱振城(周辺城郭)

 彦坂陣屋(周辺城郭)

 宝持城(周辺城郭)

 池島城(周辺城郭)

 白蔵大善神(寺社・史跡)

 若江鏡神社(寺社・史跡)

 蓮城寺(寺社・史跡)

 木村重成 墓所(寺社・史跡)

 山口重信 墓所(寺社・史跡)

 飯島三郎右衛門 墓所(寺社・史跡)

 コインパーキング(駐車場)

 若江鏡神社参拝者専用駐車場(駐車場)

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