正覚寺城(しょうがくじじょう)
正覚寺城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大阪府大阪市平野区加美正覚寺1
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 畠山政長
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 畠山政長
廃城年
- 明応2年(1493)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
古河藩陣屋(大阪府大阪市)[0.7km]
宇利和利城(大阪府大阪市)[2.6km]
久宝寺城(大阪府八尾市)[2.6km]
岡山砦(大阪府大阪市)[3.3km]
八尾城(大阪府八尾市)[3.8km]
新堀城(大阪府大阪市)[4.2km]
茶臼山陣城(大阪府大阪市)[4.8km]
若江城(大阪府東大阪市)[4.9km]
寺岡砦(大阪府大阪市)[4.9km]
天王寺城(大阪府大阪市)[5.2km]
正覚寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「正覚寺城」の項目]
正覚寺(しょうがくじ)は、大阪市平野区加美正覚寺にある単立[1]寺院。山号は成等山(じょうとうさん)。奇数日の午前9時半と午後1時半に一般参詣できる。
歴史
天長2年(825年)に空海(弘法大師)により開基。かつては境内四町四方、本堂二十一間四面、不動堂七間四面、その他山門、廻廊、伽藍等巍々たる名刹で、東之坊ほか五坊を有する巨刹だった。
明応2年(1493年)2月25日に畠山政長が室町幕府10代将軍足利義材と幕府軍と共に高屋城に籠る畠山義豊を攻めた。この時に政長、義材は正覚寺城(現在の旭神社)に本陣を置いた。しかし、義豊に荷担した細川政元が4月、京都で謀反(明応の政変)を起こすと、味方であった筈の幕府軍4万余の軍勢が敵方にまわり、政長らが籠る正覚寺城に攻め寄せてくると、4月23日に陥落し政長は自害、義材は捕虜となった。
寺は兵火に合い三日三晩燃え続け、寺院内の高僧や修行僧は寺院と運命を共にした(正覚寺合戦)。 以後、正覚寺は廃寺となり、現在、正覚寺旧六坊(柳之坊、池之坊、中之坊、大寺坊、揚々之坊、東之坊)のうち成等山(正覺寺)東之坊(加美正覚寺2丁目8−5、浄土宗鎮西派)のみ現存し、山門の傍らに『正覚廃寺の由来碑』がある。
現在の復興された正覚寺の前に由来記板があり、そこに『天長年間弘法大師開基(中略)昭和十二年に太田上人が三晩日昭上人の夢を見て報恩のために再建を決意、昭和三十七年に完成した』と記されている[2]。
交通アクセス
- JR平野駅から徒歩約10分
主な行事
- 毎月1日 午前9時 月中安泰祈祷会
- 毎月13日 午前9時 宗祖月御命日報恩会
- 1月1日~2日 年中安泰加持祈祷会
- 1月8日~24日 寒行
- 2月3日 節分会 星祭
- 2月15日 釈尊涅槃会
- 3月彼岸中日 春季彼岸施餓鬼法要
- 4月7日 釈尊御降誕会
- 4月29日 立教開宗会
- 6月1日 御更衣式
- 8月9日 千日詣
- 8月17日 盂蘭盆施餓鬼供養
- 9月13日 龍口法難会
- 9月彼岸中日 秋季彼岸施餓鬼法要
- 10月13日 宗祖御会式大法要
- 11月中旬の日曜日 七五三祝祷会
- 12月31日 歳末読誦会
脚註
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正覚寺城の口コミ情報
2023年03月08日 マグロ常陸介祐平
正覚寺城
畠山政長が幕府軍の攻撃にあい自害した城(寺)です。落城と共に正覚寺も廃寺になったようですが、城址にある旭神社の社誌によると天正五年の本願寺攻めで織田信長が本陣を構えたとあり、その頃まで修復可能な遺構が残っていたのかも知れません?近くの民家の隙間に畠山政長の墓があります。
2022年08月04日 尼崎城駿河守一口城主
正覚寺城
6月30日、古河藩陣屋から正覚寺城に進軍。JR大和路線の線路を北側に超え進んでいくと旭神社⛩に辿り着きました。旭神社の由緒書きを読んでみると◎建武年中(1330年頃)河内守護楠木正成、子正行が度々祈願に訪れる。◎明応2年(1493年)正覚寺合戦(明応の変)将軍足利義材囚われ畠山政長自刃。との記載がありました。義材公は、知らなかったので調べてみたら義材=10代将軍義稙公(日野富子さんの妹の子)のことでした。凄い波瀾万丈の人生を送られた将軍でした。
神社にお参りして、御朱印を頂きました。頂いた後、先人方が上げていた<正覚寺城跡>の石碑の場所を教えてもらい撮りに行きました。境内の奥の方に石碑はありました。位置関係の参考になればと石碑と遠方にかすかに本殿横の絵馬が映るように撮りました。
境内に十二支の動物などが彫られた囲いがあったので撮ってきました。
正覚寺城下城後に東大阪の徳庵城、水走城に向かいました。
2021年12月02日 多雨式部少輔古墳
正覚寺城
大和路線平野駅から歩きました。北出口から出てしばらく歩くと住宅街の中の神社の中に石碑があります。僕は駐車場の鳥居からお邪魔しました。(鳥居の写真)神社には石碑のみがありました。
2021年09月06日 安東大膳大夫伊賀氏
正覚寺城
リア攻めしてきました。以前の写真では木の横にあったのをみて探していましたが見つからず、しかし駐車場から入ると左手に写真の様にわかりやすくありました。お参りして「お邪魔します」と忘れずにさせていただきました。
2021年05月15日 大納言Z周防守369
坂上広野麿墳墓[正覚寺城 寺社・史跡]
平安時代初期、蝦夷征伐に功績を上げた坂上田村麻呂の息子で、当地を領した。平野という地名は名前の広野がなまってできたものといわれています。
2020年03月09日 天道式部卿早雲
正覚寺[正覚寺城 寺社・史跡]
昭和中期に再建された正覚寺
来訪時は閉門していましたが、奇数日の午前9時半と午後1時半に一般参詣できるそうです。
2020年03月09日 天道式部卿早雲
コインパーキング[正覚寺城 駐車場]
最寄りのコインパーキングです。
ここから旭神社(正覚寺城跡の石碑)、東之坊(正覚寺廃寺の石碑)、畠山政長墓所、現正覚寺が30分ほどで廻れます。
30分100円
昼間最大600円
2020年03月09日 天道式部卿早雲
正覚廃寺の石碑[正覚寺城 碑・説明板]
かつては広大な敷地があった正覚寺の由来が刻まれています。
石碑のある東之坊は、在りし日の正覚寺六坊の唯一残っているお寺だそうです。
2020年03月08日 天道式部卿早雲
畠山政長墓所[正覚寺城 碑・説明板]
応仁の乱の一因になった、畠山政長のお墓
政長はライバルの畠山義就が先に死去したが、その子義豊と家督・勢力争い続ける。
将軍足利義材とともに河内・高屋城を包囲し政長方の勝利目前だったが、京で細川政元がクーデター(明応の政変)をお越した。新将軍義澄のもと幕府軍の多くが義材・政長の敵となり、義豊の逆襲にあう。
正覚寺城に籠城する(正覚寺合戦)が頼みの綱だった紀州勢1万の援軍が堺で赤松氏に敗れるなどし、食糧も尽きかけ、敗色濃厚のなか政長は自害し、義材は降伏し京を追放された。
2017年01月06日 橘若狭守次郎吉
正覚寺城
正覚寺城はかつてJR平野駅から徒歩10分ほどの処にある旭神社付近にあったと云われています。
現在は遺構は残っていませんが、旭神社境内の巨木の脇に石碑があります。
また、かつてあった正覚寺の旧六坊は現在、東之坊のみ現存し、山門付近に『正覚廃寺の由来碑』があります。東之坊は旭神社から徒歩5分ほどの処にあります。
2010年08月28日 ️_
正覚寺城
応仁の乱の引き金を弾いた男・畠山政長の城跡です
この男がいなければ、戦国時代は始まらず、今の世に歴士や歴女が割拠することもなかったかも
そういう意味ではもっと崇め奉られても良いハズなのに、城跡の旭神社には石碑と神社の由緒書以外に歴史を感じさせるモノはありません
しかも石碑は人物含めての記念撮影が難しい位置にあります(更に周辺にはウ○チ地雷源あり)
あと3分ほど東に歩けば畠山政長のお墓もありますので、ここまで来た方は是非足を伸ばしてください