正覚寺城(しょうがくじじょう)
正覚寺城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大阪府大阪市平野区加美正覚寺1(旭神社)
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 畠山政長
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 畠山政長
廃城年
- 明応2年(1493)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
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正覚寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「正覚寺城」の項目]正覚寺は天長2年(825年)に空海(弘法大師)により開基。かつては境内四町四方、本堂二十一間四面、不動堂七間四面、その他山門、廻廊、伽藍等巍々たる名刹で、東之坊ほか五坊を有する巨刹だった。
明応2年(1493年)2月25日に畠山政長が室町幕府10代将軍足利義稙と共に正覚寺城(現在の旭神社境内)に本陣を敷き畠山義豊と対峙するも逆襲に遭い、それに荷担した細川政元が京都でクーデターを起こし(明応の政変)、諸将合わせて4万余の兵を率いて進撃、4月23日に本陣は陥落し政長は自殺、義稙は捕虜となり、寺は兵火に合い三日三晩燃え続け、寺院内の高僧や修行僧は寺院と運命を共にした(正覚寺合戦)。以後、正覚寺は廃寺となり、現在、正覚寺旧六坊(柳之坊、池之坊、中之坊、大寺坊、揚々之坊、東之坊)のうち東之坊のみ現存し、山門の傍らに『正覚廃寺の由来碑』がある。
現在の正覚寺前に由来記板があり、そこに『天長年間弘法大師開基(中略)昭和十二年に太田上人が三晩日昭上人の夢を見て報恩のために再建を決意、昭和三十七年に完成した』と記されている。[続きを見る]
正覚寺城の口コミ情報
橘若狭守次郎吉@福島様[2017年01月06日]
正覚寺城はかつてJR平野駅から徒歩10分ほどの処にある旭神社付近にあったと云われています。
現在は遺構は残っていませんが、旭神社境内の巨木の脇に石碑があります。
また、かつてあった正覚寺の旧六坊は現在、東之坊のみ現存し、山門付近に『正覚廃寺の由来碑』があります。東之坊は旭神社から徒歩5分ほどの処にあります。
マイリバ様[2010年08月28日]
応仁の乱の引き金を弾いた男・畠山政長の城跡です
この男がいなければ、戦国時代は始まらず、今の世に歴士や歴女が割拠することもなかったかも
そういう意味ではもっと崇め奉られても良いハズなのに、城跡の旭神社には石碑と神社の由緒書以外に歴史を感じさせるモノはありません
しかも石碑は人物含めての記念撮影が難しい位置にあります(更に周辺にはウ○チ地雷源あり)
あと3分ほど東に歩けば畠山政長のお墓もありますので、ここまで来た方は是非足を伸ばしてください