水走城(みずはやじょう)
水走城の基本情報
通称・別名
- 水速城
所在地
- 大阪府東大阪市水走2
旧国名
- 河内国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 水走氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 水走氏、杉原周防入道
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
若江城(大阪府東大阪市)[3.5km]
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水走城の解説文
水走城の口コミ情報
2016年08月06日 ねこ宮内丞すずめ
水走城
近鉄の吉田駅からすぐです。しかし他の方も書かれていますが、水走氏館はかなり離れています。歩きだと44分ぐらいかかるようです。
2014年02月04日 若江河内守國助93.8%
水走城
大津神社には水走城の存在を示すものはありませんでした。
水走氏館跡は、発掘調査後民有地のため埋め戻されました。
2010年10月27日 ステイゴールド弾正少弼久秀
水走城
水走氏館跡は東大阪市五条町にあります。
遺構
平岡連(ひらおかのむらじ)の子孫と言われる水走氏は、同市五条町周辺を本拠地とし、河内郡や若江郡などに数多くの領地を有していた。そのうちのひとつ、水走の地(現在の近鉄けいはんな線吉田駅周辺)は、平安時代末期から開発が行われ、代々相続されたことが『水走文書』に記されている。
この地では、昭和54年の試掘調査によって水走遺跡が確認され、その後の発掘調査によって、平安時代の堤防や鎌倉時代の住居群をはじめ、中世の遺構や遺物が数多く発見された。
遺跡の中央に、幅50m、水深4mを超える旧大和川の支流、吉田川が確認されており、川の両岸からは建物(柱穴)跡とともに大溝が検出され、集落の周囲に堀を巡らせていたと考えられている。
歴史
正平15年(1360)、南朝方の攻勢が強くなると、河内国の守護代であった杉原周防入道は誉田城を放棄し水走城に立て籠もって京からの援軍を待ったが、楠木軍の猛攻により1日の抵抗の後、奈良方面へと落ち延びた(『太平記』巻第三十五)。水走氏館
『水走文書』によると、鎌倉時代に水走氏の屋敷が東大阪市五条町あたりに存在し、寝殿・中門・倉などがあったとされているが、発掘調査では同時代の屋敷跡は見つかっていない。現在は、文化8年(1811)水走忠良によって造立された水走氏の墓塔が残り、館の存在を物語っている。交通
・近鉄けいはんな線吉田駅参考文献
・『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月。・『東大阪市の遺跡ガイドブック』東大阪市教育委員会、2010年3月。
・『東大阪市の歴史と文化財』東大阪市教育委員会、2009年9月。