千早城(ちはやじょう)

千早城の基本情報

通称・別名

楠木詰城、金剛山城

所在地

大阪府南河内郡千早赤阪村千早

旧国名

河内国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

楠木正成

築城年

元弘2年〔南朝〕/正慶元年〔北朝〕(1332)

主な改修者

主な城主

楠木氏

廃城年

明徳3年(1392)

遺構

曲輪、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(千早城)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

上赤坂城(大阪府南河内郡)[4.2km]
佐味城(奈良県御所市)[4.3km]
下赤坂城(大阪府南河内郡)[5.8km]
櫛羅陣屋(奈良県御所市)[7.3km]
長藪城(和歌山県橋本市)[7.3km]
龍泉寺城(大阪府富田林市)[7.9km]
白木陣屋(大阪府南河内郡)[8.2km]
烏帽子形城(大阪府河内長野市)[8.8km]
二見城(奈良県五條市)[8.8km]
平石城(大阪府南河内郡)[9.1km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

55 千早城

設置場所

金剛山 山の豆腐[地図
千早城跡茶屋(不定期)[地図

千早城の解説文



千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にあった日本の城。国の史跡に指定されている。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成・築城の城である。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。金剛山城。楠木七城の一つ。

概要 

千早城は、大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衝であった千早街道から登りつめた金剛山より西にある一支脈の先端に築かれた山城で、楠木氏の詰め城である。城は、周囲が約4kmで千早川の渓谷を利用し、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があって、四方の殆どを深い谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地である。金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673m、比高は175mとなっている。北条軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いた攻城戦の舞台となった。

沿革 

楠木正成は2つからなる城を持っており、下赤坂城が前衛の城、本城が上赤坂城とされる。下赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、下赤坂城に1331年(元弘元年、元徳3年)10月21日夜、自ら火を放ち鎌倉幕府軍に奪わせた。鎌倉幕府は下赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。1332年(元弘2年、正慶元年)4月、楠木正成は下赤坂城を奪い返し、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を帰順させることに成功した。

赤坂城の詰めの城として千早城をその背後の山上に築いた。楠木正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、下赤坂城上赤坂城、千早城の3城で鎌倉幕府軍と対峙し、上赤坂城には平野将監、楠木正季以下300兵を守備隊とした。

1333年(元弘3年、正慶2年)2月2日、まずは上赤坂城で戦いが始まり、善戦したが鎌倉幕府軍に水の手を切られ、平野将監が降伏の意を伝えた後も数日持ちこたえたが、楠木正季が千早城に退却すると、同年2月27日に落城、千早城への出軍を命じた。 このような中、楠木正成は上赤坂城での戦いのさなか2月23日に、金剛寺へ書状を送っていた。内容は鎌倉幕府軍が寺内に乱入して、城郭を構えるという風評があるので、怠りなく防備し、団結して戦ってほしいとし、護良親王の令旨に従って関東調伏の祈禱に励む、つまり戦勝祈願するように丁重に依頼している。金剛寺は千早城から西へ約10kmに位置し、楠木正成とのかかわりが深く南北朝時代には南朝方の勅願寺として重要な拠点となっていた。

鎌倉幕府軍は千早城へ百万とされる軍を向け、これを攻撃した。籠城側・楠木軍は僅か千人足らずで守ったとある。「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」(『太平記』)とあり数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえる。

上赤坂城で勝利した鎌倉幕府軍は、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。千早城では櫓より大石を投げ落とし応戦し逃げ惑う兵に矢と飛礫が降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった。 「長崎四郎左衛門尉、軍奉行にてありければ、手負死人の実検をなしけるに、執筆十二人昼夜三日が間筆をも置かず詿けり」(『太平記』) とあり書記12名が昼夜3日間死者の数を確認するのに筆が離せなかったほどと言われている。

鎌倉幕府軍は、上赤坂城の例にならい水源を断ち持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き300もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていた。長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、楠木正成はわら人形を20-30体作らせ、甲冑を着せ弓や槍を持たせた。その人形を夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵500を潜ませ、夜明けになると鬨の声をあげさせた。鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ攻め寄せた為、兵500は矢を放ちながら徐々に城内に引き上げた。鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大石を投げ落とし、300名が即死、500名が負傷した。

鎌倉幕府軍の持久戦に対して、同年3月4日に鎌倉より厳しい下知が届き、将士を督励することになった。そこで鎌倉幕府軍は近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上ろうとした。京都より大工衆500余人を呼び集め、巾15尺(4.5m)、長さ100尺(300m)の橋を造り、大縄をつけて城内へ殺到した。楠木正成は、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、それに松明を投げた。城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと太平記に記載されている。太平記以外の史料に「長梯子の計」の記述が無いことから信憑性に疑問があるが、本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから、太平記には誇張があるにしても実際に実行されたと考えられると指摘されている[1]

千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が3月23日(閏2月24日か?)に隠岐国の配所を脱出、討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた守護が相次いで帰国した。関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなる。鎌倉幕府が滅亡するのは100日戦争(千早城の戦い)が終了した12日後のことであった。

建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となり城主は楠木正行、楠木正儀そして楠木正勝と続いていた。しかし、南北朝時代末年となる1392年(明徳3年)正月楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城し、61年に及ぶ歴史に幕を閉じた。

現代

  • 1934年(昭和9年)3月13日、国の史跡に指定された。
  • 1989年(平成元年)、大阪みどりの百選に選定された[2]
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(55番)に選定された。

城郭 

image:Chihaya Castle15.jpg|thumb|center|600px|河内千破城図/湊川神社蔵 千早城は、上赤坂城と同じように背後の尾根伝いに登っていけば、金剛山に到達する点が同じで、赤坂城郭群と一体的に捉えて位置付けることも可能だが、上赤坂城のように平野部に眺望がきかず、山間に隠れた存在であり上赤坂城のような地域支配機能は有さない。

千早川の渓谷を利用し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、出丸(いずれも俗称)の5つの曲輪に分かれ、空堀、堀切等が設けられている。本丸は長さ約100m、幅約20mの平坦地で東方の最高所は約10mの四方の土段になって、望楼櫓跡の可能性も指摘されている。現在は石垣の壇があるが、これは近代の楠権現の跡である。本丸の東南方に二ヵ所の袖曲輪、南西方には五ヵ所の袖曲輪が存在し「茶屋ノ壇」と呼ばれており、こちらは現在「大阪府立存道館」「大阪府立山の家」が建っているため変形している。本丸より東方100mの場所には、楠木正儀の墓がある。

千早神社を祀る場所が二ノ丸で原形はかなり損なわれて、社務所一帯が三の丸と呼ばれている。四の丸は長さ約100m、幅30mの平坦地で城内で一番広い場所となっているが、公園化のため破壊されているようである。三の丸と四の丸の間の鞍部にかつて空堀があったと言われているが、参道のため埋まってしまったのか確認できない。また四の丸の西下には、武者隠し状の帯曲輪が当時の面影が残っている。千早赤阪村立赤阪小学校の東が的場と呼ばれており大手であったと言われている。

城の南には、千早谷を隔てて北山砦があり、南東には妙見谷を隔てて妙見砦があり、四周に堡塁が散在し、自然の地形を利用して連絡路があり千早城を中心に城塞群が形成されている。

城跡へのアクセス 

電車でのアクセス

  • 河内長野駅(南海高野線・近鉄長野線)
    • 南海バス小深線「金剛山ロープウェイ前行き(408、411系統)」 → 「金剛登山口」バス停下車
  • 富田林駅(近鉄長野線)
    • 南海バス千早線(4市町村コミバス)「千早赤阪村立中学校前行」で終点にて千早赤阪村営バス「金剛登山口行き」に乗換 → 「金剛登山口」バス停下車
車でのアクセス
  • 近畿自動車道 美原南IC → 国道309号 → 大阪府道705号
    • 金剛登山口周辺に有料駐車場有り
徒歩でのアクセス
  • 金剛登山口 → 徒歩約20分

参考画像 

参考文献 

  • 創史社『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、135-137頁。
  • 村田修三編著『図説中世城郭事典』第二巻、新人物往来社、1987年6月、27頁。
  • 千早赤坂楠公史跡保存会『千早赤坂の史跡』千早赤坂楠公史跡保存会、1995年3月、28頁。
  • 小学館『赤坂・千早城の戦い』戦乱の日本史33、小学館、2008年9月、4-27頁。
  • 和泉大樹 編著「国史跡赤阪城跡」『千早赤阪村埋蔵文化財調査報告書』3(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16717)、千早赤阪村教育委員会。

千早城の口コミ情報

2023年12月16日 エスエム☆飛騨守スナイバー
千早城

神社があるだけで、あまり遺構は残ってないです。石垣風階段は、楠木正成が大変人気のあった戦前に整備されたものと見た。

2023年11月18日 ジル
千早城



階段はかなりきついです。降りる時は気をつけてください。静かでいい所です。

2023年10月27日 よかぜや
トイレ[千早城  トイレ]

駐車場奥にトイレがあります。ついでに山の豆腐さんで買い物も!

2023年06月29日 尼崎城大膳大夫一口城主
千早城



6月18日、上赤坂城下城後に登城。富田林警察署千早駐在所👮🏻‍♂️前の石段から登山開始。(写真①:登り口、写真②:マップ、写真③:千早城説明板)登山口にパワースポット千早城(写真④)とあったので気合が入り長い石段を進みました。楠公の様々な作戦の中の一つにカカシに甲冑を着せて兵がいるように見せかけて敵を翻弄した話は何となくイメージにあったのですが、それを思い起こされるカカシがいくつか見られ嬉しくなってきました。(写真⑤、⑥)
私の足で登り口から20分弱で本丸跡の千早神社(写真⑦)に辿り着くことが出来、お参りして👏パワーを分けて頂きました💪
お参り後、来た道とは違う山道を下っていき、<山の豆腐まつまさ>さんで千早城の御城印と千早神社の御朱印を頂いて下山しました。
帰路、千早城の遠景を眺められるところがあったので撮影📷(写真⑧左側の山)
当日はレンタサイクルを河内長野駅前で借りていたので、帰路に楠公ゆかりの観心寺にもお参りしてきました。楠公の騎馬像や首塚など楠木氏ゆかりものを見ることが出来ました😊楠公さんファンで千早城下城した後に時間に余裕がある方にはお勧めなお寺だと思います💫
私事ですが、千早城攻略で河内守拝命&本アプリ内の大阪府内の城郭制覇を達成することが出来ました。楠公さんゆかりのお城で達成できて良かったです‼️

2023年05月01日 eddy
千早城



金剛山に登る人たちと一緒に、麓(豆腐屋さん“まつまさ“)から20分ほどかけて急な山を登りました。新しくできたモンベルの前に‘’まつまさ“というパンや豆腐を売っているところがありそこに100名城スタンプと御朱印が置いてあります。

2023年03月21日 蜜黄熊織姫
千早城



階段をのぼりきれば、本丸(神社)に着きます。

2023年01月21日 ともっち♪丹波守
有料駐車場[千早城  駐車場]

千早城駐車場(*‘ω‘ *)1日600円でした。たしか…10分なら無料と書いてあった気がします。2023/01現在

2022年10月24日 プリン丸
千早城



頂上までは、階段500段程あります。なかなかきついです。熱中症対策の必要あります。表入口は、交番の向かいにあります。

2022年09月25日 民部大輔ストリーム
山の豆腐[千早城  スタンプ]

100名城スタンプ設置 場所です。御城印も販売されています。おからのあんパンが美味しかったです。御城印を購入される際はあんパンもいっしょに購入してあげて下さい。もちろんお豆腐も!

2022年05月21日 
千早城



噂に違わず最初の登城さかがきつい。上に登るとそうでもないですか、一度は登って下さい。

2022年03月21日 濱野まさ道三
千早城

楠木正成のお墓参りもするなら1時間30分ぐらいの時間を見ておいた方が良いですね。登山口の木綿豆腐がおいしいです。スプーンと醤油の持参が必要です

2022年03月02日 RED副将軍
千早城



偶には100名城を口コミ

ご存知の通り楠木正成の詰城🏯
楠木七城 の一つ。

1332年、楠木正成により築城。
前衛の城として下赤阪城、本城として上赤阪城、千早城は詰め城として機能しました。
1333年の千早城の戦いでは、楠木軍は僅か千人足らずで鎌倉幕府軍の軍勢(太平記では百万とも云われる)を退けました。
その時に関東で挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡しました。

見所
標高666mの金剛山中腹に築かれ、現在は#千早神社 の境内となっています。
本殿の裏の丘の上が「本丸跡」でありますが千早神社の御神体であり立入禁止区域。
本丸は脇の山道から切岸のみ確認できます。
二ノ丸は拝殿となりかなり改変されており、三ノ丸は社務所となっています。
四ノ丸は公園化により破壊されています。

2022年02月13日 大和守こばやん
千早城



2022/2/12 山の豆腐で100名城のスタンプを押して、金剛山のハイキングコースから登って行き登城、帰りは警察署の方向に下っていきました。帰りのコースは石段が続きけっこう膝がきつかったです。行きと帰りのコース逆にすればよかったなーとおもいました。

2022年01月01日 蔵人頭マックイーン
千早城



金剛登山口バス停からすぐのところに石段があります。下るのはやや危険な角度と感じる急な石段ですが、数十段ほどで傾斜は緩やかになり、ひたすら石段が続きます。

体力に自身がないので途中で不安になりましたが、道幅がある程度あるので、他の方の邪魔にならずに石段の端で休め、休み休み行けばなんとかなりました。四の丸から千早神社のある二の丸まではほぼ平坦で、木々に囲まれた落ち着いた空間でした。

帰りは三の丸と四の丸の途中にある登山道から下りましたが、こちらは階段区間の道幅が狭いです。降りきったあたりで100名城スタンプを押し、バス停へはそこから5分くらいです。

2021年11月15日 上田図書頭雪娘
千早城

表ルートの階段は厳しいです。戦国の城ほど技巧的ではありませんが、山城の面影を体感しました。幕府から逃げ込むための防御施設かな。

2021年06月21日 カズ@大高の信長
千早城



数百の軍勢で数十万は大袈裟にしても数万の北条方軍勢を退けたと言う楠木正成の名城。参道の石段では無く、谷筋から登ってみると急斜面の山で、側面からの攻撃は難しそう。
鎌倉時代の縄張りも戦国時代の山城につながる興味深いもの。
ただ、昔から有名な場所だったこと、本丸の主要部が神社の神域で入れないので、見学できる部分は少なく、かなり残念な印象を持つ。

2021年03月09日 シゲ之輔蔵人頭
千早城



城跡へ行く階段はかなり急な上り坂です。金剛山の頂上へもう行く場合は、別の登り口から行って帰りに寄ったほうが楽です

2021年03月07日 摂津守ぎょう
千早城



金剛山麓まつまさでスタンプと御城印を入手。バス停の登山口とまつまさからの登山口があり、まつまさから登城。20分くらい急な山道を登る。決して初心者ではないと思う。ちなみに駐車場は何件かあるが、1番上のまつまさの駐車場まで行かないと割引きがきかないので注意。

2020年12月06日 琉城A和泉守【永樂通宝】
千早城



駐車場は有料であちこちにあります!登城口に説明板と城郭地図有り。登城口から階段を登ること約20分、四の丸に出る。 四の丸に行く途中、所々に帯曲輪が残っている。四の丸から奥に進むと、三の丸があり、左手に千早城阯の碑がある。

二の丸には千早神社がある。本丸は立入禁止になっている。城郭は千早神社になっていて、遺構はほとんど残っていない。金剛山登山道の途中に千早城があり、金剛山山頂まで階段が続いている。金剛山山頂には国見城があったようだが、遺構は何も無い。

①登城口の石段
②金剛山山頂の国見城碑
③四の丸跡
④本丸東部にある土盛り。望楼櫓跡か?
⑤三の丸にある城碑

百名城スタンプは金剛山麓「まつまさ」さんにあります。御城印もあります。

2020年12月06日 琉城A和泉守【永樂通宝】
登城口[千早城  その他]



ここが登城口です。この階段をしばらく登っていくと、四の丸に出ます。城跡へは簡単に行くことが出来ます。

2020年12月06日 琉城A和泉守【永樂通宝】
山の豆腐[千早城  スタンプ]

お店の中に百名城スタンプが置いてあります。お店を入って左です。

2020年12月06日 琉城A和泉守【永樂通宝】
国見城[千早城  周辺城郭]



金剛山山頂にあって、遺構はありません。写真のような碑があるだけです。展望所からは堺・大阪・神戸が一望できます。

2020年09月10日 うっきー
千早城



金剛登山口のバス停で降りて、千早神社に向かう石段を登っていくと20分ほどで到着します。
夏場はかなり厳しいです。

2020年08月29日 曳馬勘解由長官弘康
千早城

千早城は上赤坂城や下赤坂城等を含めた金剛山系の城郭群が繋がる中核の城です。
いずれの城も城郭の入り口近くまで車で行けるため小規模で見処少ない城と誤解しそうですが、大阪の平野部から千早赤阪村まで山越えする必要があり、更にその奥にある山間部に拠点網を築いたのは偉業だと痛感しました。

2017年05月14日 摂津守いくpika
千早城

近鉄・南海の河内長野駅から南海バスで金剛山ロープウェイ前行きに乗車し、金剛登山口で下車。
土日祝は登山客が多く一時間に2〜4本出ていますが、平日は一時間に1本です。
尚、片道470円ですが、往復するなら「河内長野・千早赤阪ワイドモックルカード」が850円でお得です。
河内長野駅のアンスリー(コンビニ)で購入可能です。

金剛登山口で下車して少し進行方向に進むと、超急な階段の登城があります。
城域には案内が何も無いので、登城口左手の千早城跡の看板を写メした方が良いでしょう。
20分程登ると四の丸に到着します。
城域と言っても現在は千早神社となっていますので、当時の遺構はありません。
尚、本丸跡は聖域のため立ち入り禁止です。
ただ、階段状に並ぶ曲輪らしき雰囲気だけはお城感がありました。

帰りは三の丸と四の丸の間(四の丸を向いて右手)の脇道から下山すれば、百名城スタンプのあるまつまさ(金曜日休み)に到着します。

帰りのバスで、金剛バスで富田林駅行きに乗れば上赤坂城と下赤坂城がポチ攻めで出来ます。
料金は540円でした。


2017年05月10日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
千早城

ここに来られたなら麓の楠正成生誕の地に行くことをお勧めします。そこにある資料館で放映されているビデオ、涙が滲んできますよ。楠公の人となりを現す、味方塚、寄手塚の話です。ついつい山と城に目が行きがちではありますが。。。

2016年07月08日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
千早城

楠木正儀さんの墓から金剛山山頂に国見城があることを知り、迷った末に登城を決断。ヒーハー、ヒーハーしながら登る、五合目にトイレと休憩ベンチあり。ここまでの山道の脇には竪堀、堀切、見張り台?あります。この五合目には水汲み場がありません。登られる方は下でたっぷりの飲料水を用意して下さい。
急坂を登ること一時間半、漸く二股の分岐路に左は(楽な道)、右は(近道)前を行くカップルが、(女)どっちに行く?(野郎)そんなん決まってる!楽な道や!(女)そうよね~。(俺)(くそ~)、男やったら右や!何迷ってんねん!
•••数分後、めちゃくちゃ後悔。上がらぬ足を気力でカバーしてついに山頂に!
金剛山山頂の国見城祉。城祉が半径20m位の広場にあるだけで特にめぼしい遺構はありません。ここは正成の千早城ネットワークの一つのようです。兵糧庫でもあったのかな?私の予想ですが。
奥に進んだら金剛山ロープウェイがあり、ロープウェイカードも受付でもらえます(^o^)。金剛山全体が正成の城かと考えるとスケールが大きいですね~(笑)。
並の武将じゃ落とせませんよ、千早城!

2016年07月08日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
千早城

千早城本丸跡裏から金剛山登山口があります。それだけなら足を向ける事はなかったのですが、楠木正儀さんの墓があるので行く事に•••。
山道は急坂で樹木密生の為、木陰になってます。進む事数分で山道左手に脇道があり上がると五輪塔の形をした遺構らしき物が•••手書きで楠木正儀の墓とありました。しかし金網フェンスに囲われ、まるで牢屋に入れられた囚人かと思いました。花はなく手向けの賽銭が墓のそばに散見•••寂しいお墓です( ノω-、)
父が死に、兄二人も戦で亡くし、その直後から楠木一族を護りながら親房の無謀な京都奪還を命じられ出口の見えぬ合戦の連続•••。京奪取数度、南北朝和解を推進するも入れられず、北朝に下ったりした時期もあり、死後3年後に漸く南北朝合一。時代は明治、楠木一族に官位の追贈がありました。正成に正一位、兄の正行は従二位、正儀の子、正勝と正元にも正四位、従四位をもらった。なのにひとり正儀だけは何の沙汰もなし•••。そろそろ再評価して上げてくれませんか•••( ノω-、)

2016年07月07日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
千早城

千早赤阪村役場を過ぎて山奥に進んで100名城スタンプのあるまつまさに駐車して今回臨みました。
千早城は楠木正成さんの楠木七城の本拠地で鎌倉勢相手に戦い籠城側が勝った城の一つです。
山頂までは売店がありません、飲料水を用意してもいいですが、駐車場横の湧き水が汲めます、冷たくていけますよ(^o^)。
湧き水を汲み脇道を入り登ると千早城登城口。右に左に上がりますと四の丸、三の丸です。社務所の横城址です。

私的に見て、大籠城戦があった城やと期待して行くと肩透かしを食らった感じになります。めぼしい遺構はあまりありません。
千早神社入口の四の丸に帯曲輪らしいのが見られ程度です。しかし神社内はよく掃除が徹底されており、楠木一族の薫陶を引き継いできた方々の温かさを感じます。
教科書で見た楠木正成さんの肖像画は、はっきり言って(河内のおっさんみたいやなぁ)て感じでしたが、昨日からの大雨による損壊箇所を汗だくで修繕する社務所の方々は爽やかでまるで正成さんの為に働く事に喜びを感じている家臣を見る思いでした•••(^_^)


平成28年7月3日訪城

2015年10月23日 ŧ‹”ŧ‹”。
千早城

まつまさ駐車場より約20分程で
整備された歩道と階段を使って千早神社に到着。
神社の境内が曲輪ではあるのですが
ほとんど遺構は残っておらず
当時の大胆不敵な戦を思い浮かべる事は
難しく、唯一神社の広間で本丸・二ノ丸等が確認出来る感じでした。

口コミのまつまさでは、地場の椎茸使ったうどんやごはん手作り豆腐も頂けます。

駐車場は、ゲートのある時間制パーキングとなっていますが
前者の方の情報通り、食事後割引きをして頂けました。(実質無料)

ちなみに、おばちゃんは弘前城で
100名城達成されたようです。


2014年11月03日 若江河内守國助93.8%指
千早城

スタンプ設置場所の『まつまさ』の隣にコインパーキングがあります。『まつまさ』で買い物をすれば(たしか千円以上、間違ってたらすみません)、駐車料金が一時間無料です。
『まつまさ』のおばちゃんは、御自身の百名城スタンプを90個捺したそうです。スゴい!
(2014年11月2日現在)

2014年10月03日 コロ助
千早城

富田林駅から金剛バス(30分程\540)もしくは河内長野駅から南海バス(40分程\470)で金剛登山口バス停下車。バス停目の前の長い石段を登って、20分程で二の丸の千早神社に到着します。千早神社裏の本丸は「神聖な場所なので立入ご遠慮下さい」の看板があって入れません。本丸をグルっと迂回すると登山道との分岐に出ます。
時間があったので五号目まで登ってみたのですが、城跡は貸切状態だったのに登山道はかなりの人が歩かれていました。
100名城スタンプが置かれている、お食事処兼お土産屋「まつまさ」さんには千早神社の御朱印もあります。既に字が印刷されている物に印を押すタイプで、お店のおばさまに「このお手本見ながら自分でやってみて」と言われて、御朱印に自分で印を押すというレアな体験をさせて貰いました出して下さった椎茸茶も初めての味で面白かったです

2013年09月18日 尾張守ひろっちぃ
千早城

前日から日本列島を荒らしていった台風の影響によりところどころ土砂崩れにより立ち入り禁止の箇所がありました。


2013年04月15日 ひろり
千早城

城址へは、『豆腐のまつまさ』さんからの金剛山登山道を行くと楽です。途中、二合目で山頂と城址への道が分岐していて、城址への道を進むと主郭部にある千早神社にたどり着きます。
千早神社の裏手から表にまわる感じですが、途中には削平地が見受けられました。

金剛バス/金剛登山口バス停、南海バス/金剛登山口からの千早神社参道の階段からだと、かなりきつい石段が続くので心が折れます。段差が高く、石も不揃いなので歩きにくいです。

ちなみに、100名城スタンプは『豆腐のまつまさ』さんにあります。縄張図も頂けました!

2012年05月30日 瀧乃道宮内卿ユズル
千早城

河内長野駅から金剛山登山口への南海バスは一人だと片道\520ですが、二人だと一人\470になります。それとは別に市内バス乗り放題の1日パス(名前忘れた)は\860なので、これが一番お得かもです。



2012年04月16日 junjun式部大輔
千早城

SoftBankは付近圏外。
100名城ですので登城して見ましょう。城は電波OKですよ。

千早城の周辺スポット情報

 本丸跡(遺構・復元物)

 本丸跡(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 城址碑(碑・説明板)

 千早城跡案内図(碑・説明板)

 櫓台跡(碑・説明板)

 国見城(周辺城郭)

 千早城跡茶屋(スタンプ)

 山の豆腐(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 有料駐車場(駐車場)

 有料駐車場(駐車場)

 長く急な階段(関連施設)

 登城口(その他)

 休憩所(その他)

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