長藪城(ながやぶじょう)

長藪城の基本情報

通称・別名

所在地

和歌山県橋本市細川字堂垣内

旧国名

紀伊国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

牲川義春

築城年

文明年間(1469〜1487)

主な改修者

畠山氏

主な城主

牲川氏

廃城年

天正15年(1587)?

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

二見城(奈良県五條市)[7.2km]
千早城(大阪府南河内郡)[7.3km]
真田庵(和歌山県伊都郡)[9.0km]
佐味城(奈良県御所市)[9.7km]
上赤坂城(大阪府南河内郡)[10.1km]
仁王山城(大阪府河内長野市)[10.4km]
烏帽子形城(大阪府河内長野市)[10.7km]
下赤坂城(大阪府南河内郡)[11.3km]
龍泉寺城(大阪府富田林市)[12.2km]
白木陣屋(大阪府南河内郡)[14.6km]

長藪城の解説文



長藪城(ながやぶじょう)は、和歌山県橋本市城山台にあった日本の城。城山台住宅地北側の「城山」に位置する。

概要 

長藪城は、標高350m、比高170mの尾根上にあり、東西約600mに及ぶ。3つの地点から成っており、それぞれ東の城、西の城、出城と呼ばれている。

『紀伊続風土記』によると、楠木正成に従い功を立てた牲川頼俊の子・義春が、文明年中(1469–1487年)に紀伊国伊都郡に入り、長藪城を築いたという。義春は紀伊守護・畠山政長に仕え、谷内郷(橋本川流域地区)13か村、一万石を支配し、義春の子・義信は谷内郷と河内国の2か村を合わせ、15か村を領した。

永禄元年(1558年)、義信の子・義則は三好長慶家臣・松永久秀に攻められて城を明け渡すが、永禄3年(1560年)、義則の子・義次が松永氏から城を奪還した。

畠山氏の没落後は織田信長に従ったが、天正15年(1587年)、義次の子・義清は豊臣秀吉に逆らって討死し、長藪城は落城したとされる。また、秀吉でなく織田信長により攻め落とされたとも伝えられる。

また、確実な文献としては「祐維記抄」の大永4年(1524年)11月条に、畠山義堯方を攻める畠山稙長(政長の孫)が「長藪城衆」を引き連れたとの記述がある。永正10年(1513年)8月には、稙長の父・尚順が長藪城近くにある小峰寺の砦に籠る畠山義英(義堯の父)との戦いのため軍事行動を起こしており(「三箇家文書」)、この時尚順方は長藪城を利用していたとみられる。

これらのことから、長藪城は地元の武士・牲川(贄川)氏の城を基に、紀伊守護・畠山氏が一城別郭式の大規模な城郭へと改修したものと推測される。

参考文献 

  • 【書籍】「紀伊続風土記 第2輯 伊都 有田 日高 牟婁」

長藪城の口コミ情報

2023年03月12日 tracer_azu
霜山城[長藪城  周辺城郭]



霜山城は素晴らしい空堀が残る城でした。I郭と二郭を分断する空堀、両郭をぐるっと囲む空堀特に北側の高低差はすごかったです。 北側は二重の空堀となっており、防御力の重きを置いているように感じました。こちらには土橋も残っています。

II郭内は畑となっており、多少の改変はありそうですが、、空堀が見れるだけでも価値があると思います。

私有地になっております、今回は持ち主の方に連絡させていただきまして、快く見学させていてだけたことに感謝です。

2022年10月30日 近江守Silvine
霜山城[長藪城  周辺城郭]



霜山城は橋本市隅田町にある城で在地勢力、隅田党の城と伝わります。隅田氏は鎌倉期には隅田荘の地頭代で、京の六波羅探題の下でも働きましたが、後醍醐帝による討幕の戦で敗れ本家は滅びることとなります。その後、傍流が荘園に結集したのが隅田党で、室町期には守護畠山氏の傘下に入りました。

遺構は東西二つの郭を堀切で隔て、周囲を横堀で囲んでおり、北は一部二重堀切となっています。小さな城ですが堀は深く、遺構はよく残っています。なお、現地は私有地のため無断立入は禁止となっています。今回は所有者の方に事前に連絡の上、ご好意により見学させて頂きました。

2021年11月21日 花鳥子
織田秀信 墓所[長藪城  寺社・史跡]



岐阜中納言織田秀信の墓所が紀ノ川南岸の寺院跡に存在します。国道から一段上がった場所には顕彰碑、更にその上の素朴な碑が秀信の墓所で入口付近には説明板もあります。

クルマは説明板前の余白に停められます。ひっそり佇む墓所には人気もありませんが、真田庵や高野山の大名墓所へ参られる際はこちらにも是非足を伸ばしてみてください(*´꒳`*)

2019年05月31日 ℵ新居泰之進ℵ
長藪城

紀伊国長藪城 東の城南側竪堀。出城・東の城・西の城と3つの城でU字に構成され、南側を睨みを効かせる。

2019年05月14日 ℵ新居泰之進ℵ
長藪城



紀伊国長藪城 西の城の堀切。楠木正成の家臣だった牲川氏居城。秀吉の紀伊出兵により陥落した。

2019年04月25日 イオ右近衛中将
城址入口Ⅰ[長藪城  その他]



城址入口Ⅰ。出城を経て西の城に至るルートです。

2019年04月25日 イオ右近衛中将
城址入口Ⅱ[長藪城  その他]



城址入口Ⅱ。東の城と西の城の間の谷間から登城するルートです。案内板より先に車で入ると転回できなくなるのでご注意。

2019年04月25日 イオ右近衛中将
城址入口Ⅲ[長藪城  その他]



城址入口Ⅲ。給水塔の下に東の城への登城口があります。

2019年04月23日 イオ右近衛中将
土橋[長藪城  遺構・復元物]



西の城北東下の土橋。西側は急峻な崖。

2018年11月26日 百済門徒衆修理大夫とら❖
長藪城

紀北第一級の山城。登城口は、城山台から3ヵ所。
登城口Ⅰ 出城へのコース。
登城口Ⅱ 東の城と西の城の間の池の脇
を通り、東の城と西の城の中
間の鞍部に着くコース。
登城口Ⅲ 給水塔から東の城へのコー
ス。
どの入口も新しい看板が設置されており、堀切などの案内板もある。登城口Ⅱから西の城までは約30分。周辺は、閑静な住宅街。駐車場なし。


2014年12月08日 邦順大和守大八郎宗久
長藪城

11月登城、三度目の挑戦となる。

前回口コミにて、整備の件で愚痴をこぼした事を反省する散策だった。

前回同様、東の城から挑んだ。相変わらず山林状態で網羅しきれなかったが、堀切や土橋は素晴らしい。

東の城を散策後、主郭のある西の城への道が見つからず、崖を降りると……何と谷間の道と、登城出来るように道を整えられた斜面が!

実は成果皆無な初挑戦時(前々回)に谷間の道を進んだのだが、途中で土砂崩れがあり、無理と認識していたのだが…今回、人がそこを越えた跡を確認した。少し荒れた箇所もあったと思うが、とても登城しやすいルートを整備されていたようだ。

西の城は、東よりは整備されており(道が滑りやすい箇所(所により崖側に強く傾く)もあるが…)、主郭と出城には鳥瞰イメージ図が樹木に付けられている。西の城も堀切や土橋は見応えがある。

出城の南側にロープと非常に滑る土の階段があるが、恐らく私有地に繋がると思われるので引き返すべし。

是非登城して頂きたいので鳥瞰図は載せないが、ベストシーズンは滑る一因となる落葉や、虫も少ない10・11月だろう。

2013年10月07日 邦順大和守大八郎宗久
長藪城

文明年間に牲川義春(にえかわよしはる)が築いたとされる。
標高300mの峰に出丸、北側の347mの峰(地図に示された辺り)に本丸があるが、東側の峰にも城域は跨がり、所々に堀切を備えているようだ。
夏は虫、冬は落葉が登山を困難にする為、今秋に出向いたが…本丸に渡る尾根に向かうには途中、急傾斜を降りる必要があり、他にも乾いた土で滑る可能性が高く、東側のみで断念した。
登頂口は、城山台の貯水池付近の集会所や水道施設辺りの尾根。道らしき跡があり、基準点か何かが道中にある。本丸のある西側に登り易そうな場所があったが、地主が立入禁止としており、本丸と東の峰の間の谷からだと、崖が阻むので素直に東側から行く事。
なお橋本市内の「あさもよし歴史館」で模型が展示されていたらしい(今は不明)林間田園都市駅西口の観光マップに城跡が標されている……が、標す前に城跡を整備しろと言いたくなる。

長藪城の周辺スポット情報

 堀切(遺構・復元物)

 東の城(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 出城(遺構・復元物)

 霜山城(周辺城郭)

 東家館(周辺城郭)

 織田秀信 墓所(寺社・史跡)

 城址入口Ⅲ(その他)

 城址入口Ⅰ(その他)

 城址入口Ⅱ(その他)

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