片岡城(かたおかじょう)

片岡城の基本情報

通称・別名

下牧城

所在地

奈良県北葛城郡上牧町下牧

旧国名

大和国

分類・構造

平山城

天守構造

不明

築城主

片岡氏

築城年

室町時代

主な改修者

松永久秀

主な城主

片岡氏、松永久秀方

廃城年

16世紀後期

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

立野城(奈良県生駒郡)[3.3km]
七郷山城(奈良県香芝市)[4.0km]
箸尾城(奈良県北葛城郡)[4.3km]
椿井城(奈良県生駒郡)[5.2km]
下垣内城(奈良県生駒郡)[5.3km]

片岡城の解説文

片岡城(かたおかじょう)は奈良県北葛城郡上牧町に存在した城。別名下牧城ともいう。

概要
片岡城は標高90m、比高48mの丘陵に建てられ、西側には葛下川と南北には街道があり、片岡谷一帯を支配する位置に築城されたと思われている。興福寺一乗院方の片岡氏が居城とした。近年まで周辺の小字や通称の名に名残が見られた。南方およそ1.2kmには出城の木辻城があった。王寺町には片岡国春の伝承されている墓がある。

沿革
明応7年4月5日(1498年5月5日)に畠山尚順配下の筒井氏が「片岡」を攻め落とした記録があるが、これが当城かは不明である。この時に片岡利持が自害した思われている。また『片岡系図』によると片岡城は16世紀初頭に片岡国春によって築かれたとされる。その後片岡春利の代になり、永禄12年(1569年)4月8日に松永久秀に攻められ、片岡城が乗っ取られ、数日駐留した後に越智氏征伐のため南進していった。その後『大和軍師』によれば、片岡春利は片岡城で抗戦しているところから、再奪取に成功したものと思われる。春利は翌元亀元年(1570年)3月5日、片岡城にて36歳で病死したようである。その後11月19日から20日に松永軍により片岡一帯が制圧し、片岡城も落城したのではないかと推察されている。

天正5年(1577年)8月、松永久秀が織田信長に反旗を翻したため、信貴山城の戦いに先立つ同年10月1日(1577年11月20日)に、明智光秀・筒井順慶・長岡藤孝ら約5千兵で攻城、これに対して松永軍は海老名友清、森正友らが率いる約1千兵で防御したが激戦の末に落城した。ちなみに藤孝の息子である細川忠興・興元兄弟は、この戦いでの働きにより信長から直筆の感状をもらっている。廃城年代は不明。

城郭
本丸部分は南北66m×東西46mで、ここから信貴山城の眺望がよい。この本丸曲輪の北のコーナー部分には、信長公記に記載されている天守に想定するような櫓が建設されていた可能性が指摘されているが、『片岡城跡』によると「安土城以後の新しい城郭の所見をもとに類推した記載であるかもしれず、類似のものがあったとしても、その実態は簡単な隅櫓の類に止まるのではないか」と解説されている。本丸部分とその周辺の帯曲輪が水平に削平されている。

本丸とその東側にある出曲輪の間には、大堀切(空堀)がありこの片岡城の特徴にもなっている。箱掘になっており上幅17m、底幅11mで、途中土橋などがあり判別できにくいが南北に180m以上に渡ってある。『片岡城跡』によると、規模と形態から見て、片岡城でもっとも新しい防御施設であると見てよい、としている。大規模な遮断性の高い防御ラインとなっている。

本丸曲輪の南側にも曲輪がある。東側は削平が不十分であるが、西側は明確に削平している。傾斜部分も含めると東西、南北とも50m以上あり本丸曲輪と同じ規模になる。西縁には土塁がありこの内側に溝状に掘られている。これは後世の畑地開発に伴うものでなければ、不可解な構造となっている。この土塁近くには小さな竪穴があるが、この南曲輪は、以前畑で竪穴は戦時中に掘られたもので、片岡城の遺構ではないと思われている。この南曲輪にも尾根続きを遮断する堀切がある。上幅が14m、底幅6mの箱掘で、本丸東の大堀切と同時期に作られたのではないかと思われている。

階段曲輪がある北側、本丸曲輪の東側にも曲輪がある。この曲輪の土塁が切れていた部分があるが、これは簡易水道を建設した時に崩したものである。この尾根伝いに曲輪があるが、こちらも落差1.5mの堀切、その先にはこの曲輪の虎口がある。また周辺にも曲輪があり、一部は櫓台として機能していた可能性が指摘されている曲輪も存在している。

『片岡城跡』によると、本丸と本丸周辺の帯曲輪が片岡時代のもので、大堀切や他の堀切、その他の曲輪は松永久秀時代に築城されたのではないかと解説している。堀切と土塁の直線的な組み合わせ、大堀切など戦国時代末期にならなければ現れそうにない手法であると指摘している。松永久秀は信貴山城多聞山城の天守等「城名人」と言われ、また織田信長の家臣となってからは織田方の築城ノウハウの交換が行われ、さらに複雑な曲輪の配置が実施されたと思われている。片山城では、大堀切を改修したことで、本丸と南側曲輪を一帯となって防御することで、多様な作戦展開が可能になったと考えられている。
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片岡城の口コミ情報

まるき〜淡路守様[2016年02月01日]
車で行くには少し無理がありそうな場所にありました。
周りは人の田畑、車止めのある道、駐車スペースが無い、踏み切り近くで渋滞する等で…

先に写真アップされている案内板を目指して行きましたが見当たらず、別の案内板を発見しました
前のは古くて差し替えられたのかも知れません。

人の土地っぽいので立ち入りは避けて道からの眺めのみ写真投稿しておきます。
畑の部分は空堀跡らしいです

尚、運営が示すGooglemapの位置も田畑のド真ん中で城の遺構等は確認できず、川を挟んで500メートルほど東の山の上に城址案内板が設置されています。

邦順大和守大八郎宗久様[2012年12月11日]
追記:城内は藪や農地となっているので、散策の際は地元とのトラブルを避ける為に、細心の配慮を心掛けましょう。

邦順大和守大八郎宗久様[2012年12月11日]
永岡(細川)与一郎・頓五郎兄弟が一番槍を果たした舞台。
丘陵東西を流れる河川を濠とし(北で合流し三方を囲む)、最高峰が本丸(笹藪が酷く登頂断念)で周囲に複数郭を持ち、南に削平不充分だが広めの郭(土塁もある模様)に2つの堀切(郭側の堀切の西側に虎口の様な空間がある。神社側には皆無)を備える(南に進むと木辻城。現在は学校の敷地に出る)。参道は後世に拡がったと思われる。
特徴は南北に延びる大空堀で、草藪に阻まれ未確認だが東・北に郭が存在するようで、それらと合わせ傾斜の緩い東の防備となる(西は概ね急)。説明板南の竹林にも残っており、片岡城の見所である。
一説には西麓の竹林は元々は出郭、東の教円寺敷地は馬出とされる。支城は木辻城など複数あるという。
片岡氏は香芝の今泉に存在した雲門寺の蔵主だった者がおり、拠点としたが戦で断絶し、庶流を当主に迎え再興、現在の丘陵に城を構えたが松永氏と争い落城、その後は筒井一門として行動(伊賀転封は従わず)。大坂陣では豊臣方に付くも戦後出家したという。
散策は冬季が望ましい。王寺駅の大和路マップに石垣が描かれているが存在しない(自然石はある)。

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