貝吹山城(かいぶきやまじょう)
貝吹山城の基本情報
通称・別名
- 久米田貝吹山城、貝吹山陣所、池尻城
所在地
- 大阪府岸和田市池尻町644
旧国名
- 和泉国
分類・構造
- 平山城(古墳利用)
天守構造
- -
築城主
- 三好義賢
築城年
- 永禄4年(1561)
主な改修者
- -
主な城主
- 三好氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
岸和田城(大阪府岸和田市)[3.6km]
稲葉城(大阪府岸和田市)[4.0km]
伯太陣屋(大阪府和泉市)[5.0km]
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千石堀城(大阪府貝塚市)[6.0km]
綾井城(大阪府高石市)[7.2km]
小谷城(大阪府堺市)[9.0km]
根福寺城(大阪府貝塚市)[10.2km]
貝吹山城の解説文
[引用元:Wikipedia「貝吹山城」の項目]
貝吹山城(かいぶきやまじょう)は、和泉南郡八木郷(現・大阪府岸和田市池尻町)にあった日本の城(平山城、丘城)。
沿革
貝吹山古墳は、行基が開基したとの伝承がある久米田寺のすぐ隣に位置する。そのことより貝吹山古墳には久米田寺との縁が深い橘諸兄の墓ではないかという古くからの伝承があり、諸兄塚とも呼ばれる。永禄4年(1561年)から翌永禄5年(1562年)に行われた久米田の戦いで三好実休の陣所となる。この戦いでは、高屋城を追われた畠山高政が再起を期して下向先の紀伊から三好勢を攻め、この戦いで実休は戦死する。貝吹山という地名は陣貝を吹いた事が由来ではないかと伝承がある。また、「三好実休、因冢為固、以攻畠山高政」(『和泉志』)とあったり、「三好実休阿波より久米田山に越、橘諸兄卿の御廊を城郭に構へ、一ヶ年ほど居住之由云々」(『泉南記要』)とあり貝吹山古墳に実休が陣城を築いたと伝えられていた。平成4年(1992年)から平成7年(1995年)に岸和田市教育委員会と立命館大学が共同で発掘調査をした。それによると湊焼、羽釜片などの中世遺物が出土し、それに伴う城郭跡である横堀遺構が発掘され、貝吹山古墳が陣城として築かれた事が実証された。
城郭
貝吹山古墳は全長約130m、最長部は標高44m、比高8mで前方が北西に向けている前方後円墳である。この城は、南東に熊野街道があり約500mの地点に位置する。紀伊国の繋がる熊野街道を押さえ、また約3km西には岸和田城があり、後詰とする最適な場所となる。貝吹山古墳の後円部は三段構成となっており、最上段が主郭と考えられている。貝吹山古墳の傾斜面の裾の近くに断面がV字をした溝が四カ所検出され、これが主郭部分を防備する横堀と考えられている。横堀が段築の平坦地ではなく傾斜面に作られているという点も注目されている。前方部は横堀と土塁の組み合わせで防御していた事が報告されており、後円部も同様の普請であったと考えられている。前方部は削平されており、陣城に伴う削平し曲輪として活用していたと考えられるが、築城以前に阿弥陀堂が建っていたとう伝承があり、築城前にもすでに削平されていた可能性がある。また主郭部分と前方部は堀切で分断されている。
後円部の周囲には、土橋で区切られた濠が廻っている。土橋と濠は古墳時代からの形状であったと考えられるが、城郭の防御ラインとしても使用されていた。しかし、土橋部分の防御施設や土橋から主郭までの動線については現状では不明である。発掘調査は部分的なトレンチ調査だけとなっており、城郭の全容を明らかにするまでには至っていない。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線「久米田駅」→東方向に徒歩約1km
- 車でのアクセス
- 阪神高速4号湾岸線岸和田北出入口→大阪府道204号→大阪府道231号→大阪府道30号→大阪府道40号
- 久米田寺に参拝者用の無料駐車場有
参考文献
- 高田徹編『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、212-213頁。
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貝吹山城の口コミ情報
2022年03月18日 イオ左衛門佐
久米田寺[貝吹山城 寺社・史跡]
久米田寺は行基の開創とされる古刹で、南北朝期には両朝から保護を受けて繁栄しましたが、戦国末期に岸和田城の後詰に入った三好実休の本陣となり久米田の戦いによって焼失。江戸中期に再建されて現在に至ります。
2022年03月18日 イオ左衛門佐
貝吹山城
戦国末期に岸和田城の後詰に入った三好実休が築いた陣城で、根来衆の支援のもと再起を図った畠山高政との久米田の戦いで三好実休は敗死し、貝吹山城も廃城となりました。
貝吹山古墳と呼ばれる古墳前期の前方後円墳を改修した陣城で、後円部を主郭とし、裾部に横堀と土塁をめぐらせていたことが発掘調査により明らかになっています。前方部も削平されて、後円部との間には堀切が設けられていました。古墳の東側、南側、西側は三つの周濠で囲まれ、周濠の間には土橋が通っていますが、この周濠と土橋は元々のものらしく、少し手を加えるだけで陣城として活用できる好物件です。現状は古墳のある公園になっており陣城の面影は感じられないものの、後円部に登ってみると、ほんの8mほどの高さの墳丘ながら思いのほか眺望が開けており、好立地であることを実感します。
2020年06月02日 天道式部卿早雲
三好実休戦没地石標[貝吹山城 碑・説明板]
実休戦没地石標の目の前に、ひっそりとある墓石・供養塔?
三好実休を鉄砲で討取ったとされている、根来衆(畠山の援軍)の往来右京のお墓らしいです。
実休が狙撃され三好軍は総崩れとなりますが、右京は三好軍に討ち取られたとか。
※狙撃ではなく、手薄の本陣に斬り込んで接近して実休を討取ったという記録もあるとのことです。
近くには根来姓のお宅や歯医者さんの看板があり、三好を撃退した英雄的なもので地元の人から祀られていたかもしれませんね。
ちなみに、当時は岸和田城・近木川から南の泉南及び紀伊は畠山・根来が主に統治していました。
2019年11月07日 天道式部卿早雲
三好実休戦没地石標[貝吹山城 碑・説明板]
久留米の戦い(三好対畠山)で、落命した三好実休(之虎・義賢)の戦没碑
※但し、俗名の「義賢」は一次資料では見られないようです。
奥にも小さな碑があり、横に「明治 正月」と刻まれていて古くからこの地にあるようです。
ちなみに私有地の一角にあり、道も細いため路駐などは無理です。徒歩等は大丈夫ですが車で行かれる場合は近くの満願寺の裏の駐車場を目指すといいかと思います。
2018年07月16日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
貝吹山城
(続)畠山高政は紀州の根来衆を雇い入れ中でも精鋭部隊の大将格の往久右京を戦闘に投じていた。
勝てないまでも三好実休を討ち取る為にかの満願寺の境内に潜ませた。騎馬上の三好実休がこの寺の前を必ず通るだろうと息を殺し待ち受け、狙い撃った。落馬昏倒する実休を見てズラかる右京。邪魔な実休に致命傷を与えてほくそ笑む畠山高政···と勝手な空想して鳥居まで戻って来た、信号が青に変わり渡って正面の一際大きな家を見た私は鳥肌が立った!その家の表札には何と「根来」!と書かれていた。その北隣の表札も「根来」。(マジか!)私の空想が現実的に思えて驚いた一日でした。
嘘か誠か···推理小説のような体験しました。
2018年07月16日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
貝吹山城
三好長慶とその兄を助ける弟の三好実休。戦国時代の畿内統一をいち早く達成できたのは実休をはじめ優秀な家臣団のお陰。
今日はその三好氏が衰退するきっかけになった久米田の合戦の舞台の貝吹山城へ。
JR久米田駅から南へ歩きマクドナルドを越えて額町会館を過ぎた積川神社の大鳥居まで来ましょう。此れをくぐり東へ歩くと満願寺があり、その二つ隣に三好実休戦没地があります。
貝吹山城はここから東へ歩いて久米田寺隣にあります。市民公園内に古墳群としてあり公園奥の一番大きい古墳が貝吹山城として使用されていたようです。
前方後円墳の円の部分に登るが遺構らしき物もなく残念でした(¯―¯٥)
ここに陣取る三好実休と攻め寄せる畠山高政、三好側優勢であったとの事で瞑想する。城跡散策では、こういう時が一番楽しい(笑)。
久米田寺も散策して来た道を戻り三好実休戦没地に来た時にもう一度見直した。
隣の寺の名前「満願寺」か〜。(願いが満たされた寺···何の?)
三好実休は敗走に移った畠山高政を追撃する為にさっきの貝吹山城を出た。
2017年05月28日 立花左近将監統虎
貝吹山城
貝吹山城は、久米田古墳群のひとつである貝吹山古墳の頭頂部に主郭があったと考えられています。
貝吹山城の周囲には三つの外濠(山田池、ねんど池、どじょう池)があり、それぞれを区切っている土橋から渡ることが出来ます。
古墳の斜面は階段等なく滑りやすいため緩やかな西側から登ると安全です。
残念ながら頭頂部に遺構は見られません。
【駐車場】久米田寺の西側に参拝者用の無料駐車場(第2)有り。
【トイレ】隣の公園内に水洗トイレ有り。
また、公園内には風吹山古墳、無名塚古墳が現存しており、子供たちの遊び場として(!?)親しまれています。
2014年09月16日 康勘解由長官
貝吹山城
登城の際には久米田寺を目指して頂き東側の塔頭・明王院の隣にあります。写真の寺の駐車場は施錠されており解放されていません。池の向こうの城跡に登るには南東側に幅1m程の抜け道がありますのでそこから登れます。特に登りやすい様に整備はされていませんので足元はお気をつけください。頂上には石杭が打たれていますが案内板などはありません。