真鍋城(まなべじょう)

真鍋城の基本情報

通称・別名

眞鍋城、大津城

所在地

大阪府泉大津市神明町6

旧国名

和泉国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

真鍋氏

築城年

南北朝時代?

主な改修者

主な城主

真鍋氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

綾井城(大阪府高石市)[3.6km]
伯太陣屋(大阪府和泉市)[3.8km]
貝吹山城(大阪府岸和田市)[5.1km]
岸和田城(大阪府岸和田市)[5.9km]
家原城(大阪府堺市)[7.3km]
稲葉城(大阪府岸和田市)[8.8km]
小谷城(大阪府堺市)[9.0km]
積善寺城(大阪府貝塚市)[9.3km]
松尾寺城(大阪府和泉市)[9.8km]
堺城(大阪府堺市)[10.2km]

真鍋城の口コミ情報

2026年05月10日 romikun
田中氏陣屋[真鍋城  周辺城郭]



田中氏は新田氏の流れを汲む一族で、上野国新田郡田中村を領していたことから田中姓を称した。元亀年間に田中遠江守重景が和泉郡助松村に移り住み、織田氏に従って石山本願寺攻めに参戦している。江戸時代に入ると帰農し、大庄屋となった。紀州藩による紀州街道の開発に伴って田中氏の屋敷は「田中本陣」「助松本陣」と呼ばれ、紀州藩の参勤時の本陣として利用されて行った。

2026年04月15日 romikun
苅田城[真鍋城  周辺城郭]



苅田城跡

苅田城跡は、現在の穴師小学校南側、JAいずみの穴師支店前に石碑が建つのみで、城郭遺構は一切残っていない中世の平城跡である。別名を池浦城ともいい、在地土豪である寺田氏の居城の一つと考えられているが、築城時期は不明である。

1531年の両細川の乱では、細川晴元の家臣・三好山城守が「池浦の堡」に陣を置いた記録があり、この城が軍事拠点として用いられたことが確認できる。戦国期には寺田知正を当主とする寺田氏が和泉郡寺田村を拠点に活動し、その子である寺田又右衛門・安太夫兄弟は織田氏に仕え、第一次木津川口の戦いに参戦したとされ、苅田城がその拠点であった可能性がある。

周辺は現在宅地化が進み地形も改変されているが、かつては水路が多く海にも近い湿地帯で、防御に適した立地であったと推測される。苅田城は、詳細な歴史は不明ながら、戦国期の泉州における在地勢力の動向を示す城砦跡といえる。


2026/3月現在 JAは移転して 画像の碑は撤去されている。画像は2015年5月17日に撮影した物、この石碑が現在どこにあるのかはわからない。

2026年04月15日 romikun
曽祢城[真鍋城  周辺城郭]



曽根城跡

曽根城跡は、戦国時代に在地土豪である玉井源秀(壱岐守行家)によって築かれたとされる城砦で、泉州の国人領主連合「和泉三十六郷士」の一拠点であった。所在地は弥生時代の大規模集落遺跡である池上曽根遺跡の西隣、現在の曽根神社境内一帯と考えられている。城主には玉井遠江守・駿河守の名も伝わるが、詳細は不明である。

玉井氏は千原城を本拠として和泉郡上条郷に勢力を持ち、両細川の乱では細川氏綱方として各地で戦った。織田信長上洛時には当初本願寺方に属したが後に降伏し、木津川口の戦いで信長方として参戦するも毛利水軍に大敗し、和泉三十六郷士の多くが戦死した。玉井源秀はその後も各地で戦い、天正16年(1588)に没した。

曽根城の遺構は現存せず、境内裏手に土塁とみられる低い盛土が残るのみで、城郭遺構かどうかは不明とされている。

神社由緒には境内に古瓦が出てくるとある。

2026年04月15日 romikun
宇多城[真鍋城  周辺城郭]



泉大津 城の山

府道堺阪南線沿いにある、城の山跡の碑。斉藤主膳の城址ともされているそうです。泉大津市が建てた石碑がありました。

泉大津市HPの記載によると※以下「」引用「地内「字城の山」は、延宝5(1677)年の絵図にも紀州街道の山手に山林が多く占めている場所として描かれ、室町時代の藤林民部大輔、斉藤主膳正の居城跡といわれる。藤林民部大輔は、南北朝時代、大津に城を構え、楠木氏に属し各地に奮戦したという」

画像にある古い民家は2026年現在駐車場になっている。撮影は2015年5月17日

子孫の方の関連企業のHP https://www.fujitoyo-holdings.co.jp/

2026年02月04日 hiroro923
真鍋城

泉大津駅が一番近いのですが案外遠いと感じる方かもしれないです。昔ながらの路地なので歩いて行くか自転車がいいと思います。

2025年12月07日 誰田改メHey御待堂
真鍋城



南海泉大津駅より海側に向かって徒歩数分程度、紀州街道を越えてさらに海側の浜街道沿いの南溟寺(なんめいじ)が城趾の位置とされています。

2025年11月05日 丹波守炒飯桜海老大盛
真鍋城



南海本線の泉大津駅より大体徒歩5分くらい、南溟寺というお寺となっております。お城の遺構とはっきり言えるものは確認出来ませんでしたが、堀を利用したかと想像かき立てられる水路や、道の狭さや入り組み具合に、当時を想像させる感じがあるかと思われます

2025年05月10日 百済門徒衆左衛門尉とら
池上・曽根遺跡[真鍋城  周辺城郭]



池上曽根遺跡(いけがみそねいせき)

国指定史跡で、南北1.5キロ東西0.6キロ総面積60万㎡の全国屈指の規模を誇る弥生時代の集落跡です。 集落の周囲を堀で廻らした環濠集落です。 弥生時代前期から後期に渡り営まれ、弥生中期2200年〜2000年前が最も栄えました。 最盛期の人口は1000人を超えていたと予想されます。 復元された大型掘立柱建物は、圧巻のスケールで、飾りの意匠も素晴らしく、この集落が大変栄えていた事が伺わます。 その前に、出土した直径2mの楠の大木をくり抜いた井戸枠が復元されています。 また他に、小型の寄棟と切妻の掘立柱建物復元が2棟があり、これは貯蔵や作業を行ったと思われます。 住居は、円形の竪穴式住居と方形の竪穴式住居が2棟復元されており、方形の竪穴式住居は内部に入れます。円形のものは老朽化の為、立入り禁止になっていました。

近くの大阪府立弥生文化博物館には、池上曽根遺跡出土物の展示や各地の弥生遺跡の展示物が多数有ります。

縄文の石器から鉄器の時代へ。稲作によって保存貯蓄が格段にアップ。それによって人口の増加。効率的な分業作業によって専門職人が生まれる。 そして武器の発達で殺傷能力が上がり、激しい争いが起こる事になったと考えられる。 農耕社会の発達は、水の確保と土地の維持管理が必須になりました。その為、水利の争いが起こる事になります。ムラ社会の存亡が掛かっているので命賭けで守ります。

2021年05月05日 藤岡治部丞但馬
真鍋城



遺構らしいものはなくお寺の境内の中に石碑がありました。境内の奥には渡辺家の歴代のお墓がありましたが、恐れ多くてあまり奥には入れませんでした。

2021年04月10日 御右京大夫
真鍋城



南海泉大津駅から徒歩5分位、紀州街道の海側になります。周囲には湾曲させた川があり、堀の名残りかと思われます。

2021年02月25日 紅棗大蔵大輔
真鍋城



湾岸府道29号線から下町に入ってすぐ。周りの道は江戸時代からの街を感じられる細さ。車で入るのは厳しそう。江戸時代は眼前に港があったのではと思われる。ここに真鍋しめの兵衛が居たのかもと思うと感慨深い。

2020年01月13日 天道安芸守早雲
真鍋城

先達様も書かれている通り遺構などはなく泉大津・南溟寺に城址の石碑があるのみ。
別名・大津城 吉川英治文学新人賞・本屋大賞を受賞した「村上海賊の娘」(和田竜)の登場人物・真鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)貞友・貞成が城主だったらしいです。
貞友は第一次木津川合戦で織田に従軍し本願寺・毛利・村上水軍を相手に奮闘するも戦死。
後継の嫡男貞成も水軍を率いて、織田・豊臣・福島正則に属し、最後は初代紀州徳川藩主徳川頼宣の家臣となり89歳で逝去したそうです。
城遺構ではありませんが、南溟寺では伯太藩渡辺家の墓所や田の神サ(たのかんさ)というほのぼのした石像が拝見できます。
お寺の西側には浜街道と呼ばれる道があり、歴史ある建物が点在しています
駐車場2台・近くにコインパーキングもあります。


2014年02月27日 和泉守と→18
真鍋城

元は南北朝時代、楠木正成の侍大将の真鍋氏が築城。現在は浄土宗南溟寺。
遺構などはなく、石碑がある状態。

真鍋城の周辺スポット情報

 眞鍋城趾の碑(碑・説明板)

 苅田城(周辺城郭)

 田中氏陣屋(周辺城郭)

 牛滝砦(周辺城郭)

 二田城(周辺城郭)

 宇多城(周辺城郭)

 曽祢城(周辺城郭)

 森城(周辺城郭)

 千原城(周辺城郭)

 池上・曽根遺跡(周辺城郭)

 伯太藩渡辺家墓所(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

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