真鍋城(まなべじょう)
真鍋城の基本情報
通称・別名
- 眞鍋城、大津城
所在地
- 大阪府泉大津市神明町6
旧国名
- 和泉国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 真鍋氏
築城年
- 南北朝時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 真鍋氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
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真鍋城の口コミ情報
2025年05月10日 百済門徒衆修理大夫とら
池上曽根遺跡[真鍋城 遺構・復元物]
池上曽根遺跡(いけがみそねいせき)
国指定史跡で、南北1.5キロ東西0.6キロ総面積60万㎡の全国屈指の規模を誇る弥生時代の集落跡です。 集落の周囲を堀で廻らした環濠集落です。 弥生時代前期から後期に渡り営まれ、弥生中期2200年〜2000年前が最も栄えました。 最盛期の人口は1000人を超えていたと予想されます。 復元された大型掘立柱建物は、圧巻のスケールで、飾りの意匠も素晴らしく、この集落が大変栄えていた事が伺わます。 その前に、出土した直径2mの楠の大木をくり抜いた井戸枠が復元されています。 また他に、小型の寄棟と切妻の掘立柱建物復元が2棟があり、これは貯蔵や作業を行ったと思われます。 住居は、円形の竪穴式住居と方形の竪穴式住居が2棟復元されており、方形の竪穴式住居は内部に入れます。円形のものは老朽化の為、立入り禁止になっていました。
近くの大阪府立弥生文化博物館には、池上曽根遺跡出土物の展示や各地の弥生遺跡の展示物が多数有ります。
縄文の石器から鉄器の時代へ。稲作によって保存貯蓄が格段にアップ。それによって人口の増加。効率的な分業作業によって専門職人が生まれる。 そして武器の発達で殺傷能力が上がり、激しい争いが起こる事になったと考えられる。 農耕社会の発達は、水の確保と土地の維持管理が必須になりました。その為、水利の争いが起こる事になります。ムラ社会の存亡が掛かっているので命賭けで守ります。
2021年05月05日 藤岡大蔵丞但馬
真鍋城
遺構らしいものはなくお寺の境内の中に石碑がありました。境内の奥には渡辺家の歴代のお墓がありましたが、恐れ多くてあまり奥には入れませんでした。
2021年04月10日 御右京大夫
真鍋城
南海泉大津駅から徒歩5分位、紀州街道の海側になります。周囲には湾曲させた川があり、堀の名残りかと思われます。
2021年02月25日 紅棗大蔵大輔
真鍋城
湾岸府道29号線から下町に入ってすぐ。周りの道は江戸時代からの街を感じられる細さ。車で入るのは厳しそう。江戸時代は眼前に港があったのではと思われる。ここに真鍋しめの兵衛が居たのかもと思うと感慨深い。
2020年01月13日 天道式部卿早雲
真鍋城
先達様も書かれている通り遺構などはなく泉大津・南溟寺に城址の石碑があるのみ。
別名・大津城 吉川英治文学新人賞・本屋大賞を受賞した「村上海賊の娘」(和田竜)の登場人物・真鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)貞友・貞成が城主だったらしいです。
貞友は第一次木津川合戦で織田に従軍し本願寺・毛利・村上水軍を相手に奮闘するも戦死。
後継の嫡男貞成も水軍を率いて、織田・豊臣・福島正則に属し、最後は初代紀州徳川藩主徳川頼宣の家臣となり89歳で逝去したそうです。
城遺構ではありませんが、南溟寺では伯太藩渡辺家の墓所や田の神サ(たのかんさ)というほのぼのした石像が拝見できます。
お寺の西側には浜街道と呼ばれる道があり、歴史ある建物が点在しています
駐車場2台・近くにコインパーキングもあります。
2014年02月27日 和泉守と→18
真鍋城
元は南北朝時代、楠木正成の侍大将の真鍋氏が築城。現在は浄土宗南溟寺。
遺構などはなく、石碑がある状態。