岸和田城(きしわだじょう)

岸和田城の基本情報

通称・別名

岸ノ和田城、滕城、蟄亀利城、千亀利城

所在地

大阪府岸和田市岸城町9-1

旧国名

和泉国

分類・構造

輪郭式平城

天守構造

複合式望楼型[5重5階/1597年築/改築]、複合式層塔型[5重5階/1619年改/焼失(落雷)]、連結式望楼型[3重3階/1954年再/RC造外観復興]

築城主

信濃泰義?

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

三好義賢、小出秀政、岡部宣勝

主な城主

小出氏、岡部氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣、横堀(水堀)

指定文化財

府史跡(岸和田城跡)

再建造物

復興天守、櫓、門、石碑、説明板

周辺の城

積善寺城(大阪府貝塚市)[3.5km]
貝吹山城(大阪府岸和田市)[3.6km]
千石堀城(大阪府貝塚市)[4.6km]
真鍋城(大阪府泉大津市)[5.9km]
稲葉城(大阪府岸和田市)[6.7km]
伯太陣屋(大阪府和泉市)[7.7km]
松尾寺城(大阪府和泉市)[8.9km]
綾井城(大阪府高石市)[9.1km]
根福寺城(大阪府貝塚市)[10.2km]
日根荘城館(大阪府泉佐野市)[10.3km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)161 岸和田城

設置場所

岸和田城 天守閣受付[地図

岸和田城の解説文



岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にあった日本の城である。別名千亀利城(ちきりじょう)。江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれた。本丸庭園は国の名勝[1][2]、城跡は大阪府の史跡に指定されている。本丸および二の丸一帯の4.9haは千亀利公園として岸和田市が管理している。

概要 

延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した岸和田治氏という武将がおり(『岸和田治氏軍忠状』)、おそらくその一族によって1400年までに岸和田が開拓されたと見られる(応永7年9月28日『足利義満御判御教書』(『石清水文書』))。しかし、その頃はまだ城廓と呼べるものはなかった。

平成時代の発掘調査によれば、15世紀後半に現在の岸和田城跡から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、16世紀初頭頃に放棄されていた。

その後『日本城郭大系』によると信濃泰義によって現在地に移築されたとしている。

羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとした。松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。文政10年(1827年)に天守を焼失。以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却された。

岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになった。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、縁結びの神社として知られている。桜の季節は花見の名所となり、大阪みどりの百選に選定されている。

日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(161番)に選定された。

沿革 

楠木氏の時代
一次史料からは、楠木正成の部下だった南朝の岸和田治氏という武将もしくはその親族が14世紀に岸和田を開拓した様子が見られる。その後、1400年までには敵である室町幕府の足利義満の手に落ちた。しかし、これらの文書には岸和田に城が築かれたという記述はない。

かつては、楠木正成の甥和田高家という人物が岸和田城を築城したという伝説があった。しかし、これらの文献の出典を遡っても江戸時代初期にまでしか到達せず、しかも岸和田に城があったことを示す最初の一次史料は後述の永禄元年(1558年)に三好氏が同城に入ったことを記した浄心院快栄書状(永禄元年12月12日付、京都府立総合資料館所蔵「板原家文書」)まで下ることになる。山中吾朗は当時の和泉国の状況から岸和田城の築城をどんなに早くても15世紀とし、和田高家に関する伝承は江戸時代に盛んになった楠木氏崇拝の風潮によるものとする[3]

平成時代の発掘調査によれば、岸和田古城が築城されたのは15世紀後半と言われ、岸和田の支配権が南朝/楠木氏部下の岸和田氏から北朝/室町幕府の足利氏に移った14世紀後半から100年近くも後である。

和泉守護細川氏の時代
応永15年(1408年)細川頼長と細川基之が和泉国の上下半国守護となり岸和田城の城主となったようで、その後和泉守護細川家が岸和田城と関わりを持っていく。明応9年(1500年)には、和泉上守護細川元有と和泉下守護細川政久が畠山尚順に攻められ岸和田城で討ち死にしたおりには、管領・細川政元の重臣・赤沢朝経が城を奪還した。その後、両細川の乱により細川元有の子・細川元常が阿波に逃れると、細川高国政権下において細川高基、細川晴宣が和泉守護となり、守護代松浦氏の松浦盛・松浦守父子と共に岸和田領の統治をおこなった。

大永7年(1527年)、阿波の細川晴元が細川高国との決戦に勝利し(桂川原の戦い)、和泉堺を本拠とした「堺公方府」を設置、細川元常・その子細川晴貞が和泉守護に帰り咲いた。この時、松浦守は引き続き守護代として統治に関わっている。しかし、天文17年(1548年)細川晴元とその重臣・三好長慶が対立すると、松浦守は、和泉上守護・細川晴貞から離反し三好長慶についた。松浦氏は三好政権の下でも和泉国における支配的な地位を確保し続けていたとみられているが、松浦守の没後に跡を継いだ松浦万満(孫八郎)は幼少であり、三好政権は松浦万満の立場を認めつつもその後見を口実に岸和田城に兵を進めることになる(「九条家文書」所収:永禄2(3?)年4月23日付三好長慶書状)。

松浦氏の時代
永禄元年(1558年)には、三好長慶の実弟・三好実休、十河一存、安宅冬康が岸和田城に入った。永禄3年(1560年)には三好実休が大規模な改修をし、十河一存、安宅冬康を総大将に2800兵を籠城させた。この時には岸和田城も相当な規模となっており、阿波国、讃岐国、淡路国などから摂津国、京への交通の要となっていた。現在の二の丸(二の丸公園)にある市民道場「心技館」の建設時に、今の石垣の内側に更に古い石垣の列が発掘されたことにより、当時は海に面した二の丸周辺が主郭ではないかと思われ、海を背負った城郭の基礎がこの時に完成したのではないかと推測されている。

永禄5年(1562年)畠山高政との久米田の戦いで三好実休が戦死すると、安宅冬康は岸和田城を退き代わって守護・細川刑部(細川晴貞)が城主となった。しかし同年の教興寺の戦いで畠山高政が大敗すると、再び三好長慶軍が岸和田城を回復し、松浦虎が城主になった。だが、当時松浦氏は一族に内紛を抱えていたらしく、この時城主になった松浦虎(孫五郎)は松浦万満(孫八郎)の対立者であったと推定され、後に同じ肥前守と名乗った松浦光(孫八郎)に城主が交替したことが確認できるなど、三好氏と畠山氏の狭間にあって松浦氏は混乱のうちにあったと考えられる。

織田氏の時代
元亀年間において松浦光が岸和田城主となっており、河内高屋城主の畠山昭高と共に織田信長に従い三好三人衆、篠原長房、荒木村重らと戦ったが、天正3年(1575年)に家来であった寺田又右衛門、寺田安太夫(松浦宗清)兄弟に討たれ、松浦宗清が城主となり佐久間信盛の与力として活動することになった[4]。天正4年(1576年)織田信長が石山本願寺を攻めた。天王寺の戦い (1576年)である。そこに毛利氏が援助のため兵糧を貝塚に運搬し、これを阻止するため和泉国水軍(沼間、松浦、寺田、真鍋)が立ちはだかったが大敗した(第一次木津川口の戦い)。天正5年(1577年)、織田信長は紀州征伐を行い、紀伊方面の抑えとして織田信張を佐野砦に置いた。その後、織田信張は岸和田城へ移った。天正10年(1582年)、和泉一国が蜂屋頼隆に与えられ、岸和田城がその居城とされた。

中村氏:小出氏の時代
天正11年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下に置き、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じる。そんな中天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの留守を狙って、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万兵が侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきた。これに対して中村一氏と松浦宗清は城兵8000兵で守り切った(岸和田合戦)。この時、無数の蛸に救われたという伝説がある(蛸地蔵伝説)。この功により松浦宗清は加増されて、伊勢国に転封となった。豊臣秀吉は根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍を追討するため、天正13年(1585年)に岸和田城に入城し、そこから貝塚の諸城を落城させ最後に積善寺城、沢城を開城させた(千石堀城の戦い、紀州征伐)。

この合戦の後、豊臣秀吉は小出秀政を岸和田城の城主とした。最初4千石であった小出秀政の知行も、文禄3年(1594年)1万石、翌文禄4年(1595年)3万石に拡大した。『岸城古今記』にはこの年から天守が築城され慶長2年(1597年)に竣工したと記している。

江戸時代
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、のちに北条氏重、その後は小出吉英、元和5年(1619年)松平康重が城主となったようである。その後元和9年(1623年)に伏見城が破却されると矢倉などが移築され城郭が強化された。その松平康重も山崎城へ転出すると寛永17年(1631年)、高槻城より岡部宣勝が入城し、6万石の城主となった。以後岡部長職の時代まで岡部氏13代の居城となる。明治4年(1871年)廃藩置県により岸和田城も廃城となる。

紀州監視の岸和田城 

岸和田城は大坂城和歌山城の中間地点にあり、通説では岡部宣勝は徳川家康の妹の子で、紀州藩の監視の意味もあったとされる。

徳川御三家の一つである和歌山城も徳川幕府の相互監視政策に例外は無く、徳川家康の子徳川頼宣の抑えの城としても城郭が整えられたのでは思われている。『深訪日本の城』によると、江戸城で徳川頼宣と岡部宣勝が対面した時、徳川頼宣が「貴殿が岸和田に移封されたのは、われらの目付のためだという風聞であるが、いかなる計策をもって紀伊をおさえるつもりか」と問いかけてきたのに対して、岡部宣勝は「われら小藩のものが、大大藩の貴殿のおさえるほどの策略を持ち合わせるきずもござらぬが、ただ足の裏に米粒がついたぐらいのことしかできませぬ」という返事をした、と解説している。このようなやり取りがあったと思われているが両藩は戦を交えることはなかった。

しかしながら、岸和田城の縄張が和歌山側より大坂側に厚い防御線を設けていることなど、矛盾する点も指摘されている。

岸和田城の略年表 

和暦 西暦 主な出来事
応永15年 1408年 細川頼長・細川基之が和泉国の上下半国守護となり岸和田城に入る
明応9年 1500年 畠山尚順が和泉上下守護を破り城を落とすが、赤沢朝経に奪還される
永正5年 1508年 細川元常が阿波に逃れ、守護代の松浦盛が岸和田領を統治する
永正8年 1511年 細川元常が再び阿波に逃れ、細川高基、細川晴宣が和泉上下守護となる
大永7年 1527年 細川晴元が「堺公方府」を開き、細川元常が和泉守護として帰還する
天文18年 1549年 江口の戦いで三好長慶が細川晴元を倒し、松浦守が城主となる
永禄3年 1560年 長慶の実弟・十河一存が岸和田城に入り、松浦万松を後見する
永禄5年 1562年 畠山高政が久米田の戦いに勝利し、松浦虎が岸和田城に入る
永禄9年 1566年 松浦光が三好三人衆に敗れ、岸和田城に籠城する
天正3年 1575年 松浦光が家臣の松浦宗清に討たれる
天正5年 1577年 織田信長が紀州征伐を行う。その後、織田信張が岸和田城に入る
天正10年 1582年 織田重臣の蜂屋頼隆が岸和田城に入る
天正11年 1583年 羽柴秀吉の家臣中村一氏が岸和田城に入る
天正12年 1584年 根来衆・雑賀衆が来襲し、岸和田合戦がおこる(蛸地蔵伝説)
天正13年 1585年 羽柴秀吉が岸和田城に入り根来寺を焼く。ついで小出秀政が城主となる
慶長2年 1597年 岸和田城の天守が竣工する
元和5年 1619年 小出氏転封後、松平康重が入城して総構えと城下町を整備する
元和9年 1623年 伏見城より伏見櫓が二の丸に移築される
寛永17年 1640年 松平康重転封後、高槻城より岡部宣勝が入城する
文政10年 1827年 天守が落雷のため焼失。再建されず
明治4年 1871年 廃藩置県により岡部長職は東京に居住し、岸和田城は廃城となる
昭和18年 1943年 大阪府史跡に指定される
昭和29年 1954年 現在の連結式望楼型3重の復興天守が再建される
昭和44年 1969年 多門櫓・隅櫓、櫓門が復興再建される
平成4年 1992年 天守閣屋根の葺き替え、外壁塗り替えなどの改修工事が行なわれる

城郭 

『泉邦四県石高』によると、

とあり大坂の陣後に本格的な城郭、総構えが整えていたのではないかと推察されている。東西は約370m、南北は約650mの平城で、5万3千石の城郭であった。

本丸

天守
現在の天守は連結式望楼型3層であるが、正保年間に幕府へ提出された正保城絵図「泉州岸和田城図」では5層の天守が描かれている。初層は千鳥破風であったが、後に唐破風が取り入れたように見受けられる[5][6]。文政10年(1827年)11月20日落雷によって消失し、その後江戸幕府に復興願いを届出済みで、それによると3層の天守、2層の小天守とあるが結局は再建されなかったようである。天保年間に描かれた「岸和田城図」には隅櫓しか描かれていないので、この時には既に天守はなかったものと思われている。明治時代以後、天守台の石垣の横に一段低い小天守台があったと言われているが、これは二の丸にあった伏見城の移築櫓が3層であったため、それを代用していた可能性も指摘されている。天守台の大きさは南北、東西共に約18m、面積は336m²で、当時の岡山城と同規模の天守だったと思われている。現在の天守の高さは約22mであるが、当時の天守の高さは18間あり、今の天守より約10mは高かったと思われている。また、本丸の面積は約4702m²ある。

現在の天守は昭和29年に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などにより再建された。総工費は当時の金額で3460万円、設計士は一級建築士池田谷久吉、施工は岩出建設株式会社、工事は昭和29年1月6日起工、同年11月13日竣工。当初は図書館として利用されていた。また、平成4年には大改修工事も行なわれた。総工費は3億7801万円、設計は株式会社比石英二建築事務所、施工は岩出建設株式会社、工事は平成3年8月起工、平成4年8月31日竣工。[7]

犬走り
本丸の石垣には南東および南西側下部に周堤帯が存在する。これを犬走りと呼ぶ。城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていない。脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力である。この犬走り周辺の石垣は平成11年 (1999年)6月28日の豪雨で崩れ、今は強度のある花崗岩で補修され色の違う石垣が見受けられる。また補修工事の時に、百数十基の墓石が発見された。年号は、永正、天文、永禄等16世紀前期-中期のものが多く、本丸の石垣は永禄年間(1560年)以後であることが裏付けられた。

八陣の庭
国の名勝(平成26年10月6日指定)[8][9]。重森三玲の設計で、昭和28年(1953年)7月に着工し同年12月竣工した砂庭式枯山水庭園である。庭園は諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、中央の大将と先端の天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣に石組みが配されている。

二の丸

二の丸には「二の丸御殿」と伏見城から二の丸北隅に移築されたとされる「伏見櫓」があった。戦国時代まではこちらが本丸であったと思われ面積は約8000m²ある。ここでは、平成13年度に行われた調査で確認された戦国末期の鍛造土坑から、墨に混ざってフイゴ羽口10本以上、鉄かす100個以上が出土した[10]

現在は二の丸公園として整備されている。昭和32年に20匹のアカゲザルが市民から寄贈されたことをきっかけに猿舎が二の丸公園内に整備され、昭和36年には市民道場「心技館」も建設された。猿舎のアカゲザルは昭和50年頃には40匹まで増えたがその後皮膚病などの流行で減少し、平成23年11月24日には最後の1匹が岸和田市中央公園に移送されて猿舎は終焉を迎えた。なお、移送された最後のアカゲザルは平成24年1月5日に同公園で死亡した。同年5月28日には二の丸広場観光交流センターが開館。

二の曲輪

二の曲輪は内堀の外側、一重目の外堀の内側にあり、主な施設としては「太鼓部屋・軍科倉庫」、「極楽橋」、「向御屋敷」、「家老中家屋敷」、「新御茶屋」、「家老久野家屋敷」、「御薬園」、「牢屋」、「西大手門」などがあったが、現在これらの施設は消滅している。また、二の曲輪の西部には鐙のような形をした「あぶみ堀」があった。これは二の丸が本城であった頃、馬出の名残ではないかと考えられている。

「太鼓部屋・軍科倉庫」の跡地には明治13年に岸和田郡役所(のち南・日根郡役所→泉南郡役所)が設置され、昭和16年より岸和田市役所の所在地となっている。また、「家老中家屋敷」の跡地には明治31年に大阪府第六尋常中学校(現・大阪府立岸和田高等学校)の校舎が建設され、「向御屋敷」跡地も同校の運動場として利用されている。

「新御茶屋」の跡地には昭和4年から10年をかけて造営された「五風荘」がある。回遊式の日本庭園で3000坪の敷地があり主屋と庭園を見渡せる3つの茶屋があり、庭園の見学は自由となっている。平成31年4月より岸和田グランドホールが五風荘の指定管理者となっており、和食レストランとして活用されている。また、西隣の「家老久野家屋敷」の跡地はコインパーキングの「タイムズ五風荘」となっている。

三の曲輪

二の曲輪の外側にあり、「北口門」、「坂口門」、「御勘定所」、「東大手門」、「牛頭天王社」、「八幡社」、「神明門」、「神明社」、「南大手門」、「三の丸神社」などがあった。

町曲輪・外曲輪

紀州街道が町曲輪・外曲輪を縦貫し、街道筋に「伝馬口門」、「内町門」、「堺口門」が設置されていた。また、町曲輪の北東に「北大手門」があった。

浜の石垣

町曲輪・外曲輪の北西縁には「浜の石垣」が築かれ、町曲輪の出入口として浜の石垣に2箇所の「汐入門」が設置されていた。松平康重が藩主の時代に、当時の海岸線沿いに築かれたもので、約800mにわたって整備され、沿岸防衛や防潮堤の役割を果たしていた。

明治以降に取り壊しが進み、現在では中町児童公園のそばに幅9m、高さ2mあまりが残存するだけになっており、当時の海岸線や岸和田城の外郭の規模を示す貴重な資料となっている。[11]

改修

『岸和田城跡』によると、主に3段階の改修があったと思われている。

岸和田城の改修の歴史
回数 年代 主な特徴
築城当初 -1585年 現在の二の丸を主郭し、二の曲輪に「あぶみ堀」があり南西に馬出を備える。
二の丸付近まで海水が差し込み、芦原が広がっていたと思われている。
第2次改修 1585年-1620年 小出秀政が城主となると、天守を含めた城郭設備、城下町建設に取りかかる。
城下町は町曲輪のみで本町・中町がこれにあたる。
第3次改修 1620年-1660年 松平康重時代に海岸部と城下町を区切る浜の石垣が築かれる。
町曲輪の南に南町、北に堺町・魚屋町・北町にあたる町域が成立。
岡部宣勝時代には外曲輪が築かれ堺町がこの内となる。
更に南町雄心寺跡地と沼村領内にそれぞれ新屋敷が築かれ、
寺前川寺前橋から鯔川勘太夫橋まで南北約1.9kmの城下町が完成する。

その他 

  • 岸和田だんじり祭
    • 有名な岸和田だんじり祭りは岡部氏3代目岸和田城主長泰が城内三の丸に伏見稲荷神社を勧請し(→三の丸神社)、五穀豊穣を祈願する稲荷祭りに領民の参拝を許したことが起源とされる。
  • 岸和田城天守閣で結婚式
    • 岸和田城の天守閣で人前結婚式を挙げるプランを岸和田市観光振興協会が主催している。運営と企画は泉大津市のホテルサンルート関空。
    • 岸和田市出身のお笑いコンビ・シンクタンクのタンクも、ここで式を挙げたことがある。
  • 不法投棄問題
    • 岸和田市は、岸和田城の石垣調査を実施するに当たり、2013年1月15日から2月7日までの間に内堀の水を抜き取ったところ、自転車やミニバイク、家電製品など多数の廃棄物が不法投棄されているのが見つかった。同市は、夜間に投棄されている可能性があると判断し、大阪府警岸和田署に警備強化を依頼するなどしている[12]
  • 新型コロナウイルス
    • 2020年5月11日-5月31日まで新型コロナウイルスの大阪モデルの見える化でライトアップ。

城内の主な施設 

  • 千亀利公園 - 本丸への入場については下記の施設情報を参照
    • 天守
    • 八陣の庭
    • 多門櫓・隅櫓
    • 櫓門
    • 二の丸広場観光交流センター
    • 市民道場心技館
    • 二の丸広場
  • 岸和田市役所
  • 大阪府立岸和田高等学校
  • 五風荘
  • 五風会保育園
  • 日本基督教団岸和田教会
  • 岸和田だんじり会館
  • 岸和田市立自泉会館
  • 日本聖公会岸和田復活教会
  • 岸和田市立図書館
  • 岸和田市立岸城幼稚園
  • 岸城神社
  • 岸和田労働基準監督署
  • 三の丸神社

施設情報

  • 所在地
    • 大阪府岸和田市岸城町9-1
  • 開場時間
    • 午前10時~午後5時(入場は午後4時まで)※お城まつり期間中の指定日は午後8時30分まで(入場は午後8時まで)
  • 休場日
    • 毎週月曜日(祝日・休日の場合、お城まつり期間中は開場)
    • 年末年始(12月29日~1月3日)
  • 入場料(天守)
    • 大人300円
    • 中学生以下無料

交通アクセス 

電車
  • 南海本線 蛸地蔵駅 - 最寄駅。南大手門跡付近に所在する。
  • 南海本線 岸和田駅 - 特急停車駅。南口から徒歩約5分で東大手門跡(城見橋交差点)に至る。
バス
  • 岸和田市地域巡回ローズバス(南ループ) 市役所前停留所 - 岸和田駅前停留所より約5分。
  • 阪神高速4号湾岸線 岸和田南出入口→大阪府道29号大阪臨海線→大阪府道39号岸和田港塔原線→大阪府道204号堺阪南線
    • 城内に有料駐車場あり

参考文献 

  • 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、200-207頁。
  • 『探訪日本の城』6 畿内、小学館、1977年9月、145-146頁。
  • 西ヶ谷恭弘・光武敏郎『城郭みどころ辞典-西国編』東京堂出版 、2003年9月、70-71頁。
  • 岸和田市立郷土資料館『戦乱の中の岸和田城-石山合戦から大坂の陣まで-』岸和田市立郷土資料館、2004年9月、28頁。
  • 【書籍】「日本歴史地名大系 」
  • 【書籍】「護持山朝光院天性寺所蔵『天性寺聖地蔵尊縁起』の成立過程-地蔵菩薩の利生譚から岸和田城史譚へ 」
  • 『岸和田城いまむかし』岸和田市立郷土資料館。
  • 『岸和田散策マップ』岸和田市観光振興協会。

岸和田城の口コミ情報

2022年05月10日 小太郎民部大輔南海道12國守
岸和田城



石垣、堀等中村一氏が、城主として、紀州一揆の大軍を押さえきった重厚さがただよっています。続名城百選スタンプと御城印は、天守入口に設置、販売されており、また天守前には、昭和の作庭ですが、国の名勝である八陣の庭が設計されています。諸葛孔明の八陣法をテーマに、中央に大将、周囲に、天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の各陣を配しており楽しめます。

2022年05月07日 いのちゃん吉法師
岸和田城



天守閣はもちろん庭園や二の丸など見どころ満載のお城でした。

2022年04月01日 尼崎城刑部大輔一口城主
岸和田城



3月30日に大阪城、尼崎駅、岸和田城🏯の三城巡りで登城。桜🌸が綺麗に咲いており人出の多い日でした。城内ですが明智光秀公の肖像画(複製)が展示してありました。岸和田市内に肖像画を保管しているお寺があるようです。最上階からの眺めは東西南北見晴らしが良く、淡路島、六甲🌊や奈良、和歌山方面の山々が良く見渡せます。帰りに天守を出た向かいの無料資料室でフラッシュ📸をたくとタコ🐙が出てくるパネルを撮りました。昔、戦いでタコがお城を守った伝説があるようです🐙その後、知人の車🚙で大阪城に向かい参城制覇しました🤟ただ最後は、登城受付ギリギリの時間でばたついており携帯を車内にノックオンしていたため大阪城のリア攻めに失敗してしまいました😭

2022年01月04日 永久楽尾張守マクシミリアン
岸和田城



水堀に囲まれた本丸に、石垣と再建された小ぶりな天守が「お城らしい」感じがします。大きな破風が見事な天守です。

2021年12月27日 楊美濃守威利
岸和田城



風が強い日でした。近世城郭らしく、お堀、石垣は立派でした。蛸地蔵伝説の天性寺に行きましたが、道が狭く大変でした。

2021年07月06日 若江河内守國助93.8%
護持山朝光院天性寺(蛸地蔵)[岸和田城  寺社・史跡]

海から現れた蛸の大群が、岸和田城の危機を救ったという伝説が残る。

2021年04月01日 くまなみ
岸和田城



岸和田駅から線路沿いに南へ5分程、信号を渡った辺りの住宅街から本来の城の敷地内で石垣の跡が点在している。桜の時期は人が多いので夕方頃がおすすめ。

2021年03月29日 直江山城守優介
岸和田城



周りの水堀もそんなに大きくないので簡単に一周出来ていろんな角度から写真が撮れます。城内の展示室はこじんまりとしてます。犬走りが興味深いです。

2021年02月18日 九枚笹
岸和田城



城内には藩主岡部家に関する文書や、岸和田の街について学ぶことができる。また、城内は暖かく、非常に快適である。

2020年12月16日 もじゃ弾正忠
岸和田城



庭園の八陣の庭を天守から見下ろすのが一番の見どころです。広く無いので一周して裏側からみるのもおすすめ。

2020年08月14日 福山大蔵丞武市
岸和田城

続100名城スタンプと御城印は天守閣の入場料を払わなくても受付でゲットできます。

2020年08月14日 藤岡木工助但馬
岸和田城



お城の西側に駐車場があり、そこに車を止めて本丸へ。時間がなかったので天守閣には入らず主に二の丸本丸を散策しました。現在は三層の天守ですが、昔は五層だったみたいです。また今度天守閣と外堀を見にいくつもりです。

2020年02月01日 HALVERT
岸和田城

岸和田城は令和2年2月1日〜15日まで臨時休場です。
続100名城スタンプは近隣の岸和田だんじり会館2階に設置されています。
休館の場合は市役所にて対応とのこと。
現地に行っても案内がなく困りましたので、口コミさせて頂きました。

2019年07月26日 さびぃ
岸和田城防潮石垣跡[岸和田城  遺構・復元物]



元和5年(1619)以降に整備された海岸付近の防備目的の石垣。細い路地の民家の横にひっそりと残っています。(岸和田城から迷いながらでしたが歩いて10分ほどでした☆)

2019年06月09日 長月河内守十六夜
岸和田城



6月末まで、漆喰など補修工事中で、櫓は足場に覆われていました。
本丸石垣の犬走に鳥が休んでいて、なんだかのんびり感。

2019年05月11日 おおさかなおみ
岸和田城

隅櫓と漆喰塀の瓦の修繕工事のため令和元年5月7日(火)~25日(土)臨時休場とのこと。スタンプは近くのだんじり会館の2階で頂きました。

2019年05月04日 かなやん太政大臣
岸和田藩薬園跡の駐車場[岸和田城  駐車場]

1時間までは無料です。

2019年04月30日 ミック治部少輔
イタリアンレストラン[岸和田城  その他]

二の丸公園にイタリアンレストランあります

2019年04月24日 和泉守と→18
三の丸神社[岸和田城  寺社・史跡]

岸和田だんじり祭発祥。
今川義元の兜が奉納されている。

2018年10月02日 あゆわらし
岸和田城

10月2日現在、台風21号の被害の為、本丸には入場出来ません。天守に被害はありませんが、庭園の樹木がかなり倒れたようです。なお、続100名城スタンプは、市役所別館4階の観光課にあります。

2018年04月30日 隠居中エドワウ・マス
岸和田城

2018年6月12日(火)は、展示入替の為、臨時休業みたいです。ご注意下さい。

2017年09月30日 ポリタンク大和守
岸和田城

現在、岸和田古城の石碑は住宅地の一画にありますが、石碑が元々あった日照山(宅地造成で消滅)は現在地よりももう少し東にありました。石碑の現在地への移設に伴い、岸和田古城の案内板も併せて設置されています。

2017年08月09日 織田上総介晃司
岸和田城

岸和田城側の縦列駐車スペース(無料)に停める。

岸和田城の遺構は本丸・二の丸の石垣と堀が現存。本丸半周の犬走りは広く、天守と合わせ、見ごたえあり。

岸和田城を守った蛸地蔵。気になる。

岸和田はだんじり祭りが有名。勇ましく町内を練り回り毎年怪我人がでるらしい。

2016年09月23日 橘若狭守次郎吉
岸和田城

岸和田城の天守閣の入場料は大人300円、中学生以下無料。25人以上で団体割引で3割引。岸和田城天守閣・岸和田だんじり会館・きしわだ自然資料館の共通入場券(300円)もあります。

毎週月曜日と年末年始(12/29~1/3)が主な休み。10時から17時(最終入場は16時まで)まで開場しています。

岸和田城天守は文政10年に落雷によって焼失。昭和29年に鉄筋コンクリートで再建されました。城壁と櫓も昭和44年に再建。天守閣の内部は岸和田城や城主に関する物が展示されています。最上階からの眺めは最高!

天守閣の前の『八陣の庭』は庭園設計の第一人者、重森氏が室町期以前の城郭平面図をもとに地取して設計されたものです。

個人的には岸和田城の本丸を半周している『犬走り』が素晴らしいと思いました。

岸和田城下には美味しいものが沢山あります。特に岸和田城主岡部公に献上されていた岸和田名物『時雨餅』!上品な甘さが美味!特に創業280年の竹利商店のが個人的には好きです。岸和田城にお越しの際にはぜひ!

2016年07月25日 シバヤン近江守雲外蒼天
岸和田城

櫓門くぐると左右から挟みうちになる仕掛けが(^^)。左側通行に従い道なりに岸和田城の歴史案内板を見ながら上がりこの城の目玉、八陣の庭。
天守閣の入場料300円、中学生以下無料。
最上階からは泉州の港、東側からは生駒、葛城、和泉山系の眺めが•••ええ感じです。

岸和田城、1334年楠木正成の家臣和田五郎が、岸の町に築城して統治。岸の和田から岸和田と呼ばれるようになり今の岸和田市の地名の由来になったそうです!
大阪に居ってこの時初めて知りました。
この城の近く市役所別館の紀州街道北には岸和田自然資料館には発掘調査で見つかった、ナウマン象やアンモナイトの貝類などが展示されています。

紀州街道沿いに小山梅花堂の生チョコ大福は片岡愛之助さんも買いに来てると言う美味です!また、少し北には小川のコロッケがあります。小腹がすいたら食べてみて下さい。

あの勇壮で名高いだんじり祭りの怖いイメージが強いですが、優美な城、優しい街並みに接して私のイメージも180度変わりました。
和田氏から続く善政の影響かなと思いました•••(^_^)



2016年07月25日 シバヤン近江守雲外蒼天
岸和田城

南海電車岸和田駅から線路沿いに南へ歩き、岸和田駅南の交差点を渡り右へ海に向かい歩きローソン+を左に入り道なりに歩いたら岸城神社です。
岸城神社の裏に岸和田城がにょきっと青空につきたってます。
今回は電車ですが、車で来られるなら、城南側の五風荘のとなりに駐車場あります。がんこ寿司で食事された方に駐車サービス券貰えます。(実質無料)
まず、五風荘前からお城の石垣を見て左右の石垣が違うことに気づきます。中心から
右側は、打ち込みハギ(隙間に小さい石入り)。左側は切り込みハギ(隙間のないように石加工)になってます。歴史を経て改築されたようです。目線を少し下に、堀周りに犬走りが城の東面から南面に設けられています。防御の点から不利な設備ですが、破壊された石垣を修繕する足場に使う為につけたようです。
戦国時代後期は火気兵器登場で石垣の破壊もされるようになったからやと思います。
何せ相手は根来衆、雑賀衆の鉄砲集団。しかし、この東側と南側から美しい!眺めの良さに暫し見とれます。
南側から入り左側に二の丸、右側に天守閣に入る櫓門。天守閣に入ります(^_^)
(続く)



2015年03月21日 石工集団穴太衆【兒】
岸和田城

八陣の庭、昭和を代表する作庭家重森三玲が諸葛孔明の八陣法を取り入れ、大将を中心に天、地、風、雲、龍、虎、鳥、蛇と各陣を配してます。

2014年02月05日 和泉守と→18
岸和田城

岸和田城は300円で入城できます。 だんじり祭り当日以外は混雑しないです。
近くには、だんじり会館があり、だんじりの博物館があります。
そして近くにある紀州街道の町並みも魅力です。

2011年07月30日 太政大臣M三郎
岸和田城

岸和田城は、並立する本丸、二の丸を広い水堀と郭が取り囲む平城です。現存する本丸、二の丸周辺の石垣には、様々な様式が混在し前の構造を巧く使いながら何度も増補された形跡が見てとれます。総体的に二の丸の方が、石垣の反りが大きく、算木積も発展途上の様式であり古いようです。一方、本丸は、反りが小さく急峻な高石垣で囲まれ、荒い打込接から犬走を持つ切石布積まで、多種のものが入り組み、興味を引きます。また、模擬天守始め、多くの櫓、城門、多聞、塀など、往時の様子がよく再現されており、町の人達の心意気を感じます

岸和田城の周辺スポット情報

 大手櫓門(遺構・復元物)

 本丸隅櫓(遺構・復元物)

 岸和田城防潮石垣跡(遺構・復元物)

 岸和田藩主の墓(遺構・復元物)

 伏見櫓跡(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 百間堀(遺構・復元物)

 岸和田古城(周辺城郭)

 今城(周辺城郭)

 三の丸神社(寺社・史跡)

 三の丸神社(寺社・史跡)

 岸城神社(寺社・史跡)

 護持山朝光院天性寺(蛸地蔵)(寺社・史跡)

 岸和田城受付(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 岸和田藩薬園跡の駐車場(駐車場)

 200円駐車場(駐車場)

 イタリアンレストラン(その他)

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