根来寺(ねごろじ)

根来寺の基本情報

通称・別名

根來寺、根来城

所在地

和歌山県岩出市根来

旧国名

紀伊国

分類・構造

城郭寺院

天守構造

なし

築城主

覚鑁

築城年

大治5年(1130)

主な改修者

主な城主

根来衆

廃城年

遺構

大塔等

指定文化財

国史跡

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

古和田城(和歌山県紀の川市)[3.9km]
北野城(和歌山県和歌山市)[6.8km]
猿岡山城(和歌山県紀の川市)[8.2km]
和佐山城(和歌山県和歌山市)[8.2km]
日根荘城館(大阪府泉佐野市)[9.8km]

根来寺の解説文

根来寺(根來寺)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。山号を一乗山と称し、詳しくは一乗山大伝法院根来寺と号する。本尊は大日如来、開山は覚鑁(興教大師)である。

歴史
平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧といわれた覚鑁が大治5年(1130)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。
鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院を建立した。さらに2年後の長承3年(1134)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。

保延6年(1140)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は3年後の康治2年(1143)、円明寺で没する。

それから1世紀以上後の正応元年(1288)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。

室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2,700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。

織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、信長没後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで秀吉の雑賀攻めを招くこととなった。生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、天正13年(1585)、秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちた。根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため焼き討ちの必要性は薄く、炎上の原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆による自焼、兵士による放火など多説あるが、定かではない。

大坂の陣で豊臣家を滅びた後、徳川家康によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺が根来寺に寄進された。江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと一部が復興された。

昭和51年(1976)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。

2007年現在、根来寺境内は近世以前の閑静な佇まいが残されているが、近辺は先の「民俗資料館」や「岩出市立図書館」が建設されるなど、文教地域化政策が岩出市によって進められている。さらに境内前面には、大型道路(広域農道)が通り、後背の山が砕石場になるなど周辺環境の乱開発が続けられていること、また、境内外れの市立図書館近くにラブホテルが存在することなど、根来文化の保護・継承をめぐる課題は山積している。なお、地域灌漑用水地であった大門池に市立図書館が建設されたことをめぐっては、先の課題による文教政策の見通しの是非をめぐって賛否が分かれている。

また毎年興教大師(覚鑁)の誕生日である6月17日の午前中には、40名近くの僧侶が式典を執り行う。...

根来寺の口コミ情報

まるき〜淡路守様[2016年08月18日]
城めぐりアプリの地図の場所は根来寺辺りになっています。
アプリ内では『根来城』と記載されていますが、何処にも 根来城と書かれている場所がありませんし隣接する岩出市民族資料館に尋ねてみても根来寺が「城」であったという史実は無しと返答されました。
ただ、巨大な勢力を持った寺院門徒や農民等の集まりであったため城扱いになっているのでしょうか?

この地は早くに鉄砲が伝わり製造もしていたようで資料館の合戦絵図には農民の姿で鉄砲を構える絵があったりします。
こういう人たちの事を根来衆と呼ぶのか…と、
資料館には戦国時代の資料はあまりないのですが想像してみるのも面白いですね
投稿されている国宝の大塔は秀吉の紀州征伐の際に焼けずに残ったとされる建物です。
奥の院、大師堂 共に城とは違った意味で見応えがありました。お寺にもハマりそう!
入山には500円が必要、庭園なども観覧できます。

駐車場と岩出市民族博物館は無料
この近辺の見所、旧和歌山県会議事堂、その隣に新しい資料館、向かいにD51が展示されている某会社内のSL公園、また古民家レストランや農家の直売所などもあります。

「発見!ニッポン城めぐり」を始めるには?

「発見!ニッポン城めぐり」は、iPhone・Androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「発見!ニッポン城めぐり」 発見!ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore