和佐山城(わさやまじょう)
和佐山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 和歌山県和歌山市禰宜
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 畠山義深
築城年
- 正平11年〔南朝〕/延文元年〔北朝〕(1356)
主な改修者
- 畠山氏
主な城主
- 畠山氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、井戸
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
北野城(和歌山県和歌山市)[4.8km]
秋月城(和歌山県和歌山市)[5.1km]
太田城(和歌山県和歌山市)[5.9km]
薗部城(和歌山県和歌山市)[7.3km]
中津城(和歌山県和歌山市)[7.4km]
寺中城(和歌山県海草郡)[7.7km]
和歌山城(和歌山県和歌山市)[8.1km]
日方城(和歌山県海南市)[8.2km]
根来寺(和歌山県岩出市)[8.2km]
弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)[8.7km]
和佐山城の解説文
[引用元:Wikipedia「和佐山城」の項目]
和佐山城(わさやまじょう)は、和歌山県和歌山市禰宜にあった日本の城。別名は城ヶ峯。
概要
1356年(延文元年)、紀伊国守護・畠山義深(尾張守)によって築城された。
南北朝時代、紀伊国は南朝方に属する武将が多く、北朝方の畠山氏を敵視して紀伊各地で戦いを繰り広げ、守護として落ち着くことはなかったという。築城後に龍門山に布陣した南朝方の四条隆俊(隆資の子、中納言)方に対し、畠山氏は和佐山に布陣[1]して戦いを有利に展開させて南朝方を敗走させている(龍門山の戦い)。
城は山城で、遺構として曲輪・石垣等が残されている。1585年(天正13年)の羽柴秀吉による紀州征伐でも使用されたとされる。
現在はハイキングコースや高積神社に至る参道として整備され、麓には和佐大八郎の墓がある。しかし、城跡全体は藪が多く茂り、自然に還っている状態でもある。麓の和歌山県道9号は禰宜から矢田峠を抜けて伊太祁曽に続く抜け道として交通量も多い。
[続きを見る]
和佐山城の口コミ情報
2023年02月20日 鈴木剛
桜山城の説明看板[和佐山城 碑・説明板]
東勝寺城とも言い根来寺の末寺で根来寺が秀吉に攻められた時に援軍要請を受け兵を送ったようです。山東三郎宣意の城だそうです。
2022年11月02日 鈴木剛
和歌山城の本丸御殿(台所)[和佐山城 遺構・復元物]
徳川家康の3女振姫の墓が建立されてから紀州徳川家の保護を受けていたそうです。明治時代になって和歌山城の本丸御殿の一部が移築され、古絵図から御台所とわかったそうです。庫裡(寺の家族が住むところ)なので内部は非公開のようです。
2018年06月05日 カーネル
和佐山城
和歌山線千旦駅から
駅の南を見ると、遠くにこんもりとした山がありますので、向かいます
南に向かって歩行者しか通れない狭い道を、右左折しながら南下し、宇佐小学校を目指します
同小学校の東側を歩くと、ここは熊野古道でことが、集落に設置されている案内板から、読み取れます
中筋家手前で左折して、高積神社下宮から参道を登ります。ブロック塀が階段状に並べられている参道を登ると、梵字が刻まれた石碑があります
ここで右に向かうのが正解ですが、まっすぐ進んでしまい、高積神社上宮に到着。お参りしてから分岐に戻り宇和山へ向かいます
高低差のない尾根をずんずん進むと、左手に竪堀がありまして
『城ヶ峯』の札ある山頂が本丸で、土塁に囲まれていて、井戸もありました。さらに南に下ると堀が確認できます
本丸東の帯曲輪で戻ると石垣もあり、大満足で下山しました
ここから、熊野古道で南下して伊太木曽神社まで歩き、全行程で3時間半でした