太田城(おおたじょう)
太田城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 和歌山県和歌山市太田
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 紀俊連
築城年
- 延徳年間(1489〜1492)
主な改修者
- 太田左近
主な城主
- 紀氏、太田氏
廃城年
- 天正13年(1585)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、移築門
指定文化財
- 市文化財(大門)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
秋月城(和歌山県和歌山市)[0.8km]
中津城(和歌山県和歌山市)[1.9km]
和歌山城(和歌山県和歌山市)[2.3km]
湊御殿(和歌山県和歌山市)[3.7km]
薗部城(和歌山県和歌山市)[3.8km]
弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)[4.1km]
雑賀城(和歌山県和歌山市)[5.0km]
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和佐山城(和歌山県和歌山市)[5.9km]
北野城(和歌山県和歌山市)[6.4km]
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太田城の解説文
[引用元:Wikipedia「太田城」の項目]太田城(おおたじょう)は、戦国時代に和歌山県和歌山市太田に存在した城。来迎寺は太田城の本丸跡と伝えられる場所である。
【概要】
太田城は現在の来迎寺 (和歌山市)、玄通寺を中心に東西に二町半(約273m)、南北に二町(約218m)と言われているが、近年の発掘調査からはほぼ二町半の四方であった。そこに周囲に深い堀をめぐらし、塁上は土壁とし、各所には高い櫓を設け、城門は大門、南大門、西北門があり、平城であるが当時の城としては強固な城造りであったと思われている。その東に大門は和歌山市指定文化財として和歌山市橋向丁の大立寺に移築されている。太田城の戦いは備中高松城、武蔵忍城ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。現在、太田城周辺は開発によって住宅地となっていることもあり、その全貌を明らかにすることは困難な状況になっている。
【沿革】
太田城は延徳年間に、紀伊国造第64代紀俊連が、神領保護を目的として秋月城、三葛城、太田城を築城したと伝わっている。一説には延徳年間ではなく文明年間とも言われている。しかし、全国的に名を馳せたのは1576年に太田左近が修築もしくは築城した太田城に対して、天正十三年(1585)三月、天下統一をめざす羽柴秀吉が自ら軍を進めた太田城水攻めである。
〜第一次太田城の戦い〜
太田城の攻城戦は羽柴秀吉が行った第二次太田城の戦い、水攻めが有名であるが、信長の紀州攻めの後も攻城戦が行われた。1577年に織田信長が雑賀城に侵攻するにあたって、雑賀衆の中にも織田信長軍に協力した者がいた。太田左近を党首とする宮郷衆らである。その織田信長軍が雑賀の地から撤退すると、これに遺恨を持っていた雑賀衆が兵をあげ報復を開始した。これに応じた織田信長は佐久間信盛を総大将に八万の増援軍を雑賀を送り込んだが制圧に失敗した。その後、太田左近は根来寺の僧兵を味方にし、かなりの攻城戦があり一進一退を繰り返し、1ヵ月間も戦いが続いていたが太田城の守りは堅く雑賀衆は攻め切れず、雑賀孫一は太田左近に和睦を申し入れ停戦が成立した。また『戦国合戦大事典』によると「佐武伊賀守は、この城攻めについてひと味違った説明を加えている」としている。それによると宮郷に雑賀の者が出耕作が妨げられるので、奪い取ってしまえとなったらしく、鍬をもって堀を崩し、別動隊は根来寺や宮郷からの応援隊を迎撃した。この佐武伊賀守も根来衆の大谷某なる人物を討ち取ったようである。この話がどこまで史実に近いかは解らないが『戦国合戦大事典』によると「鍬で城を崩してしまおうとは何とものびやかな話」と解説している。
〜第二次太田城の戦い〜
-開戦の経緯-
本能寺の変で織田信長が死去した後、1584年小牧・長久手の戦いで徳川家康軍と羽柴秀吉軍の間で戦が起こっていた時、徳川家康は太田衆、雑賀衆、根来衆らを味方になるように誘い、『秀吉の天下統一戦争』によると「呼応し、秀吉方の岸和田城を攻めたり、さらに大坂までせめてきた」と記しているが、『日本城郭大系』によると「その誘いには応ぜす」と、大坂までは攻め上ったが太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍が独自の判断としている。当時根来寺を中心に「紀州惣国一揆」と呼ばれ、寺領72万石をゆうしており3万兵の僧兵を養っていた。羽柴秀吉はこの寺領を全部納めるよう命じたが、抵抗を態度で示したものであった。『日本城郭大系』によると「これが紀州征伐の原因となった」と記載している。一方『秀吉の天下統一戦争』では「大坂まで攻めてきたことに対する報復という側面もあるが、それだけではなく、もう一つ、「紀州惣国一揆を破滅においこみたい」というねらいがあった」としている。
天正13年(1585年)3月10日、羽柴秀吉自らが総大将に、羽柴秀長、羽柴秀次を副将とし10万兵で出陣し、同年3月21日千石堀城から太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍の諸城を次々に落城させていった。次いで同年3月23日、風吹峠と桃坂の二方向から根来寺を攻め立てた。根来寺は当時堅固な要害であったが焼き払われてしまった。根来寺の大塔にはこの時のものと思われている銃弾跡が残っている。羽柴秀吉軍の次の目標は太田城に向けられた。
-戦いの状況-...[続きを見る]
太田城の口コミ情報
2019年09月18日 杉ちゃん淡路守
太田城
JR和歌山駅東口ロータリー前に太田城や古代遺跡のパンフレットがおいてあり、それを参考にすると歩きやすいです。掲載された城郭写真の場所もわかりました。
2018年02月03日 STRADA
太田城
↓TSUTAYAがツルハドラッグに変わっています。
2016年09月07日 青コアラ美濃守
太田城
TSUTAYA出水店の道を挟んだ反対側に、第二次太田城合戦の際の築堤の一部が残っています。案内板等はありません。きのくに信金の駐車場から塀越しに見ると、細長く伸びているのがよくわかります。