雑賀崎城(さいがざきじょう)
雑賀崎城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 和歌山県和歌山市雑賀崎
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 雑賀孫市
築城年
- 天正年間(1573〜1592)
主な改修者
- 雑賀氏
主な城主
- 雑賀氏
廃城年
- 天正13年(1585)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
雑賀城(和歌山県和歌山市)[2.8km]
弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)[3.2km]
和歌山城(和歌山県和歌山市)[5.2km]
太田城(和歌山県和歌山市)[6.9km]
中津城(和歌山県和歌山市)[7.0km]
日方城(和歌山県海南市)[7.3km]
秋月城(和歌山県和歌山市)[7.4km]
中野城(和歌山県和歌山市)[7.5km]
木本城(和歌山県和歌山市)[8.7km]
大野城(和歌山県海南市)[9.5km]
雑賀崎城の解説文
[引用元:Wikipedia「雑賀崎城」の項目]
雑賀崎城(さいかざきじょう)は、和歌山県和歌山市雑賀崎にあった日本の城。
概要
天正年間(1573年-1593年)に石山本願寺を追われた教如を匿うため、雑賀衆の棟梁・雑賀孫市によって築城された。教如は、現在和歌山県の天然記念物に指定されている結晶片岩の断崖絶壁「鷹の巣」内にある「上人窟」という洞窟に隠れていたという[1]。
1585年(天正13年)の豊臣秀吉の紀州征伐の後に廃城となった。
安政年間に紀州藩が海上の防備のために築いた元番所台場もこの付近にあり、入り組んだ地形が天然の要害の役割を果たしたようである。
城は山城で、城址に遺構はなく、現在は観光地施設として雑賀埼灯台が建てられている。灯台の奥には上人窟に繋がる遊歩道があるが、現在、台風により崩落しており、危険が伴うとして途中までしか行けない。
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雑賀崎城の口コミ情報
2024年08月13日 織田上総介晃司
雑賀崎台場[雑賀崎城 周辺城郭]
トンガの鼻に雑賀崎台場があり、入口に数台なら停めることができます。
雑賀崎灯台とともに紀伊水道の眺めは最高です。
近くには万葉集でも詠われた和歌の浦があります。
2024年01月09日 装鉄城大膳大夫乱怒
雑賀崎城
南海和歌山市駅から雑賀崎経由バスで40分ほど。雑賀崎遊園バス停から15分ほどの灯台が城跡です。遺構はありませんが、景色は絶景。
分岐道を行くと番所庭園と雑賀崎台場があります。ここは絶対夕方に訪れるのがオススメです。
2023年12月15日 内蔵助ジョンジョン子
雑賀崎城
お城の面影はほぼないですが、幕末に作られた雑賀崎台場には遺構が残っています。灯台からの景色は太平洋、四国、淡路島が広がる大パノラマです。
2023年08月04日 ニワトリ式部少輔
雑賀崎城
崖の上にある灯台。隠れ里のような雰囲気があり、ワクワク感がありました♫
2022年12月26日 小夜月左衛門督三葉
伝・雑賀崎城見張り台跡[雑賀崎城 遺構・復元物]
伝雑賀崎城見張り台跡地。現在見晴らしは悪い。現状は畑なので所有者への配慮をもって見学をお願いします。
2022年07月04日 RED副将軍
雑賀崎台場[雑賀崎城 周辺城郭]
石塁と土塁がかなり良好な保存状態で残っているオススメ物件です。
オススメ度 ★★★★⭐︎
1854年頃から紀州藩により海防警備のための台場整備計画が開始。友ヶ島や加太から海南一帯に台場が築造された内のひとつ。
雑賀崎の北西に伸びたトンガの鼻岬に築造されました。
見所
石塁は紀州青石(緑泥石片岩)による算木積みで美しい。
近くの雑賀崎灯台からの眺望も素晴らしいです。
2022年05月17日 吉継大膳大夫
雑賀崎城
とても綺麗な場所、近くには、番所と言う素晴らしい場所もあります。
2022年01月24日 583系備前守きたぐに
雑賀崎城
JR和歌山駅から、雑賀崎行き和歌山バス(実際には雑賀崎地区を循環)が1時間に一本(逆回りを含めると30分に一本)出ています(2022年1月22日現在)。雑賀崎バス停から徒歩15分程度。先人がジビエバーガーを絶賛したカフェで上人窟への遊歩道について尋ねると、写真の看板とは違い、途中までどころか、遊歩道に入ること自体不可とのこと。
2021年11月14日 左衛門佐ヒロ
雑賀崎城
特に人に碑文のようなものはなかったですが、灯台と軽食が食べられるカフェがありジビエバーガーがウマウマでした。景色も良かったですが、道が狭いのでバイクで行くのが良いと思います。
2020年12月30日 イオ左衛門佐
水軒住吉前台場[雑賀崎城 周辺城郭]
水軒住吉前台場は、江戸末期に外国船の来航に備えるために紀州藩が築いた台場で、岡野平太夫が防備にあたりました。
台場は、海浜沿いに南北1kmにわたって築かれていた水軒堤防と呼ばれる堤防の上に構築され、住吉神社の社殿の背後に数か所の切れ目のある土塁が残っている……んですが、神社側からは社殿の裏手には行けず、堤防側から見ても藪でよくわからず、結局 社殿の合間から覗くことができただけでした。
2020年12月29日 イオ左衛門佐
雑賀崎台場[雑賀崎城 周辺城郭]
江戸末期、外国船の来航に備えるために紀州藩が築いた台場で、家老の三浦長門守が防備にあたりました。
トンガの鼻と呼ばれる岬の先端に築かれ、台場の周囲を土塁が囲み、土塁の下部は石垣造りになっています。西辺(海側)の土塁には2か所の開口部(砲眼)があり、砲床とみられる土壇もあります。また、埋め戻されていますが、発掘調査では砲座と考えられるV字状の石積みも発見されているようです(現地に説明板あり)。台場の南東下には、弾薬庫跡と思われる周囲が石垣造りの方形壇があり、その南下にも同様の造りの方形壇が見られます。
台場から東南東に少し行くと番所跡と思われる平場があり、海側を下部が石垣造りの長大な土塁で守っています。土塁の内側角部は地元産の緑色片岩による算木積みで、なかなか見応えがあります。
番所脇から坂道を上った高台は、現在は「お城の見える丘」として整備されていますが、その名の通り和歌山城を見通せる位置にあり、史料にいう狼煙場だったと考えられます。
少しわかりにくい(訪れにくい)場所ですが、県道沿いに案内標識があり、県道から入ったところに3台ほど駐められる駐車場もありますし、30分程度で手軽に状態の良い遺構を楽しめますので、和歌山に来た際にはぜひどうぞ。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
雑賀崎城
突端部に交互二弾に組んだ石垣。レーダーも双眼鏡も無い時代目の効く見張りが警戒にあたったんやろうな。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
雑賀崎城
算木積み石垣の砲台陣地。戦国時代の物ではないが同じ場所には土塁を作り防備に使われたろうな。
2019年05月04日 石工集団穴太衆【兒】
雑賀崎城
【雑賀崎灯台からの城跡】
石山合戦和睦後、信長に徹底抗戦を主張した顕如の長男・教如を囲う為に雑賀孫市が築いたとされ、教如は崖下にあった上人窟に隠れ住み、崖の上に城郭を築き守備したようです、現在、城郭の遺構は消滅してるそうです。
2018年11月17日 石工集団穴太衆【兒】
雑賀崎城
雑賀崎城の遺構は消滅しているそうですが
その周辺には雑賀崎台場と番所庭園があります
【雑賀崎台場】は幕末に異国船が日本沿岸に現れたとき幕府が各地の沿岸部に造らせた大砲台場で和歌山市加太から和歌山県下津町大崎には三十数カ所あったそうです
雑賀崎台場跡は、その内の一つで、紀州藩が築いた台場で、中でもこの台場は遺構が良く残っていて、素晴らしかったです
【番所庭園】は、番所の鼻と言い、平坦で海に長く突き出た地形で、紀州藩が海の防備見張りのため遠見番所を設けました、藩領の長い海岸線十数ヶ所に番所がありましたが、ここはその中でも和歌山城に最も近い番所として、狼煙場と共に重要な所でその後、遠見番所は鷹の巣山頂へ移転したので、ここは「元番所」と呼ばれています
2018年03月03日 小夜月左衛門督三葉
雑賀崎城
雑賀崎城(旧雑賀崎小学校)は、雑賀崎を北側から登り、灯台と雑賀崎集落に分岐するY字路の左手の切り通りの上部にかかる橋を灯台方面に登ってすぐの位置にあります。防災放送塔やドコモのアンテナが立っている広場です。それら施設と一応の公園化で下草は刈ってくれていますが、眺望は……残念。夏場は侵入困難かもしれません。
伝狼煙場には、広場向かいの急な坂道を信じて登ったピークですが……畑になってます。周囲の雑木が育って、こちらも眺望は残念。……景色は灯台で(笑)
駐車場、トイレはありません。バス亭は雑賀崎
ちなみに、少し田野方面に走ったカフェ(Nゲージが走ってました)でお茶を頂いて、そちらの店長様に理由を話して車を置かさせてもらいました。
2018年03月03日 小夜月左衛門督三葉
雑賀崎城
『紀伊続風土記』に狼煙場の記事があり、雑賀崎小学校『創立百周年記念誌』に「山の上にもとの学校の辺りを城の内・どんべ(土塀)と呼びますが、戦国時代の雑賀党の見張り場があったからです」と記録されています。伝狼煙場からは、北の水軒浜や紀の川河口、西の紀伊水道が見渡せます(雑木が多くて見にくいですが)。
『和歌山城郭研究』12 には、雑賀崎集落による海上を見張る昨日に特化した城郭ではないかとしています。
雑賀崎灯台の他にも、付近には幕末の台場(番所の鼻)、上人窟などの名所もあり、厳密にはお城ではないかもしれませんが、雑賀崎城として大きくまとめるのも悪くない気がします。