中野城(なかのじょう)
中野城の基本情報
通称・別名
- 中城
所在地
- 和歌山県和歌山市中野41
旧国名
- 紀伊国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 雑賀衆
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 貴志氏
廃城年
- -
遺構
- 石垣、横堀跡
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
木本城(和歌山県和歌山市)[1.7km]
中津城(和歌山県和歌山市)[4.0km]
和歌山城(和歌山県和歌山市)[4.3km]
薗部城(和歌山県和歌山市)[4.9km]
太田城(和歌山県和歌山市)[5.9km]
秋月城(和歌山県和歌山市)[6.5km]
弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)[7.0km]
雑賀崎城(和歌山県和歌山市)[7.5km]
雑賀城(和歌山県和歌山市)[7.8km]
淡輪城(大阪府泉南郡)[9.0km]
中野城の解説文
[引用元:Wikipedia「中野城」の項目]
中野城(なかのじょう)は、紀伊国(和歌山県和歌山市中野)にあった日本の城。
概要
築城時期は不明であるが、貴志教信の城であった。戦国時代は、雑賀衆の支城としての役割を果たしていた。
孝子峠越えと大川峠越えのルートが集まる要衝で、和泉国方面から紀伊国の入口にあたるという地理的条件から、天正5年(1577年)、織田信長による第1次紀州征伐を迎え撃つための前線基地となった。しかし、2月に中野城は落城し、織田信忠が本陣を構えた。居城の雑賀城を攻められた鈴木孫一(雑賀孫一)ら雑賀衆は3月に降伏した(『信長公記』)。
遺構として、石垣が民家の塀の下に使用され残っている。また、現在「中野遺跡」と呼ばれる埋蔵文化財包蔵地にあったと推定されており、発掘調査により大溝(堀)や輸入陶磁器等の遺物が出土している。
参考文献
- (財)和歌山市文化体育振興事業団 1998『中野遺跡第2次発掘調査概報(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/30098)』和歌山市文化体育振興事業団調査報告書16
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中野城の口コミ情報
2024年11月03日 noble権中納言弥勒菩薩
中野城
貴志氏の居城です。第一次紀州征伐の折には、雑賀衆の防衛最前線でしたが攻防に敗れ、その後織田信忠が本陣として着陣したところです。
宅地、耕作地に変貌してしまった平城ですが、標柱、割りと丁寧な案内板、そして遺構が残っています(痕跡程度ですが)。
とある住宅脇に標柱があり、幅数mの空き地が巡っていますが、これが堀跡の名残りです。またこのお宅の土台石垣も、往時の遺構と云われています。
雑賀衆の城郭はハッキリとした遺構が残存しないところばかりなので、これでもかなり貴重なのかも知れません。また、近くの小学校裏門にも、案内板が設置されています。
なお、標柱に至るまでの道は、住宅の中をすり抜けて行く、人が通れるだけの細道です。車の場合、離れたところに余幅を見つけて停めておくしかありませんが、小学校近くでもあるので、迷惑にならないように留意したほうが良いでしょう。
2023年05月23日 鈴木剛
高芝城[中野城 周辺城郭]
小山城、栄谷城等の名前があるが和歌山県教委による発掘調査報告書には高芝城の名前で提出されているようです。城は南北に延びた丘陵にあり南の頂部に城Ⅰが八〇メートル程離れた北の頂部に城Ⅱが有ったそうです。当時の遺構としてⅠには竪堀、壇状の遺構と主郭郡への通路、Ⅱには尾根に沿ってL字に7段の曲輪、焼けた溝状の遺構などがあったそうです。
2022年12月26日 小夜月左衛門督三葉
平井城[中野城 周辺城郭]
「平井城」ですが、学術的には存在が疑われます(もっとはっきりと存在は否定されています)。文献史学・考古学からも何も史料・資料はありませんし、平井郷の勢力では大きすぎる城域となります。雑賀孫市というヒーローの秘密基地と考えると面白そうです。
2022年01月30日 おでんくん
中野城
本当に遺構か微妙な石垣で想いを馳せるところですね。
2020年12月07日 イオ左衛門佐
蓮乗寺[中野城 寺社・史跡]
平井(鈴木)孫一が開いた道場を始まりとする寺院で、境内には「平井孫市郎」の銘のある墓があります。
2020年12月07日 イオ左衛門佐
平井城[中野城 周辺城郭]
平井城(平井屋敷、鈴木屋敷)は、戦国期に平井(鈴木)孫一が居城とした城で、織田信長の雑賀攻めにおいては、最前線の中野城が陥落した後、織田軍との間で攻防戦が繰り広げられました。
自然の段丘を活用した構造で、最上段(平井平)は平井中央公園に、中段(政所の坪)は農地や宅地になっていて遺構は見られませんが、政所の坪には政所のほか、孫一の屋敷や孫一が開いた一向宗の道場などがあったようです。
2020年04月05日 天道式部卿早雲
小学校校門の説明板[中野城 碑・説明板]
貴志南小学校に設置されている説明板
小学生向けにわかりやすくか、ルビ・ふりがなが振られているのが優しいですね。
2018年05月08日 小夜月左衛門督三葉
中野城
『近畿の城郭』Ⅲ、『和歌山城郭研究』13を熟読して、今一度、中野城へ。
石垣の違和感はあながち、間違いでなかったようです。新谷和之氏の研究によれば、現在城址の東を南流する土入川は、中世には流路ははっきりせず、薗部荘の和泉山脈山麓部の集落帯と、海岸砂丘上の集落帯に挟まれた「中野」を比較的自由に流れていたとされています。その水路に守られた「中野城」を、孝子越えで侵入する敵を戦略的に迎撃するために、雑賀衆が運用したと説明されます。
城郭の位置については、流路の変遷があり確定しにくいとされながら、現在の案内板が建つ小字「長左」の位置ではなく、水路を堀跡として考えた場合、発掘された堀跡との位置的関係や、周囲の水田から一段高い位置にあり安定した土地と言える東に隣接した小字「道意」ではなかったかとされています。伊藤俊治氏によれば、「道意」は「土居」が転じたもので、城郭があった事を示す地名とされています。
当該地は、完全に一般住宅なので写真は遠慮しました。
2018年04月08日 小夜月左衛門督三葉
中野城
すでに情報に上がっていますが、スーパーオークワパーツシティの裏側(北側)駐車場に隣接しています。昼間は駐車場こらのゲートが開いていますので説明掲示板まで行けます。夕方・夜、ゲートが閉まると、城郭の北側の貴志南小学校方面からアクセスできます。城郭跡は完全に私有地・住宅地ですので、訪城には周辺住民の方への配慮が必要です。
あくまで私見ですが……城郭跡に残る石垣が当時のものと説明がネット上には見られるのですが……?ご近所のお宅の住宅地の下にも同じ材質・積み方の石垣があるので……違わない???年代物に見える石もあるので、積み直しはあるかもしれないですが。
2010年07月25日 こぱんだ左馬助
中野城
スーパーオオクワの駐車場からすぐの所にありました