淡輪城(たんのわじょう)

淡輪城の基本情報

通称・別名

淡輪邸

所在地

大阪府泉南郡岬町淡輪字城の藪

旧国名

和泉国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

淡輪氏

築城年

鎌倉時代

主な改修者

主な城主

淡輪氏

廃城年

遺構

土塁

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

薗部城(和歌山県和歌山市)[7.7km]
木本城(和歌山県和歌山市)[8.7km]
中野城(和歌山県和歌山市)[9.0km]
北野城(和歌山県和歌山市)[9.3km]
中津城(和歌山県和歌山市)[10.0km]
太田城(和歌山県和歌山市)[11.4km]
和歌山城(和歌山県和歌山市)[11.6km]
秋月城(和歌山県和歌山市)[11.6km]
吉見陣屋(大阪府泉南郡)[12.3km]
和佐山城(和歌山県和歌山市)[13.8km]

淡輪城の口コミ情報

2026年05月17日 romikun
医王寺城[淡輪城  周辺城郭]



淡輪陣屋(土浦陣屋) "淡輪陣屋は、文久2年(1862)に土浦藩主・土屋寅直によって築かれた陣屋で、幕末の大阪湾海防を担う重要拠点でした。
徳川幕府成立後、現在の岬町域は谷川藩領・大和御所藩領として桑山氏の支配下にありましたが、寛永7年(1630)に幕府領となり、代官支配へ移行しました。その後、1662年に青山宗俊、1678年に太田資次、1684年に土屋政直が支配を担い、政直は後に京都所司代・老中を経て常陸土浦藩主となりました。しかし、和泉日根郡内11ヶ村(淡輪村など)は引き続き土屋氏領として代々継承されました。
土屋氏は、地域の有力農民を「在地代官」や「大庄屋」に任命し、苗字帯刀を許す代わりに領地運営を担わせました。淡輪村では川村喜左衛門家が代々大庄屋を務め、土浦藩は大坂南瓦屋町の蔵屋敷を拠点として年貢徴収などを行いました。
幕末になると外国船の接近により海防の必要性が高まり、1854年にはロシア海軍提督プチャーチン率いるディアナ号が大阪湾へ来航しました。これを契機に大阪湾防備が強化され、1855年には谷川村の観音崎台場と箱作村台場、1861年には淡輪村黒崎台場、1866年には谷川村豊国崎台場が築かれました。
さらに淡輪村別所には勤番所を拡充した大規模な淡輪陣屋が設置され、馬場や鉄砲稽古場も整備されました。大阪蔵屋敷から奉行や代官が赴任し、海防体制が本格化するとともに、領民による郷兵組織も編成されました。1863年には「大砲御筒浚」と呼ばれる大砲訓練も行われ、郷兵には手当が支給され、名字帯刀を許される者も現れるなど、従来の身分制度にも変化が生じました。
1867年の大政奉還後、幕藩体制は終焉を迎え、1869年の版籍奉還を経て、1870年には土浦藩飛地であった岬地域は堺県へ編入されました。これにより長く続いた土浦藩支配は終わり、淡輪陣屋も役目を終えました。陣屋の一部は深日の金乗寺へ移築されたと伝えられ、現在も医王寺跡には当地で亡くなった土浦藩士とその家族の墓が残されています。(岬町・岬町教育委員会発行(編集:岬町の歴史編さん委員会)の「岬町の歴史」)引用加筆
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台場のための陣屋は淡輪16区集会所付近にあったとされる。
医王寺跡「廃寺」は、淡輪園の東川山手にあるとされる。
医王寺城跡は、望海坂南の給水タンクのある尾根上にある、根来衆の砦であったとのこと。

2026年05月17日 romikun
船守神社[淡輪城  寺社・史跡]



淡輪の氏神になっている船守神社は紀船守・紀小弓宿弥・五十瓊敷入彦命の三神を祀っている由緒深い神社で、本殿は重要文化財に指定されています。

2026年05月16日 romikun
観音崎台場[淡輪城  周辺城郭]



幕末になると外国船の接近により海防の必要性が高まり、1854年にはロシア海軍提督プチャーチン率いるディアナ号が大阪湾へ来航しました。これを契機に大阪湾防備が強化され、1855年には谷川村の観音崎台場と箱作村台場、1861年には淡輪村黒崎台場、1866年には谷川村豊国崎台場が築かれた内の一つ。
南海電車本線深日の西南約3km、多奈川村谷川港にあります。江戸時代末期の安政年間(1854~1860年)幕命により大阪城代が海防のために築いた台場の遺跡で、泉南沿海唯一のものです。
多奈川発電所閉鎖に伴い海岸への道が閉鎖され現在立ち入れない。
深日港から遠望はできる。

2026年05月16日 romikun
豊国崎台場[淡輪城  周辺城郭]



幕末になると外国船の接近により海防の必要性が高まり、1854年にはロシア海軍提督プチャーチン率いるディアナ号が大阪湾へ来航しました。これを契機に大阪湾防備が強化され、1855年には谷川村の観音崎台場と箱作村台場、1861年には淡輪村黒崎台場、1866年には谷川村豊国崎台場が築かれた内の一つ。
南海電車本線深日の西南約3km、多奈川村谷川港にあります。江戸時代末期の安政年間(1854~1860年)幕命により大阪城代が海防のために築いた台場の遺跡で、泉南沿海唯一のものです。
現在は、キャンプ場になっていて無断で立ち入る事は出来ないが、様変わりしていて、大正時代に大阪府が置いたとされる碑は、見つける事ができなかった

2026年05月16日 romikun
淡輪城



昔あった孝子越街道沿いの掲示板は、なくなっていました。館跡の南と東の土塁は確認できました、東の土塁が比較的はっきりと残っています。碑が土塁のどこかにあるらしいのですが、私有地でロープが張られているので立ち入りは出来ないでしょうね。

2026年01月17日 884兵部卿
高野山城[淡輪城  周辺城郭]



連続した浅い堀切、土塁、切岸が残っています。南海電鉄孝子駅から高仙寺へ、そこから登山道があります。

2023年06月19日 ファン掃部助トム治郎
淡輪城

駅〜徒歩10分ほど。特に遺構は有りません。攻城後、飯盛山へ登り、南海線の孝子駅まで歩きました。稜線に高野山城が見られました。東側の堀切が見応え有りました。

2023年05月23日 鈴木剛
本願寺顕如 逃走経路[淡輪城  その他]



1580年 灰賦峠からこの辺りを抜け鷺ノ森や弥勒寺へ逃走したようです。その後を追い信長軍が海と陸から攻め寄せて来ています。

2023年03月05日 鈴木剛
灰賦峠古戦場看板[淡輪城  碑・説明板]



石山合戦の戦場の一つ灰賦峠古戦場の説明看板
紀伊の国に逃れた本願寺顕如上人を攻めた織田信長軍がこの地に来た時、深日・谷川の門徒衆1800人がこの峠付近に陣を張り応戦し、家のかまどから灰を持ち出し、灰と小石で千騎の軍を退散させたそうです。

2023年03月04日 鈴木剛
吹飯城[淡輪城  周辺城郭]



源義経が一の谷を急襲して平家の主力を屋島へ追いやってしまうまでの間の小競り合いの一つ「深日合戦」古戦場がこの辺り、山らしいところは一つも無いが小字が城山と呼ばれています。阿波の国の安摩六郎忠影と紀伊の国の園部兵衛忠康が平教経と戦い教経が勝ったようです。

2022年09月26日 左京大夫吉川
淡輪城

淡輪漁港より古い街並みを散策。今は立て看板しかなくゴミも捨てられてたりと少しかわいそう

2021年12月19日 三河守フロクニ
枡形山城[淡輪城  周辺城郭]



先人の書き込み参照して攻略開始。望海坂の団地の南西付近から給水タンクを目指す。タンクの入口から右にすり抜ける形で登城開始。草は多いが200mほどで城に到達する。道は更に奥に続いてハイキングコースとなっている。土塁や堀切りのような凹凸も見られる。

2021年08月04日 首藤但馬守通宗
医王寺城[淡輪城  周辺城郭]

常陸土浦藩土屋氏淡輪陣屋 海防陣屋として医王寺跡に設置

2021年07月05日 イオ飛騨守
法福寺[淡輪城  寺社・史跡]



法福寺は「お菊寺」とも呼ばれ、豊臣秀次と小督局の娘であるお菊の木像が安置されています。

秀次切腹事件に連座して小督局が斬首された際、まだ生後一か月だったお菊は助命され、母のいとこにあたる後藤興義の養女として育てられますが、紀伊国山口の代官・山口喜内の嫡男・山口兵内に嫁いでまもなく大坂の陣となり、山口氏が豊臣方について夫が大坂入りしたため、お菊は男装して大坂への密使を務めました。しかし、返書を持って戻る途中に徳川方に捕らわれ、助命の申し出を拒んで処刑されました。そして、わずか20歳で生涯を閉じたお菊を哀れんだ養母が、後藤氏の菩提寺である法福寺に木像を納めたと伝わります。

# 小督局は淡輪城主・淡輪徹斎の娘であり、お菊は徹斎の孫にあたりますので、淡輪城でスポット登録しています。

2021年07月05日 イオ飛騨守
淡輪城



鎌倉期に土着の国人・淡輪氏が築いた城館で、織豊期までこの地を領しましたが、淡輪徹斎の娘が豊臣秀次の側室「小督局」となっていたことから、秀次切腹事件に連座して没落しました。その後、徹斎の長男・重利は紀州藩の浅野氏に仕え、二男・重政は大坂の陣で豊臣方につき、夏の陣の樫井の戦いで討死しています。

周囲に土塁をめぐらせた方形館で、東辺、南辺、西辺に土塁が残りますが、曲輪内は私有地で立ち入りできない上に、土塁のあたりには樹木が生い茂っていて北側の道路から見てもよくわからず、かろうじて説明板が立てられている西辺の土塁を確認できるくらいでした。

2021年05月29日 おでんくん
淡輪城

なんにもないのですが、土塁?最近のもの?みたいなものはあります。でも人んちなので、これもまた…。近所の船守神社の大楠は信長も見たに違いないし、本殿は秀頼の命で建てられた古いものです。そちらは一見の価値ありです。

2021年04月27日 シゲ之輔刑部卿
淡輪城



立て看板があるだけでお城の後は今は残っていません。ただ近くには前方後円墳があります。小さな古墳ですが逆に形がわかります。近くの山はツツジがきれいです

2017年04月30日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
淡輪城

追記。淡輪重政の墓はJR新家駅から樫井川に架かる大正橋をわたり右に曲がった所にあります。墓の後ろの水田の用水路が昔の樫井城の跡との事。想像力を働かしてみるに武家屋敷に壕を巡らした姿と思いました。
樫井川で待ち伏せの浅野軍五千に早朝から夕方迄五百程の兵でよく戦い、団右衛門戦死の後も樫井城の要害を使い味方を鼓舞し
何度となく斬り込み激闘する重政に敵の浅野軍も舌を巻いたでしょう。
味方の潰滅を見届け伝家の宝刀振りかざし猛獣の咆哮をあげて最期を遂げたのでしょう。
古戦場の石碑や重政の墓は大変立派です。
地元の顕彰会か保存会の方々の労力のおかげかと推測します。こちらもお時間あれば見てやって下さい(^_^)ノ
水田の稲穂がキラキラ輝き今年も豊作のようです。

2017年04月30日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
淡輪城

続)父の徹斎から淡輪城で武将としての生き方を受けて武芸、領国経営を見て過ごした若き頃の故郷をもう一度取り戻したいと考えて兄の浅野仕官を断る。
戦雲漂い時節到来!秀頼から過去の父の所行を謝る、徳川に勝利の暁には旧領回復を約束の誘いが。兄の重利は大反対!兄と激論を交わしたが敵味方になる決断する。
浅野討伐の郷導使を受ける、道半ばには淡輪城がある彼の期待はいかばかりか。
しかし彼はついてない!同軍の団右衛門と岡部が先陣争いを始めてしまい浅野軍に樫井川で激突、奮戦虚しく潰滅する。
やっと最後の旧領回復のチャンスを不本意な形で潰えた彼には同情を禁じ得ません。

船守神社まで行くと往事の繁栄ぶりが、感じられたのが唯一の慰めになりました。

2017年04月29日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
淡輪城

大坂の陣に参戦した淡輪重政の城を訪ねる向かう。南海電鉄の淡輪駅から海に向かい歩く大きい目印はスーパー淡輪店。過ぎた所の信号を左に折れて右手の西林寺を見つけたら左手に畑になってる所に淡輪城の案内板があります。唯それだけです。
個人所有の畑の中のおばさんに話をし、入らせてもらい散策。その中に僅かに土塁と思われる物がある、それだけでした。
お勧めはしません。まるで寝たきりの病人の生命維持装置を付けて余命を伸ばしているかの姿に寂寥感にため息が出ました。
幸村、又兵衛に比べて認知度がない彼はこんなものなのかとがっかり。

淡輪重政は秀次切腹に連座で改易、小西行長に拾われ関ヶ原敗戦で浪人に。兄の重利は浅野に仕官叶う。悶々として兄の庇護のなか世に出る機会を待ってたんでしょう。
(これからは私の妄想です、お付き合い下さい。)


淡輪城の周辺スポット情報

 淡輪邸址看板(碑・説明板)

 灰賦峠古戦場看板(碑・説明板)

 医王寺城(周辺城郭)

 観音崎台場(周辺城郭)

 豊国崎台場(周辺城郭)

 枡形山城(周辺城郭)

 吹飯城(周辺城郭)

 高野山城(周辺城郭)

 法福寺(寺社・史跡)

 西林寺(寺社・史跡)

 宇度墓古墳(寺社・史跡)

 西陵古墳(寺社・史跡)

 船守神社(寺社・史跡)

 本願寺顕如 逃走経路(その他)

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