吉見陣屋(よしみじんや)
吉見陣屋の基本情報
通称・別名
- 吉見藩陣屋
所在地
- 大阪府泉南郡田尻町吉見952
旧国名
- 和泉国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 遠藤胤城
築城年
- 明治3年(1870)
主な改修者
- -
主な城主
- 遠藤氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
日根荘城館(大阪府泉佐野市)[7.6km]
積善寺城(大阪府貝塚市)[7.9km]
千石堀城(大阪府貝塚市)[7.9km]
根福寺城(大阪府貝塚市)[10.0km]
岸和田城(大阪府岸和田市)[10.6km]
根来寺(和歌山県岩出市)[12.1km]
淡輪城(大阪府泉南郡)[12.3km]
貝吹山城(大阪府岸和田市)[13.5km]
北野城(和歌山県和歌山市)[14.2km]
稲葉城(大阪府岸和田市)[14.2km]
吉見陣屋の口コミ情報
2026年05月17日 romikun
春日神社[吉見陣屋 寺社・史跡]
春日神社 (Kasuga Shrine) 看板全文
御祭神(ごさいじん)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
齋主命(いわいぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)
末社 若宮神社(向かって右側のおやしろ)
御祭神
天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)
天児屋根命の御子神様
略記(りゃっき)
寓歳記によれば、奈良時代宝亀年間(西暦七七〇〜七八〇)に吉見小佐治が来住してこの地を開拓し、村を作ったとき、その祖先である春日大明神を勧請してお祀りしたとあります。
2026年05月17日 romikun
吉見陣屋
慶応4年(1868年)新政府に敵と見なされて所領を没収されたが、同年罪は許され領地は返還された(すぐに恭順した)。明治3年(1870年)、近江三上藩知事であった遠藤胤城が陣屋を三上から日根郡吉見村に移したことで吉見藩1万4,500石で立藩された。大手門は現在の田尻町立小学校の校門のあたり、陣屋は田尻町吉見にある春日神社境内にあったと伝えられている。しかし翌年(明治4年)の廃藩置県により廃藩となった。和泉国内の管轄地は、北は田尻川、南は現在の春日神社境内、西は旧加太街道に至る土地で、草高「実際の石高」は1万2000石。春日神社境内に知藩事邸や藩士の住居が設けられたという。
維新後は、陣屋は払い下げられ春日神社の社領に復した。
2026年05月16日 romikun
淡輪六郎兵衛重政の墓所[吉見陣屋 碑・説明板]
現地掲示板転記
淡輪六郎兵衛の宝篋印塔
慶長20年(1615)大坂夏の陣がおこり 豊臣 徳川方が最初
に激突したのが樫井合戦である
この石塔は 豊臣方の武将としてこの地で討死にした淡輪六郎兵衛の宝篋印塔である。
淡輪氏は古くから和泉国淡輪(現岬町)の豪族であった。
六郎兵衛の姉は豊臣秀次の側室の小督局で、その子お菊も夫とともに豊臣方として戦った。
慶長20年4月、徳川方は全国の大名に大坂城を攻撃するよう命じた。
これに対して、豊臣方の一軍は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進んだ。
六郎兵衛はその先鋒隊となり4月29日早朝、塙団右衛門とともに熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し乱戦の中で討死にした。
この宝篋印塔は寛永16年(1639)25回忌にあたり淡輪氏の末裔の本山氏が淡輪にて石材を整えて建立した。その後も当地の人たちにより守られてきた。
英語(English)
Hokyoin to Tombstone of Tannowa Rokurobei
This monument was built in rememberance of Tannowa Rokurobei
In 1615, the war between the Toyotomi and the Tokugawa league broke out which is known as the Osaka Summer Campaign
its first battlefield was Kashii.
Rokurobei fought there as a samurai, or a warrior of the Toyotomi league and was killed.
In rememberance of him, people constructed the monument in 1639.
This type of tombstone is called Hokyoin-to.
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小領主の悲哀で、家名存続の為、家を二つに割って徳川、豊臣に別れて戦った。
判官びいきか?負けた方が名を残したが、他方の淡輪家は紀州藩で存続した。兄とは話が出来ていたと思います、流れから負け方に就かなければならない状況、家名に恥じない散りざまを世間に見せて残る淡輪の名を輝かせる事など、当時の武士は六郎兵衛を初め「名こそおしけれ」を地で行っていて、心底潔い。
2026年05月16日 romikun
塙団右衛門直之の墓[吉見陣屋 碑・説明板]
現地掲示板転記
塙 団右衛門の五輪塔
(ばん だんえもん の ごりんとう)
慶長20年(1615)の豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討死にした塙 団右衛門直之の五輪塔である。
団右衛門は尾張国羽栗(はぐり)の人で加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功をあげ、名を知られたが、関ヶ原の戦い(1600年)以後浪人して僧となり鉄牛(てつぎゅう)と号した。
大坂冬の陣(1614年)が起きると豊臣方に属し、大坂城に入城した。慶長20年4月、夏の陣がおこると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主浅野長晟(ながあきら)の軍と戦うべく泉州に進んだ。団右衛門は先鋒隊をひきいて4月29日早朝、熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入した。安松、岡本、樫井で激戦が展開されたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討死にした。ときに48歳という。
団右衛門を討ったのは上田宗箇(そうこ)、亀田大隅(おおすみ)あるいは八木新左衛門などの説があり一定しない。
五輪塔は寛永8年(1631)に紀州の士小笠原作右衛門が造立し、石灯籠は八木新左衛門の孫が奉納した。
250回忌(1868)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し周囲を整え、当地の観音寺に位牌を納めた。以後当地の人たちにより守られている。
2026年05月16日 romikun
樫井城[吉見陣屋 周辺城郭]
熊野街道の樫井集落にあった樫井氏の館跡とされる。遺構は現在は畑になっている、かろうじて、観音寺/正法寺と畑の間の水路が堀跡と思えなくも無いが、確かな事ではない。
2026年05月16日 romikun
船岡山城[吉見陣屋 周辺城郭]
標高25.5mの小丘で日根野荘の日根神社と深い関わりがある。大阪夏の陣の樫井合戦でも見晴らしが良いので利用されたらしい。山の麓に夏の陣で浅野に討ち取られた坂田庄三郎の墓がある。
2022年01月24日 山城守さとぴ~
吉見陣屋
当日は雨が降っているせいか、静かで落ち着いた雰囲気の神社でした
2021年07月11日 イオ飛騨守
淡輪六郎兵衛重政の墓所[吉見陣屋 碑・説明板]
大坂夏の陣・樫井の戦いで討死した淡輪六郎兵衛重政の墓所で、宝篋印塔と説明板が建てられています。
2021年07月11日 イオ飛騨守
塙団右衛門直之の墓[吉見陣屋 碑・説明板]
大坂夏の陣・樫井の戦いで討死した塙団右衛門直之の墓で、五輪塔と説明板が建てられています。
2021年07月11日 イオ飛騨守
樫井古戦場跡[吉見陣屋 碑・説明板]
明治大橋北詰に樫井古戦場跡の石碑と説明碑が建てられています。
このあたり(熊野街道や樫井川の河原)は大坂夏の陣・樫井の戦いの古戦場であり、紀州方面から迫る浅野長晟に対し、大野治房を主将に塙直之、岡部則綱、淡輪重政らが迎撃しますが、塙と岡部が先陣を争って突出したため、部隊の連携が取れずに岡部は敗走、塙と淡輪は討死し、大野の本隊も大坂城に撤退しました。
2021年07月06日 イオ飛騨守
樫井城[吉見陣屋 周辺城郭]
樫井城は鎌倉以来の御家人・樫井氏の居館で、詳細は不明ながら南北朝期までには存在していた記録があります。その後、樫井氏は織田信長に従い、豊臣秀吉の頃にこの地を去ったようです。
樫井城は、樫井川の北岸、熊野街道に面した方形館で、周囲を堀と土塁で囲んでいたと考えられますが、現在では西辺と北辺に堀の名残の水路が見られるくらいです。
2011年08月07日 プリンツ治部卿
吉見陣屋
うちの近所 今は春日神社になっている









