積善寺城(しゃくぜんじじょう)
積善寺城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 大阪府貝塚市橋本
旧国名
- 和泉国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 不明
築城主
- 根来衆
築城年
- 永禄元年(1558)
主な改修者
- -
主な城主
- 出原右京(根来衆)
廃城年
- 天正13年(1585)
遺構
- (発掘調査:空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
千石堀城(大阪府貝塚市)[1.3km]
岸和田城(大阪府岸和田市)[3.5km]
貝吹山城(大阪府岸和田市)[5.6km]
稲葉城(大阪府岸和田市)[6.7km]
日根荘城館(大阪府泉佐野市)[6.9km]
根福寺城(大阪府貝塚市)[7.1km]
吉見陣屋(大阪府泉南郡)[7.9km]
松尾寺城(大阪府和泉市)[9.2km]
真鍋城(大阪府泉大津市)[9.3km]
伯太陣屋(大阪府和泉市)[10.5km]
積善寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「積善寺城」の項目]
積善寺城(しゃくぜんじじょう)は、大阪府貝塚市橋本にあった日本の城(平城)。
概要
積善寺城は、貝塚市の南側にあり、近木川に面した段丘上に位置し、北側には小栗街道(熊野街道)が走り、根来寺とは根来街道を介して、つながっている。推定地として貝塚市立中央病院から近木川を挟んだ対岸の一帯で、江戸時代には橋本村の集落があり、安楽寺付近に本丸があったのではないかという伝承がある。和泉の戦いでは根来衆の主力部隊がいた。
沿革
もとは和泉国の四長者の一人、郡吉長者の仏観音堂であったものを永禄元年(1558年)に根来衆と三好氏との戦いの時に、砦をこの地に築き先陣としたのが最初とされる。
天正5年(1577年)雑賀侵攻の時には積善寺城はみえないが、天正9年(1581年)高野攻めには「城郭取立也」とある。また天正11年(1583年)秀吉の紀州攻めでは、中村一氏を岸和田城に入城させ、雑賀衆、根来衆に備えた。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに豊臣秀吉が出撃した隙を狙って、雑賀衆、根来衆連合軍は、中村城、沢城、田中城、積善寺城、千石堀城を5城を付城として岸和田城の5町ばかりを隔てて、翌天正13年(1585年)正月始めまで幾度か小規模な戦闘が続いたが、同年1月16日雑賀衆、根来衆連合軍は7つ付城から岸和田城を攻城、中村一氏隊も反撃している。同年3月18日に雑賀衆、根来衆連合軍は紀伊国より出撃、同年3月21日岸和田城から豊臣秀吉軍が出軍、戦いとなり鳥羽城、中村城、積善寺城は放火や落城した。この時豊臣秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳に陣を置き積善寺城と対峙していた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし畠中城、沢城は開城した。この戦い後積善寺城は破却され廃城となった。
- この後の戦いの様子は根来・粉河・雑賀炎上及び第二次太田城の戦いも参照。
城郭
城郭に関しては、「東面七拾八間二重堀・西面九拾三間三重堀・南面百弐拾間三重堀、外に横二十五間、長百五十間貯池有、北面百三拾二間三重堀、外に大川有、本丸三拾五間四面云々」(『春生随筆』)とあり、本丸は約53m四方で、周りには濠をめぐらしていた。また同書に秀吉の紀州攻めの配置として、
秀吉の紀州攻め積善寺城の配置 配置 本丸大将 本丸矢倉 東矢倉 西矢倉 北矢倉 南矢倉 武将名 出原右京 山田蓮池坊
野原大部知明院 長橋正知坊
出田長寿院
山下南ノ坊西蔵院
寿宝院近木忠次郎
熊取寿命院
熊取大納言とあり、5つの櫓にそれぞれの武将が配置され、常詰衆として360兵、増援軍として9140兵が城内にいたと記されている。1843年(天保14年)の『日根郡寺社覚』には安楽寺境内やその一帯が城跡と記されている。
発掘調査
積善寺城の発掘調査として、2003年(平成15年)に2回、2004年(平成16年)に1回実施された。2003年(平成15年)に行われた発掘調査は個人住宅建設に伴うもので、積善寺城の濠と考えられる遺構が発見された。濠は東西に掘られており、幅は6メートル以上、深さは1.8メートルで、U字型に掘り込まれて、石垣は備えていなかった。濠は3層の埋土が確認でき、下層は断続的な水の流れが確認でき、防備目的以外にも排水路との指摘もある。中層は人為的に埋められた層で、埋め立て作業が短期間で行われた。上層は、埋め立てた後に新たに掘削された溝となっている。またこの溝からは大量の瓦や大きな礫などの遺物が出土しており、これらを使用して溝が埋められたと考えられている。この濠は城の南側に設けたと考えられ、下層からは干瓦が出土しているが、籠城戦と関係ある遺物は出土しなかった。また、2004年(平成16年)に行われた発掘調査では、江戸時代の生活排水溝は検出したが、積善寺城と関連する遺構は確認できなかった。理由としては、後世の開発により削り取られている可能性がある。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線「和泉橋本駅」
- 徒歩 約10分
- 車でのアクセス
- 阪神高速4号湾岸線 貝塚出入口 → 大阪府道29号 → 大阪府道64号
- 周辺に駐車場なし
参考文献
- 創史社『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、215、218頁。
- 城郭談話会事務局『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、216-217頁。
- 貝塚市教育委員会『貝塚市の史跡と文化財』改訂版、貝塚市教育委員会、2009年3月、43頁。
- 貝塚市教育委員会「秀吉の紀州攻めと積善寺城跡」『かいづか文化財たより』テンブス18号、貝塚市教育委員会、2004年7月、2-3頁。
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積善寺城の口コミ情報
2022年03月09日 イオ左衛門佐
丸山古墳[積善寺城 寺社・史跡]
丸山古墳は古墳前期の前方後円墳で、積善寺城攻めの際に羽柴秀吉が本陣を置いたと伝わります。現在では周囲を住宅に囲まれ、積善寺城は見渡せませんが、直線距離では600mほどしか離れておらず、往時の緊迫感を感じます。
2022年03月09日 イオ左衛門佐
積善寺城
戦国中期に根来衆が築いた城で、小牧長久手の戦いの際には岸和田城攻めの付城となり、羽柴秀吉の紀州攻めでは出原右京を守将として防衛ラインの中核を担いましたが、根来寺出身で秀吉とも親密な卜半斎了珍の仲介により開城し、破却され廃城となりました。
根来出城配置図によれば、近木川南岸に位置し旧熊野街道沿いの橋本集落を二重、三重の堀で囲み、中央部に観音堂(本丸)、四方に矢倉を配した平城で、安楽寺または明教寺が本丸推定地とされますが(位置情報は安楽寺)、発掘調査で堀跡が確認されたのみで地表面には遺構は見られず、集落内の細く入り組んだ道と外堀として活用された南東部の寺池、長屋門や土蔵が建ち並ぶ旧熊野街道に往時の雰囲気を感じられるくらいです。また、旧熊野街道沿いに近木川を渡ったところに説明板が建てられています。
2022年03月08日 イオ左衛門佐
畠中城[積善寺城 周辺城郭]
詳細は不明ながら戦国期に築かれた城で、羽柴秀吉の紀州攻めに際しては神前是光を守将として根来寺に与しましたが、根来衆の籠る千石堀城が落城したことにより自焼して退去しました。
根来出城配置図によれば、近木川北岸の畠中集落を二重の堀で囲み、中央部に方形の居館を配した平城で、神前氏の子孫であり、江戸期には岸和田藩の七人庄屋に数えられた要氏の庄屋屋敷が比定地とされますが、要氏屋敷の発掘調査では畠中城の存在を示すものは発見されず、その所在地は明らかになっていません。
この日(2021/12/16)は貝塚市郷土資料展示室で企画展「貝塚八城めぐり」が開催されており、近くに来たついでに企画展を見学し、さらに徒歩圏内の畠中城(比定地の要氏屋敷)を訪れました。
要氏屋敷は周囲を土塀で囲み、南東辺に長屋門を設けた広大な庄屋屋敷で、北西辺の損壊した土塀の内側には竹藪と化した土塁が見られ、これがそのまま畠中城の遺構ではないとしても、往時の姿をイメージさせてくれました。また、要氏屋敷から南東に徒歩2分行くと、神前氏と要氏の菩提寺である長楽寺がありました。
ところで、企画展の畠中城の展示によると、要氏に伝わる記録では畠中城は集落から少し離れた位置にあったとされ、発掘調査で土器や瓦が多数発見された寺院跡を城としたとも考えられるようです。一応、その推定地(市役所の北西部)にも行ってみましたが、全くの住宅地で何の痕跡も見られず、事実はどうあれそれらしい雰囲気がある分、要氏屋敷のほうが訪れる価値はありそうです。
2020年01月02日 天道式部卿早雲
積善寺城案内板(貝塚中央病院)[積善寺城 碑・説明板]
病院の前に案内板
「根来出城配置図」は3城の縄張り図としても参考になります。
2020年01月02日 天道式部卿早雲
駐車場[積善寺城 駐車場]
1日300円の便利なコインパーキングです。
・根来出城の積善寺城、千石堀城、高井城リア攻めに便利です。
・積善寺城(安楽寺)、その案内板(貝塚中央病院)まで徒歩5~10分
・千石堀城、高井城まで徒歩20~30分ほど
2017年03月17日 橘若狭守次郎吉
積善寺城
JR「和泉橋本」駅から徒歩7分程のところの貝塚中央病院の門の脇に説明板があります。城めぐりアプリが示している場所(安楽寺)には積善寺城に関するものは何もありませんでした。また、付近にある寺池は、堀として使われていたのではないかと言われています。
積善寺城の周辺スポット情報
積善寺城案内板(貝塚中央病院)(碑・説明板)
畠中城(周辺城郭)
丸山古墳(寺社・史跡)
駐車場(駐車場)
時間貸し駐車場(駐車場)