積善寺城(しゃくぜんじじょう)

積善寺城の基本情報

通称・別名

所在地

大阪府貝塚市橋本

旧国名

和泉国

分類・構造

平城

天守構造

不明

築城主

根来衆

築城年

永禄元年(1558)

主な改修者

主な城主

出原右京(根来衆)

廃城年

天正13年(1585)

遺構

(発掘調査:空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

畠中城(大阪府貝塚市)[1.4km]
千石堀城(大阪府貝塚市)[1.5km]
岸和田城(大阪府岸和田市)[3.5km]
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積善寺城の解説文

積善寺城(しゃくぜんじじょう)は、大阪府貝塚市橋本にあった平城。

概要
積善寺城は、貝塚市の南側にあり、近木川に面した段丘上に位置し、北側には小栗街道(熊野街道)が走り、根来寺とは根来街道を介して、つながっている。推定地として貝塚市立中央病院から近木川を挟んだ対岸の一帯で、江戸時代には橋本村の集落があり、安楽寺付近に本丸があったのではないかという伝承がある。和泉の戦いでは根来衆の主力部隊がいた。

沿革
もとは和泉国の四長者の一人、郡吉長者の仏観音堂であったものを永禄元年(1558年)に根来衆と三好氏との戦いの時に、砦をこの地に築き先陣としたのが最初とされる。

天正5年(1577年)雑賀侵攻の時には積善寺城はみえないが、天正9年(1581年)高野攻めには「城郭取立也」とある。また天正11年(1583年)秀吉の紀州攻めでは、中村一氏を岸和田城に入城させ、雑賀衆、根来衆に備えた。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに豊臣秀吉が出撃した隙を狙って、雑賀衆、根来衆連合軍は、中村城、沢城、田中城、積善寺城、千石堀城を5城を付城として岸和田城の5町ばかりを隔てて、翌天正13年(1585年)正月始めまで幾度か小競り合いが続いたが、同年1月16日雑賀衆、根来衆連合軍は7つ付城から岸和田城を攻城、中村一氏隊も反撃している。同年3月18日に雑賀衆、根来衆連合軍は紀伊国より出撃、同年3月21日岸和田城から豊臣秀吉軍が出軍、戦いとなり鳥羽城中村城、積善寺城は放火や落城した。この時豊臣秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳に陣を置き積善寺城と対峙していた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし畠中城、沢城は開城した。

この戦い後積善寺城は破却され廃城となった。

遺構
積善寺城の発掘調査として、2003年(平成15年)に2回、2004年(平成16年)に1回実施された。2003年(平成15年)に行われた発掘調査は個人住宅建設に伴うもので、積善寺城の濠と考えられる遺構が発見された。濠は東西に掘られており、幅は6m以上、深さは1.8mで、U字型に掘り込まれて、石垣は備えていなかった。濠は三層の埋土が確認でき、下層は断続的な水の流れが確認でき、防備目的以外にも排水路との指摘もある。中層は人為的に埋められた層で、埋め立て作業が短期間で行われた。上層は、埋め立てた後に新たに堀削された溝となっている。またこの溝には大量の瓦や大きな礫などの遺物が出土されており、これらを使用して溝を埋めらたと考えられている。この濠は城の南側に設けたと考えられ、下層からは干瓦が出土しているが、籠城戦と関係ある遺物は出土しなかった。また、2004年(平成16年)に行われた発掘調査では、江戸時代の生活排水溝は検出したが、積善寺城と関連する遺構は確認できなかった。理由としては、後世の開発により削り取られている可能性がある。

交通
・電車
JR西日本 阪和線 和泉橋本駅
徒歩 約10分...

積善寺城の口コミ情報

若狭守次郎吉様[2017年03月17日]
JR「和泉橋本」駅から徒歩7分程のところの貝塚中央病院の門の脇に説明板があります。城めぐりアプリが示している場所(安楽寺)には積善寺城に関するものは何もありませんでした。また、付近にある寺池は、堀として使われていたのではないかと言われています。

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