医王寺城
医王寺城([淡輪城 周辺城郭])
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医王寺城の口コミ情報
2026年05月17日 romikun
淡輪陣屋(土浦陣屋) "淡輪陣屋は、文久2年(1862)に土浦藩主・土屋寅直によって築かれた陣屋で、幕末の大阪湾海防を担う重要拠点でした。
徳川幕府成立後、現在の岬町域は谷川藩領・大和御所藩領として桑山氏の支配下にありましたが、寛永7年(1630)に幕府領となり、代官支配へ移行しました。その後、1662年に青山宗俊、1678年に太田資次、1684年に土屋政直が支配を担い、政直は後に京都所司代・老中を経て常陸土浦藩主となりました。しかし、和泉日根郡内11ヶ村(淡輪村など)は引き続き土屋氏領として代々継承されました。
土屋氏は、地域の有力農民を「在地代官」や「大庄屋」に任命し、苗字帯刀を許す代わりに領地運営を担わせました。淡輪村では川村喜左衛門家が代々大庄屋を務め、土浦藩は大坂南瓦屋町の蔵屋敷を拠点として年貢徴収などを行いました。
幕末になると外国船の接近により海防の必要性が高まり、1854年にはロシア海軍提督プチャーチン率いるディアナ号が大阪湾へ来航しました。これを契機に大阪湾防備が強化され、1855年には谷川村の観音崎台場と箱作村台場、1861年には淡輪村黒崎台場、1866年には谷川村豊国崎台場が築かれました。
さらに淡輪村別所には勤番所を拡充した大規模な淡輪陣屋が設置され、馬場や鉄砲稽古場も整備されました。大阪蔵屋敷から奉行や代官が赴任し、海防体制が本格化するとともに、領民による郷兵組織も編成されました。1863年には「大砲御筒浚」と呼ばれる大砲訓練も行われ、郷兵には手当が支給され、名字帯刀を許される者も現れるなど、従来の身分制度にも変化が生じました。
1867年の大政奉還後、幕藩体制は終焉を迎え、1869年の版籍奉還を経て、1870年には土浦藩飛地であった岬地域は堺県へ編入されました。これにより長く続いた土浦藩支配は終わり、淡輪陣屋も役目を終えました。陣屋の一部は深日の金乗寺へ移築されたと伝えられ、現在も医王寺跡には当地で亡くなった土浦藩士とその家族の墓が残されています。(岬町・岬町教育委員会発行(編集:岬町の歴史編さん委員会)の「岬町の歴史」)引用加筆
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台場のための陣屋は淡輪16区集会所付近にあったとされる。
医王寺跡「廃寺」は、淡輪園の東川山手にあるとされる。
医王寺城跡は、望海坂南の給水タンクのある尾根上にある、根来衆の砦であったとのこと。
2021年08月04日 首藤但馬守通宗
常陸土浦藩土屋氏淡輪陣屋 海防陣屋として医王寺跡に設置









