大野城(おおのじょう)

大野城の基本情報

通称・別名

藤白城

所在地

和歌山県海南市大野中、鳥居

旧国名

紀伊国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

山名義理

築城年

天授4年〔南朝〕/永和4年〔北朝〕(1378)

主な改修者

主な城主

山名義理、畠山基国、大内義弘、浅間氏、保田氏、細川氏、山名氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、竪堀、堀切

指定文化財

市史跡(大野城趾)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

日方城(和歌山県海南市)[3.3km]
岩室城(和歌山県有田市)[6.8km]
雑賀城(和歌山県和歌山市)[7.7km]
寺中城(和歌山県海草郡)[8.1km]
弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)[8.4km]

大野城の解説文

築城の経緯
海草郡下津町との境に連なる藤白山は、有間皇子で知られている万葉の地である。その皇子の墓付近は古くより交通の要所で、文治年間(1185~1190)には藤白之関が設けられて熊野街道の監視にあたっていた(『紀伊名所図会』)。この要所に守護争いの拠点として「大野城」が登場したのは南北朝の内乱期であった。

藤白山の高峰に築かれ藤白城とも呼ばれた大野城は、鳥居と大野中の境・標高 443mに東ノ城、その西約500mの標高423mに西ノ城が築かれていた。

『紀伊続風土記』によれば、建武・延元年間(1334~40)の頃、宮方の浅間入道沙弥覚心とその子孫忠成が、正平年間(1346~70)には同宮方の保田山城判官宗兼が守護職として入城していたとある。しかし、「名高浦四囲廻見」(『海南市史』二)は、建武3年(1336)頃、幕府は守護職に畠山国清を、永和4年(1378)頃は細川業秀を送ったと記録している。この業秀の守護職は同年南朝方の橋本正督らの急襲に敗走、そのため幕府(足利義満)は、山名修理太夫義理を紀伊の守護に命じることになる。

大野城を拠点とした義理は、翌年の康暦元年(1379)橋本正督の居城土丸城(大阪府熊取町)や湯浅城(有田郡湯浅町)、石垣城(同郡金屋町)を攻めて南朝方軍勢を鎮圧した。この頃、山陰地方を中心に11か国の守護職を占めていた 山名一族は、その後も勢力を拡大していったため、義満はその勢力に畏怖の念を抱き山名の惣領時義の死に絡む家督争いの隙をみて勢力縮小の策略に乗り出した。このため丹後・出雲地方の守護職山名満幸は氏清や義理を味方に加えて足利幕府に反旗を翻した。のち「明徳の乱」と呼ばれたこの戦いで、義理は大内義弘軍に敗れた。大野城をめぐる支城群「支城日方城とその出城」は、この時一層要害化されたと思われる。

明徳3年(1392)大野城を追われた義理に代って大内義弘が和泉・紀伊の守護職に就き、陶弘宜を城代として大野城に守らせた。この義弘ものち室町幕府に反乱を起こし、応永3年(1399)戦死、代って応永の乱の功績者畠山基国が紀伊守護職に任ぜられたが、基国はまもなく本城を大野から広(有田郡広川町)に移し、弟満則が大野城を守った。

居館
居館は、大野城東ノ城真下に位置し、山名氏は『日方記』に「山名の下屋敷と云ハ、中村(大野中)の東南に一町四反計屋敷跡ありて、今ハ高畑と云フ」とあり、「一町四反」は「馬場共の広サ」だと「系図記録」(『海南市史』二)にある。この館跡は、周囲より少し高台となっているのみで面影はない。その北方、現宝珠寺の地は、家老箕浦右衛門佐の屋敷跡で、山名氏館前方を守るような地にある。

畠山氏の居館も山名氏と同所にあって、「名高浦四囲廻見」(『海南市史』二)に「只今の鈴木屋敷は畠山殿の下屋敷にて御当家になり、鈴木氏、只今の屋敷へ移られしと伝えて都合よろしきなり」とある。

これらの居館は日常生活の場で、背後の山城は緊急時に立て龍って戦う場である詰の城で、「中世城館」と記す根拠でもある。大野城とその麓の館との関係もこの形式であった。

大野城は、築城当時から東西2か所に築かれていたか否かは定かでないが、「名高浦四囲廻見」は「東にあるは本城の跡、西にあるハやくらのありし跡なるへし」と見解を記している。

城跡
西ノ城跡は東ノ城跡よりその規模は小さく「東西八間、南北八間半」(『紀伊続風土記』)で、東西に2段、南北に2~3段の曲輪跡が確認でき、その東側に土塁の一部、また南側の小さな階段状の曲輪の先端には空堀が残る。この北方尾根に「横七~八間、長さ十三間」(『紀伊続風土記』)の「小屋の段」と呼ぶ平坦地があったという。「名高浦四囲廻見」は当地を「昔馬をつなきし所」と説明しているが、今は鉄塔が建つなどしてその跡は確認出来ない。

西ノ城跡の東方の小さなピークにも曲輪らしき削平地が1か所と空堀跡と推測できる窪地に、幅60cmの土橋が残る。この東方に複数の空堀で囲まれた曲輪群がある。その中央の空堀は竪堀となって南斜面に長く延びている。この西を「馬屋ノ段」と呼び、「名高浦四囲廻見」に「これハ昔馬をつなきし所なるとして馬屋の段と云なり」とあり、「其東に小高き山の峰の平なる所あるハこれ本城の跡なるへし」と説明している。この曲輪は東ノ城真下に位置し、そのうえ空堀も土塁も多く、大野城の中枢部であったことを伝えている。

東ノ城は「東西十間許、南北十二間許」(『紀伊続風土記』)の曲輪を頂点に、3段の曲輪から成る。周囲に土塁は確認できないが、その側壁の各所に石垣が見える。また北東下には深い空堀があり、東方下には空堀に挟まれた小曲輪と思われる平地が存在する。西ノ城跡からこの地までが「大野城」である。

大野城は、居城者が目まぐるしく変わる中で、そのつど城郭に手が加えられていった。その構造変遷史は今後の発掘調査などが明らかにしてくれるであろう。

情報提供:海南市教育委員会生涯学習課

大野城の口コミ情報

三河守コーキしゃん様[2012年05月27日]
山道を進んで「雨の森」と言う公園を過ぎると砂利道になります。
石がゴロゴロした砂利道を1㎞程行くと登城口があります。
石積みや石段があったようですが埋もれ見えないのか今はただの三段の切削地でした。
堀切やよく見ると竪堀があります。

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